プロローグ

 遠くで、僕の家が燃えていた。

 母さんと過ごした思い出の家が。ベッドで人間の国の物語を読み聞かせてくれた夜が。人間の国の音楽を教えてくれた朝が。母さんと共に生きた十七年の温かな日々が、黄昏たそがれの空にこくえんとなって消えて行く。

り向くな。走れ、オルフェ」

 前を走る父さんが、僕──オルフェの手首をグッ、と引いた。むらさきはだからびる黒いつめが、袖の上から食い込む。僕の手をつかんでいない方の腕には、赤い布に覆われた小さな包みをかかえていた。

 僕はもつれそうな足を必死に動かした。走って、走って、走って。辿たどり着いたのは、島のはしにあるがんしよう。岩の間にかくされた小船に、父さんの手で半ば投げ出される形で乗せられる。

「父さん……!」

 船の上でいつくばったまま、僕は父を見上げた。

 かたまで伸ばした赤みがかったくろかみが潮風になびき、耳の上から生えたつややかな二本の黒い角にからみつく。長い前髪に隠れていた黄金のひとみが、夕焼けをあざやかに照り返している。

 そのいだまなしに、僕は父さんとの今生の別れをさとった。

 ──なにか、なにか言わなくちゃ……。

 これが、父さんとの最後の会話になる。分かっているのに言葉が出ない。何を言うべきなのか、分からない。

 くちびるふるわせるだけの情けない僕へ、父さんはまぶしいものを見るように微笑ほほえんだ。

ろくに顔を合わせる事もなかった俺を、父と呼んでくれるのか」

 父さんはそう言って船のかたわらにかがむと、抱えていた赤い布の包みを僕の胸に押し付ける。

 布の中から出て来たのは、家のさいだんまつっていたはずの、生前の母さんを模した純白の像。

 母さんの遺骨をくだいて納めた、ひつぞうだ。

「オルフェ。母さんは、お前の自由を願っていた。お前の幸せを願っていた──でも、この島じゃそれはかなわねえ」

 父さんが言い終えた直後、黒煙がけぶる赤い空に、高らかに角笛の音がひびわたる。

 次のしゆんかんごうおんと共にだんがいを吹き飛ばし、大小さまざまなかげが空に向かって飛び出した。人型、鳥型、けもの型、りゆう型……あらゆる生き物の形をとりながら、いずれも蝙蝠こうもりに似たつばさを羽ばたかせている。

 母さんが生まれた人間の国で、『あく』と呼ばれる者たち。僕を追うために解き放たれたおびただしい数の彼らは、夕暮れをくさんばかりの勢いで次々と空へ飛び立ち、島の周りをせんかいし始めた。

「どうやら、向こうもなりふり構っていられないようだな」

 父さんは僕に背を向けて立ち上がり、十字に背負った二つの武器をく。

 左手には二メートル近い無骨なかたたいけんに子どものどうたいほどもあるたいほうを装着した、ほうけんグラネーシャ。

 右手には全長一メートルほどでやりさきの付け根に魔力へんかん機構をえ付けた、そうライボラス。

 父さんが魔槍の穂先を魔砲剣の付け根に差し込んでひねれば、がらんどうの砲の中に父さんの瞳と同じ黄金のほのおともり、やみを切りく朝日のようにその明るさを増していく。

「よく聞け、オルフェ。お前が島の『結界』を出るまで、俺はアイツらを落とせるだけ落とす。お前はその船で人間の国に行け。そして母さんの故郷──星都サン=エッラに向かうんだ。あそこならアイツらも、簡単に手出しは出来ない」

 魔砲剣に宿った光を見つけた悪魔たちが、いつせいに父さんに群がる。

 父さんはおくすることなく、魔槍のと魔砲剣のつかを持って、悪魔たちに照準を合わせた。

 せつ、砲から黄金の光がほとばしり、群がった悪魔たちがあとかたもなくはらわれる。迸った光線は、射線上にいた悪魔をらし、空を埋め尽くす黒い軍団の真ん中に風穴を開けた。

「ッシ!」

 歯のすきからするどく息をいた父さんは、全身を使って魔砲剣を四度ぐ。その動きに合わせて光線がじゆうおうじんに悪魔たちにおそかり、ある者は全身を、ある者は翼を灼かれ、海に落ちたなきがらまたたく間に波間へ消えていく。

