第26話

「どうしたんだ?主……ヴェーバー。」


 俺は、奴らに人前で俺を主人だとか敬称で呼ぶのを禁止してるからな。だから、こんな風に呼ばれるのはちょっとぎこちない。


「いや、大したことない。」


 誰かは知らんが、俺は暗黒ダンジョンで何人かの女冒険者に【糸魂大法】を使ったことがある……その中の誰かか?


 まあいい。まずは宿探しだ。俺たちは宿が軒を連ねる商業区に向かった。一通り歩いてみたが、ステラたちが残した【糸魂印】は見つからなかった。まだ到着していないのか?それなら先に宿を決めるしかない。俺たちは特に有名な冒険者ってわけじゃないから、手頃な宿しか選べない。


 ちなみに【糸魂印】ってのは、ストッキング教の奴らなら使える能力だ。ストッキング教の信者が身につけているストッキングは、実は魔力を物質化したもので、それを使ったスキルと組み合わせれば、ラクレジアがストッキングでアンデッドを操るのと同じように使える。俺たちは今、その応用法を研究中だが、このストッキングの魔力は印に変えて簡単な通信手段として使うこともできる。それが【糸魂印】ってわけだ。


 話を宿に戻す。最安の宿は論外だ。ベッド一つだけを借りるような宿で、本当にベッドしかない。部屋なんてなくて、8~10人が一部屋に詰め込まれる。貴重品を保管するための鍵付きの小さな棚はあるが、その鍵なんてあってないようなもんだ。大半は壊れてる。


 そんな宿には当然、個室トイレなんてないし、プライベート空間なんてものもない。俺は、女冒険者が襲われたって話を何度か聞いたことがある。当然、その後犯人は指名手配され、二度とその街に戻れなくなったが、それでも安全とは言えない。


 その上のランクになると個室はあるが、壁は板張りで音は筒抜けだ。それにトイレはやっぱりない。そのさらに上が、俺たちが泊まるランクだ。壁は音を遮る板張りで、簡単なトイレもついている。とはいえ、浴場は共同利用だ。こういう宿は少し値が張るが、夜のことを考えると安宿を選ぶわけにはいかなかった。


 昔、勇者パーティーにいた頃は、最高級の宿に泊まることができた。部屋は広く、ベッドは柔らかく、個別の浴室や作業室まで備わっている。最上級の冒険者ですら一晩泊まれるかどうかってレベルの宿だ。そんな宿に毎晩泊まれるのは、国家の支援を受けている勇者ぐらいのもんだ。勇者パーティーにいた頃の思い出はほとんど苦いもんだが、宿だけは文句なしだった。今でもたまに恋しくなる。


 荷物を片付けて、俺たちは商店街をぶらついた。ラクレジアが薬草を買って薬を調合したいと言う。俺たちのチームには回復役がいないから、薬の備蓄は重要だ。自作すればコストを抑えられるし、品質も管理できる。


 薬草屋を出たとき、ラクレジアの話に笑いながら、目の前の光景に心臓が止まりそうになった。俺の異変に気づいたのか、ラクレジアがすぐに俺の腕を抱き、彼女の体温が俺を正気に戻してくれた。ラクレジアは心配そうな顔をしている。


「俺は大丈夫だ。」

「でも、ヴェーバー様、なんでそんな苦しそうな顔してんだ?」

「俺は……」

「ヴェーバー!」


 答える間もなく、俺の言葉が遮られた。俺が二度と会いたくないと思っていた奴だ。ほんのさっき、その後ろ姿を見ただけで胸が圧迫されるような感覚に襲われ、心拍が上がり、息が苦しくなった。


「お前なのか、ヴェーバー!」


 オリーブだった。


 何度も再会の場面や、その時に言いたいことを頭の中で想像してきた。自分では準備できているつもりだった。けど、実際に目の前に現れると、それが全部無意味だったって気付かされる。胸の奥に何かが詰まったようで、呼吸すら苦しい。言いたかった言葉は喉で詰まり、一言も出てこない。


「無事で本当に良かった!」


 どうやって、過去にあまりにも多くの因縁がある相手と向き合う準備ができるってんだ?特に、俺たちの最後があんな形で終わったんだぞ。


「近寄るな!」


 俺は、近づこうとして両腕を広げた彼女を怒鳴りつけた。その瞬間、彼女は石化したかのようにその場で固まった。


 胃の奥から込み上げてくる吐き気を必死にこらえながら、俺はラクレジアを引き寄せてその場を足早に去った。すれ違いざま、ちらりと彼女の顔を見た。そこには傷ついたような表情が浮かんでいた。


 傷ついた?苦しいのは俺の方だろうが!俺は死にかけたんだぞ!いや、正確にはお前に殺されたんだ!お前に傷つく資格なんてあるわけがねえ!


 とにかく早く宿に戻りたい一心で、俺は近道をしようと裏路地に入った。判断ミスだった。


 背後から衝撃を受け、


「ヴェーバー、ごめんな!」


 俺は、その厄介極まりない甘えた女を力任せに振りほどいた。


「俺が死に損なったのがそんなに残念だったかよ。」


 彼女の顔が苦痛に歪む。


「いやいやいや、アレックスがあんたを殺そうとするなんて思わなかったんだ。」

「でも、お前は俺を裏切ったんだろう。」

「すまない、本当にすまない!」


 彼女は両手で顔を覆った。その仕草で、俺にははっきりと見えた。彼女の指に嵌まっているのは、俺が贈った婚約指輪ではなかった。


「はっ、『高貴な仲間』ってか。」


 俺の言葉に、オリーブは体を震わせ、顔から血の気が引いたように両手を下ろした。やっぱり、泣くフリだったか。


「それは一度だけの過ちで……。」

「過ちかどうかなんて、もうどうでもいい。」


 俺はもう、すべてを察していた。何が起こったのか。俺たちは20年も一緒にいたんだ。オリーブが甘えん坊で、常に不安を抱えている女だってことも知っている。だけどな、寂しいなら俺を頼ればよかっただろうが!


「俺たちはもう終わったんだ!」

「いや、違う、まだ終わっちゃいない!私が一番愛してるのは、今でもあんただよ。」

「じゃあ、勇者を殺せるか?」


 たぶん無理だろう。だけど、愛してるとかそういう問題じゃねえ。俺たちには信頼の問題がある。俺はお前をもう一度信じられるか?ほら、ためらってやがる。


「だったら、話すことはもう何もない。」


 そう言って俺が背を向けた瞬間、オリーブが言った。


「分かった!アレックスを殺すよ。もしそれがあんたの望みならな。」

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