ミエナイヨ

沈黙静寂

第1話

 昔見たことのある黒い夢、人の輪郭を保っていた映像がガス切れのネオンのように明滅し、睫毛の先端でブラックアウトする。何が起きたのかは分からないがそれが現実となった今、溢れ出る叫声とその原因を確かめながら、昔と違うのは孤独の愉悦に浸れないこと。あたしは「???」を拾い上げると蝙蝠のように笑う男の声が届いた。それだけは死守したいと願ったが、男の肢体が纏わり捩じられ何処か遠くへ消えてしまった。闇に包まれたこの世界で愛する存在さえ手放し、空洞から見つめる先はどんな姿をしているか分からない。あたしの宝石はもう戻らない。だから新しく用意しようと思った。



 眼が覚めると沈鬱たる暗闇の中に居た。一面に黒々とした世界で僅かな明かりさえ見当たらない。記憶を絞り出そうと捻った頭は機能せず、ここが何処なのか分からない。サプライズへの答えを期待し、周囲に届かせる上肢からの手掛かりは特に見当たらない。酒の失敗による酩酊や夢遊病、金縛りに罹患した可能性を考えるが思考や内臓感覚に違和は無いので奇妙に感じる。恐らく今この身体は起立しているし呼吸も出来ているはずだ。何らかの人体実験中だとすれば無暗に動くべきではないが、状況に対する飽和と理解への意欲からその一歩を踏み出すことにした。

 妖怪のように伸ばした腕は早くも角張った物体と衝突し、形状と高さからは机と命名して構わないだろうと思えた。その上には文庫本程には幅のある箱が凛然と置かれ、留め具らしき金属に手を掛けると経験の無い感触を覚えた。「今から六個の宝石を見つけろ。お前が手にしているのと同じ物だ」その瞬間、頭上からノイズ混じりの声が聞こえた。自分以外に人が居ることの喜びを音響に添えるが一方的な語りに終わってしまった。実はこの瞬間嘲笑を浮かべたかもしれないし、今のアナウンスが幻聴だった可能性も捨て切れないが孤独の辛酸を舐め尽くすディストピアは避けられた。視覚の不自由な人に対する配慮は有難いと思いつつ、やはりこの状況は仕組まれたものだったらしい。抵抗しようにもその手段と目的を忘れてきたし、他のやることも無い為に脳の中の幽霊と遊んでみることにした。発話内容によれば今手元にある物体が「宝石」であり、残り五つを集めれば何でも願いが叶うということだ。冗談を述べる余裕が出てきた所で、二つ目の宝石の探索へと乗り出ることにした。


 まず目先の机の全体像を確かめようとその縁をなぞる矢先、膝を襲った痛みから椅子の存在に気付いた。脚の負傷は避けたいので両腕を前衛に構え中腰で進むと、椅子は一定の間隔を空けて十数個並んでいることが分かり、短辺を経た反対側も同様であること、幅広のテーブル上には刺繍のあるクロスと宝箱を除いて何も無いことが知れた。現在地のイメージは監禁部屋から客人を招くような大広間に更新され、狂った遊びの舞台はホテルの宴会場や貴族の邸宅を思わせるが、例の少女以外の声は全く拾えないので人の住む家ではなさそうだ。

 テーブルの輪郭を辿り終えてしまったので愈々部屋の構造に入り込む。視界が開けていれば三秒で掴める風景も限られた知覚では想像が困難と化す。いつ手前に階段や落とし穴が迫るか分からないので慎重に一歩ずつ座標を進める。この絨毯が生の実感を保証するように、位置を確かめる術は四肢が奏でる聴覚と触覚のハーモニーに他ならない。しかし似たような部屋や家具に対してはその証拠も不確かなものとして不安を植え付ける。箱から短辺と平行に歩くこと椅子七個分、触れた堅物を撫で回すとこれは壁ではないかと思った。角度を変えればそのまま石膏ボードとのデートが続いたので、間違い無いと確信し外周は左手法で何とかなると安堵した。手を繋いだ物静かな壁はテーブル端と同程度の距離で直角のお辞儀をした後に席を外した。この穴は何処まで続くのかと直線を描けば、直ぐに再会を果たしたので一度この道を選ぶことにした。

 両手を伸ばして丁度届かない程には狭い道を抜けた先は、外周を確かめると四つの通路に通じており、額縁やソファらしき質感の訴えから休憩室のような場所をイメージした。来た道を除く三本から薄い壁を隔てた二つを選べば、靴底のキス相手が絨毯から硬質なタイル調に変化した。奥行きの狭さと反響音、仄かに香るアンモニア臭からここは便所かと予想が立ち、男性性を求めない脳味噌は小便器のフォルムを認めるやその想いを強くする。だがこの中に宝石が隠れる可能性はあるので個室も隈なく巡り、便器の中に手を入れる羞恥心だけは最後に捨てようと思った。同様に女子便所も回るが収穫は得られず、もう一本の回廊を進むことにした。

