19.気持ちだけ、ありがたく受け取っておくよ

 三日が過ぎ、表向きは平穏が続いていたが、村には凄惨な事件の残滓が色濃く漂っていた。


 エクトルは畑仕事の合間に村の様子を見渡し、周囲の監視の目が自分に注がれているのを感じ取っていた。


 兵士たちの視線はますます鋭く、その目には仲間を失った怒りが隠されることなく浮かんでいる。


 一方で、村人たちの態度にも微妙な変化が現れていた。

 誰もが口には出さぬが、冷ややかな眼差しで兵士たちを見据え、陰でその存在を疎んでいるのがわかる。その感情のさざ波が村全体に広がり、ひそかに反発の色を濃くしていた。


 エクトルはその様子を見ながら、黙々と鍬を振るい、土を耕す手元に意識を戻した。


(あと三日……三日後には、ユウリが戻ってくるはずだ)


 エクトルはそう自らに言い聞かせ、手元の土をさらに掘り返した。


 どうして自分はこの村にいるのか。自分の存在が、耕すこの土の中に反映されているかのように感じる。そして、たとえどこにも属さぬ者であろうと、選び、行動することが確かな自己の証明なのだと考えずにはいられなかった。


(ただの傍観者に過ぎないという、この感覚が妙に苦しい……)


 自らが存在する理由と、進むべき道を冷徹に思索し続けていたエクトルは、ふと近づく足音に気づき、顔を上げた。


 そこには、先日の事件で救ったトルビンとその家族が歩み寄ってくるのが見えた。

 トルビンの顔には感謝の念が浮かび、彼の娘——確か名前はマリアだったか——が少し恥ずかしそうにエクトルの前に立った。


「エクトルさん、本当にありがとうございました」


 マリアの後ろに立つトルビンの妻も、深く頭を下げ、「改めてお礼を」と小さな声で言った。その感謝の言葉を、エクトルは黙って受け止め、わずかに頷く。


「……あのときのこと、本当に感謝しているんです。俺はなにもできなくて……」


 トルビンの言葉には、助けられた安堵と共に、自らの無力さへの悔しさがにじんでいた。エクトルはその想いを静かに受け止め、言葉はなくともその気持ちに応えた。


 隣に立つ妻もまた、言葉を探すように口を動かし、やがて絞り出すように呟いた。


「どうしても、あなたにお礼を言いたくて……もしあのとき助けが来なかったら、どうなっていたかと思うと……」


 エクトルが見つめる先で、母親は何度も娘のマリアに視線を送り、そのたびに安堵と不安が入り混じった感情が表情に浮かんでいた。


 マリアもまた、母親の隣で静かにエクトルを見上げている。その目には、恐怖を乗り越えた力強さと救われたことへの感謝が宿っているようだった。


「そんな、俺は……」


 エクトルは言葉に詰まったが、ふと視線をマリアに向けると、彼女が少しだけ微笑み、勇気を振り絞るように一歩前へと出た。


「ありがとう、エクトルさん……」


 まだ幼さが残るその声には、真摯な感謝の気持ちが込められており、エクトルは少し驚いたように彼女を見つめた。

 彼は微かに口元を緩め、マリアに向けて穏やかに答えた。


「……ああ、無事でよかったよ。もう二度と、あんな目には遭わないといいな」


 エクトルの言葉に、マリアは小さく頷き、恥ずかしそうに視線を逸らして母親の背後に隠れた。トルビンとその妻も改めてエクトルに頭を下げ、声を落として呟いた。


「俺たちは、村の者全員が、あんたの力になりたいと思っている。今はまだ言葉にするしかできないが、その時が来たら、きっと……なにかできるはずだ。困ったことがあれば、いつでも言ってくれ」


 エクトルは短く息をつき、彼らの言葉を静かに受け止めた。

 トルビンたちの目には、確かに自分への信頼が浮かんでいるのを感じ取った。


 しかしその視線を前に、エクトルは複雑な思いが胸に湧き上がるのを抑えつつ、再び鍬を手に取り、遠くを見つめた。


「……気持ちだけ、ありがたく受け取っておくよ」


 控えめにそう返すと、トルビンたちは満足したように微笑んで小さく頷き、礼を重ねて去っていった。エクトルは彼らの背が見えなくなるまで視線を送り、その後、また一人静かに土を耕し続けた。


 このまま何事もなく過ぎていってほしい——そう思った矢先、エクトルのもとに村長が姿を見せた。

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