あるいは厄災という名の魔女
白井ムク
01.みんなが真実を知ってるわけじゃない
昼日中の田舎道を、一台の荷馬車がゆっくりと進んでいる。
馬の蹄が地面を踏む音が、冷たく湿った空気の中で淡々と響く。その道は、風に揺れる麦畑の向こうへと消え、どこまでも続いているかのように見えた。
馭者の男は四十を越えたばかりで、無精髭の生えた顔には疲れと諦念が深く刻まれている。彼は目元を細め、どこか虚ろな視線を前方に向けているが、その視線の先になにが見えているのかはわからない。
そして、もう一人——。
荷台には、青年が一人、深い思案に囚われたように腰を下ろしていた。
二十代半ば、焦げ茶色の短髪を持つその顔には若さの影が漂っているが、その瞳に宿る光には、深い冷たさと硬さがある。一度すべてを失った者だけが知る、底冷えするような虚無がそこにあった。
青年は時折、ふっと後ろを振り返るが、その目にはもう遠く霞んで見えなくなった街道への未練がほんの微かに映っているだけだ。
虚しさから目を背けるように、彼はそっと瞼を閉じた。
荷馬車がガタゴトと進むたびに、彼の心もまた、遠いなにかを思い出すように揺れている。その感覚は、彼が乗っている荷馬車ではなく、むしろ周囲の景色こそが遠くへと去っていくような錯覚を抱かせた。遠い——それは、距離なのか、時間なのか。
彼がなにを追い、なにを置き去りにしてきたのかは、彼自身にもはっきりとはわからない。ただ、胸の奥でなにかが虚ろにざわめくだけだった。
馭者は無言のまま、古びたパイプをポケットから取り出した。慣れた手つきで火を灯すと、乾いた音と共にくすんだ煙が立ち昇る。馭者はその煙をゆっくりと吸い込み、次の瞬間、渇いた咳が喉を突き上げた。ひどく苦しげに咳き込みながら、目の前に浮かぶ煙を忌々しそうに見つめる。
「……クソッ、このタバコもダメだな」
ひとしきり咳き込んだあと、馭者は口の端を歪め、再び煙を吸い込む。毒だと知っているにもかかわらず、それが彼の唯一の慰めでもあるかのように。
その静かな瞬間には、彼らが進む先に待ち構えるものへの予感と、逃れられない宿命の影が、じっとりと滲み込んでいるようだった。
「……あんた、物書きだったか?」
馭者が突然、無遠慮に口を開いた。彼の目には、探るような鋭さが宿っている。
「そうだ」
青年は少しだけ目を細め、問いかけを避けるようにそっけなく返した。
「王都から来たんだろう?」
「ああ、そうだよ」
青年はわずかに肩をすくめ、短く答える。その冷淡な態度が、かえって馭者の興味を引いたらしい。馭者の目に、微かな好奇の光が浮かぶ。
「なら、ナイトシェードって名前は知ってるはずだ。王都じゃ、あいつらの話で持ちきりだったんだろ?」
馭者の口元に薄い笑みが浮かんでいた。それは、ただの噂話以上のなにかを期待するような、わずかに挑発めいた笑みだった。
青年はその言葉に一瞬、身体を硬直させたが、すぐに顔の表情を整えた。
かすかな動揺がその瞳に滲んだのを見た馭者は、わずかに口角を上げたまま、続けて訊ねる。
「ナイトシェード……聞いたことは?」
「ああ、聞いたことはある。たしかに……噂にはなっていたな」
青年は努めて無表情を保ちながら、視線を遠くの風景へと戻した。だが、その目の奥に、誰にも触れさせない重たい思いが秘められている。
そう簡単に引き出せるものではないのだと、馭者は思った。
「ただ、あれだけ噂ばかりが先走って、実態はさっぱりわからなかったよ。王都でも、みんなが真実を知ってるってわけじゃない」
青年の言葉は、どこか空々しく響いたが、馭者はそれ以上追及しなかった。言葉の裏にあるなにかがわずかに見えたとしても、深入りはしない。それが彼の流儀でもあった。
馭者は無言でパイプを深く吸い込み、くすんだ煙を空へと吐き出す。煙はひらひらと揺れて、風に溶け込むように消えていった。
「……ナイトシェードが下手を打ったせいで、村の空気がすっかり変わっちまったのさ。まだ首謀者は捕まっていないそうだぜ?」
馭者は短く吐き出すように言った。その声は乾いた嘲笑に染まっている。
青年の目は遠くの麦畑を眺めているが、実のところ、なにひとつ視界には入っていないかのようだ。
「王都からの連中が俺たちを監視してるみてぇに目を光らせてやがる。おかげで俺たちは畑を耕すのも気が抜けなくなった。……なんだって俺たちが、反乱者扱いされなきゃならねぇんだ。俺達はただ、平穏に暮らしたいだけなのにな」
馬車の揺れに身を任せ、ただ黙って聞いていた青年は、肩をすくめるだけで応えない。
「まぁ、あんたには関係ないかもな。——でもよ、俺たちには大迷惑だってことだけはわかっといてくれ。横柄な兵士どもはさも自分が支配者のように俺たちを見下しやがる。勝手にナイトシェードを捕まえるだのなんだのとぬかして、俺たちの生活をかき乱してくれるんだ。——ま、とっ捕まえるにも人相がわからねぇんじゃ話にならんがな」
馭者は肩をすくめ、ふと短い息を吐いた。
「まあ、あんたには、それがどれだけの苦痛かわかりゃしねぇだろうけどよ?」
馬車は再びガタガタと進み出した。
農地の向こうに村の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がってくる。
そうして、ルニエ村に着くと、青年はゆっくりと荷台から降り、馭者に数枚の硬貨を手渡した。
馭者は「毎度あり」と商人のように言ってから、今度は思い出したように「そうそう」と言葉を紡いだ。
「マーゴの道具屋はあの角を曲がったところさ」
「マーゴ、さん……?」
馭者はにっと笑い、わざとらしく親指で道を指した。
「この村の口利きさ。一度挨拶しときな。俺のことも、ついでによろしく伝えておいてくれよ。——俺はハンスだ。あんたの名前は?」
青年は振り返り、微笑みを浮かべたが、その目にはなにも映っていなかった。
そして、鼻の頭を少し掻き、静かに言った。
「……エクトルだ」
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