 暫く行った先は行き止まりに思えたが、よく撫でると腰元の小さい扉が開いて中に入れた。室内は打って変わって寒々とした空気が流れ、便所とは一味違う音響と錆びた匂いが警戒心を煽る。恐る恐る手を出せば洗濯機のような錘と配管らしき円柱が立ち並び、油断すれば転倒を誘う鉄骨の巣がそれらを取り囲む。関係者以外立入禁止の字を後にした気は否めないが、如何にも宝石の寝息が鳴るので上から下まで踊るように探った。しかし発見には至らず、もう一つの扉から次のステージへと向かう。

 温かみと同時に攪乱的な臭気を取り戻した部屋ではこれまた外周からもう一つの通路が確認される。嗅覚の情報価値を認めつつ入口前にはビニール質の塊が幾つも転がり、間仕切を挟んで仲良く列を組む。それらに近寄ると豊満な悪臭が鼻を突き、ここがゴミ捨て場であることは想像に容易かった。奥ではピギィと喚く鼠が駆け抜け、暗中の人間に大した利は無いと耽りながら更にその奥の部屋に入る。開けた空間では滑らかな塗床が足取りを弾ませ、外周は左手の途中で折れ線を描き、機能的な凹凸や水道の存在を確かめるにここは調理場に当たるのではないかと思った。奥手に現れた取っ手からは無機質な冷気が流れ込み、単なる肉塊や植物個体の安眠室であると理解した。冷蔵庫の中身からはやはり住人の存在が疑われ、調理器具に肘をぶつけながら入口右手の通路へ助けを求めた。

 すると中学時代の恋人のような足触りを覚えたので、トロトロと歩けば硬質な素材との邂逅を果たし、調理場からこの広間へと七面鳥を運ぶ姿が思い浮かぶ。戻ることの出来た偶然に感謝し改めて部屋の細部を探ると、初めの通路の反対側にある演壇に躓きかけた後、その左手側に一つ、正面側に二つの穴が見つかったので後者の右手側より攻略してみる。

 次はどんな腐臭が迎えるのか楽しみに抜けると一転して深みのある芳香が鼻腔を癒す。手狭な短辺の後には洋樽らしき物が少なくとも三段以上の階層を為してずらりと続く。オークと葡萄の二重奏からは施設内臓のワイナリーが想像され、これが個人宅だとすれば相当なお嬢様であろうアナウンサーを羨望する。最後の木目に別れを告げれば通路の先が二つに分岐し、左を選ぶと予想の通り元の広間に戻ってくる。無意味な通路に注意しつつもう一方の道は便所前にも似た小スペースと繋がり、同じような家具の配置を認識した。通路はその先にも伸びており、曲がり角を左に往けば再度似たような休憩室が到来し、何の用途があるのかという疑いは無粋と切り捨て、三方向に続く道から広間を除外し右手に入る。

 手応えの弱い扉まで辿り着けば床材は竹製に生まれ変わり、漂う湿気と多数の収納棚、化粧を落とすのに最適な設備からこの場所の一般名詞は想像付いた。念の為全ての収納を洗い出した後、触れた二つの扉には前述より小ぶりなトイレといつでも溺死可能な浴場が広がり、身体を暖めた所で休憩室へと引き返す。何日培われたか分からない汚れも水洗したいが、万一服を失えば探索中のコーディネートは全裸と化し、それも悪くはないと考えた先はまたも休憩室、その先も休憩室、これは何かの間違いかと更なる回廊を抜けた先には完全な行き止まりが待っていた。この範囲で見つけ出せというのか、だがまだ宝石の心当たりは無いぞと不満を垂れる左手はドアノブの無い窪みに触れ、その傍にある機械的な四角形の凹凸がメッセージをくれた。試しに押してみればカチンという音色が谺し、境界の開閉する様からは個人宅にはそぐわない近代の発明品を思わせた。上昇か下降かさえ分からないままその立方体に乗り込み、もしプレス機であれば死体に悲劇を刻むブラックボックスは幸いにも浮遊感を与え、同じサウンドで新たな空気を仕入れた。

 開いた場所から振り返り、外側にしかないスイッチを調べると数が二つに増えていた。察するに前の階は最下層に該当すると思われ、この階層を見回るのも良いけれどまずは何階建てかを把握し、各フロアに割く体力を計算しようと思った。感覚器官のコスト削減はより疲れを生むジレンマに気付き始めた頃だった。

 上階を目指しエレベーターを降りるとまたスイッチが独り身を楽しんでいた。恐らくこれは下向きの矢印、つまりこの建物は三階層で構成され丹念に探せば目標は充分叶うだろうと希望が見えた。中層は後回しに、まずはこの階を攻めようと向かった正面でトイレと出会わし、挨拶を済ませた後にもう一方のルートへ及んだ。開けた場所は浴室程には広いベッドルームとなり、親子三人分の収まりそうな寝台と細々した玩具や本棚が置かれている。これは怪しいと思った宝石の似姿も手触りから違和を感じ、積み木や文鎮の類だろうと見極めた。寝室の薄っぺらい壁は開閉式であると判明し、外に出ると今までに無い爽やかな空気が肺を魅了する。同時に雨のモダリティが降り始め、机の印象からしてこれはベランダか、外に脱出出来るのかと喜んだ矢先を鉄柵が阻み、まだ帰れそうにないよと見知らぬ家族に謝った。