 悪魔たちがひるんだ隙に、父さんが僕に視線を向ける。

「さあ、お別れだ。オルフェ」

「父さん、僕も……!」

 戦う、と言い掛けた僕に、父さんは首を横に振った。

「ありがとう。俺にはもったいないほど息子むすこを持てて、幸せだった」

 船をつないでいたなわが、剣先であつなく切られる。

「愛してるぞ、オルフェ。お前は自由だ──幸せになれ!」

 再び黄金の光を灯した魔砲剣グラネーシャを下段に構えた父さんは、光線が砲身から迸ると同時に、小船のせんの中央に向けて大剣のみねを振り抜いた。

「っぅわああああああああああ!!」

 ただかんでいただけの小船はていこうもなく海面をはなれ、船尾に受けたしようげきそのまま前方に打ち出された。僕はとつに母さんのひつぞうを抱えてしゃがみ、風圧に飛ばされないよう船べりに必死でしがみつく。宙をび方向転換も出来ない小船を追ってさつとうした悪魔たちの後ろから、光速で連射された光のほうだんさくれつした。

 父さんだ。僕の船を囲むように放たれる光弾で、悪魔の肉体がはじけ飛び、紫の血が海に飛び散りける。

 断続的に通り過ぎる光の弾幕に守られながらじようしようしていた小船が、不意に減速する。放物線をえがいて飛び出した船は、自然のせつに従ってゆるやかに船の先を下に向けた。

 ──落ちる……っ!

 船べりをにぎる手に一層力を込めたとき、と、全身が『何か』を通り抜ける。同時に、後ろから飛んできた光の砲弾が、見えないかべに当たったかのようにさんした。

 ──ひょっとして、『結界』?

 そう頭をよぎった瞬間、船底から衝撃。

 着水した、とにんしきした時にはすでに、もう一度小船がね上がっていた。最初よりも小さな放物線のせきを描いて海面を三度ほど跳ね、四度目の着水でひときわ大きな水しぶきを上げながら、すさまじい速さで海上をすべる。

 いくつもの波を裂きながら減速し、くるりとさきを半回転させた所で、ようやく小船が止まった。

「……あぁ」

 小船の上にへたり込んだ僕の口から、意味のない音がこぼれ落ちる。

 生まれて初めて結界の外から見た僕の故郷は、うなばらの中央にそびえたつ、きよだいな岩石の山だった。やまはだには緑一つなく、黒々としたき出しのいわおさらけ出している。

 そのふもとからちあがる黄金の光線や光弾が、山の周囲を飛びう悪魔の群れをいくとなくつらぬき、蹴散らし、薙ぎ払う。悪魔にかわされたこうげきが、島の周囲を取り囲む不可視の結界に当たり霧散するたびに、轟音と共に大気がれる。

 ──何が、『いつしよに戦う』だよ。

 れることのない光と轟音。絶え間なく襲い来る悪魔たち。ついさっきまで居た戦場を外からの当たりにした僕は、自分の言葉のおろかさに打ち震える。

 ──あそこに残ったところで、僕に何が出来る? 父さんの足を引っ張るだけじゃないか。

 父さんは僕を守るために戦っている。僕が父さんのために出来ることは、悪魔たちにつかまらないようにげることだけ。それが父さんの望みで、僕が取るべき最善。

 ──わかっている。わかっているのに。

「……ズッ……ゔぅう……」

 鼻の奥が痛くて息が出来ない。奥歯がしびれるくらいにめた口からうめきがれ、無意識に力を込めた両手が、船の床をガリリとく。

 なみだあふれて前が見えない。それなのに僕は、逃げ出した島から顔をらせなかった。

「──っ! なに、あれ……」

 不意に、島の真上に何のまえれもなく黒い雲が集まり始める。空気が湿しめり、らいめいが雲の中で響く。

 ──ダメだ、ここに居たら……!

 いやな予感に肌があわった刹那、雷雲から島へとむらさきかみなりが落ちる。

 せんこうばくおん

 落雷の衝撃が結界を通り抜け、僕の乗る小船をき飛ばす。

 悲鳴を上げる間もなく、僕の身体からだは宙をった。

 やけにゆっくりと動く視界のはしとらえたのは、母さんの遺骨を納めたひつぞう

「──母、さんっ……!」

 失うまいとばした手が白いひつぞうつかんだと同時に、僕は黒く波打つ海へとたたきつけられた。

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