 寝室からベランダの短辺と垂直に往くと小部屋への扉があり、そこには少し異質な雰囲気が漂う。手前には水槽の環境音が鳴り、奥では何匹かの齧歯類が弱々しく柵を齧る。同情とシンパシーを込めて触ろうとすればグジュリと柔らかい触感を覚え、一瞬宝石かと思ったが追求はしないことにした。その横の通路にはまたも休憩エリアが中継し一つはトイレ、もう一つは縦長の構造物に繋がり、額縁の連なる様子から画廊を想起させた。壁紙とアートの間に大した差は無いかもしれないと批判を交えて奥手を往くと、薄っすらと韻律を踏む光景が迫ってきた。今度は荘厳なグランドピアノが居を構えており、活きた鼠による脊髄反射的な演奏を聴いて家主の趣味の広さに感心する。

 ドアノブはあるが開かない部屋、便所、休憩室を経て現れた空間は広間のように幅広の書斎となり、ここで潰れて死ぬなら本望だろう図書の壁に沿って歩く。本のタイトルを想いながら進む次のエリアも同様の造りとなり、唯一異なる小さな作業机の上には何か金属の気配を感じた。起伏の激しいこの構造は文字通り謎を解く為の鍵ではないかと掌に握り締める。机の向かい側に早々と鍵穴が見つかり何度か試すが差し込めず、もう一つの奥まった扉に挑めば解錠を果たし、触り覚えのある景色からは画廊に繋がる扉ということが分かった。そのまま来た道を引き返し見落としは無いかと確認した。

 上階には鍵以上のアイテムが見当たらなかったのでエレベーターに乗り中階へ戻る。単色から変化無いはずの視界の中でこのフロアには一層不穏な色味を感じる。正面に向かえば早速の不連続性を感じ、振り回す右手に当たった何かがギシャンと崩れた。察しは付いたが倒れたのは鋭利な硝子片であり、頼りない糸の束は不様に萎れた花卉だった。一つの花を殺して着いた先は変り映えの無い便所であり、復路に注意を添えて花瓶付近の分岐路を進む。やや広めの休憩室から生える二本は共に円卓のあるホールに続き、この空間のネットワークは一つのトイレと二つの廊下、少しの広間に繋がるようで一先ずエレベーター側の廊下へ進むことにした。

 これは流石に迷いそうだと不安ながら、休憩室を素通りし三叉路に当たった所で右方向を選択する。これまでより長い回廊に忍び足を展開すると再び鍵の閉まった扉が立ち塞がる。扉の横へ伸びる回廊を行き止まりまで詰めると、合計五枚の扉が等間隔で配置され全てに鍵穴の存在を認めた。二度目の出番を待つポケットの中身を真中の扉に掛けると見事に錠は外れ、便所よりも窮屈な個室が覗けた。外周警備中に何かを蹴飛ばしてしまったが嫌な予感がしてその場を後にする。往路から五番目の扉も同じ鍵が通用し、今度は何のコメントも無い個室が広がり、四番目の通路の曲がり角を二回曲がると二番目の扉に通じることが判明した。

 揶揄われるように曲がり角の間の丁字に帰れば直角を経て少しの空間が付随する。休憩室かと思えば重厚なスチール板が前を塞ぎ、筒状あるいは槌状の物が整列するので盗んでしまおうと思ったが、バレたら終わりなのでゆっくりと次の道へ進む。馴染みの休憩室を挟んだ後、先程の扉兄弟と同じような造りの廊下に騙されぐるりと周って戻ってきた。武器庫の奥はトイレ、扉兄弟、曲がり角と接続し、まずはその角を曲がれば直線の終点に鍵の通じない扉があった。そうなると頼みの綱は一番目かと引き返し、念の為性別不詳のトイレの中を探索すると個室の片割れに不思議な箇所があった。親しみのある位置にスライドラッチが存在せず、叩いても返事が無い代わりに小さな鍵穴が顔を出す。まさかと思い汎用性の高い鍵を挿入すると魔境の口唇が膨らみ、新たな回廊へと続いていた。

 これは格段に怪しいと期待しながら、もう一つの扉を開けると静謐な立方体に異臭が蔓延し暗闇の中で何故か眩暈がした。疲れているのか、フラフラした腕は覚えのある箱を手繰り寄せ、確実に本物だと言える宝石を手にした。しかしこれで二つ目か、この先どうなるのかと何も視えない未来を怖がり、踏み付けた指の不快感を残して部屋を出る。

 歩きながらここに至る経緯を回想しようと努めるが、どうしても思い浮かばない。何故こんなことをしているのだろうと今更苛立ちを覚える。恐らく未踏の屈折した経路を歩みながらホール付近へと戻り、残りの通路の一つを選ぶと客間のような場所に着いた。その奥にある空洞からは光の射すような気配がして、常夜灯に群がる蝿のようにそこへ向かった。意識と世界を隔てた向こう側、わたしには仲間が居たことを思い出した。

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