おいしい明日のわたしたち

かめかめ

オーダー1 時也

 ガラガラと玄関の引き戸を開けると、どこかで見たことがあるような男性が立っていた。背が高く、筋肉質で、女性にモテそうな顔とスタイル。誰だろうといぶかしく思っていると、男性が口を開いた。


「大丈夫か、時也ときや


 声を聞いて、やっとわかった。幼馴染の虎狼ころうだ。秋の初めごろにメールをもらって、相撲取りを辞めたとは聞いたけど、半年でこんなに痩せるなんて。


「……どうしたの、病気?」


「病気なのはお前だろう」


 大きなスポーツバッグを肩にかけた虎狼は俺の顔をじろじろと見る。


「顔は洗ったか」


「あ、ああ。まだ」


 力が入らず動けない俺を押しやって、虎狼は勝手に上がり込んで来た。俺の肩をぎゅっと握る力の強さからすると、激痩せしているだけで病気ではないらしい。たぶんだけど。

 子どものころからずっと肥えていたから、一瞬、誰だかわからなかったことは内緒にしよう。いくらなんでも薄情だから。まあ、虎狼には俺がなにを考えてるかなんてお見通しだろうけど。


 虎狼はまるでよく知った家であるかのように、すたすたと廊下を奥へ進む。築七十年というこの家では、玄関から真っ直ぐ進んだ突き当りの壁に、洗面台と鏡がぽつりと取り付けられている。

 虎狼は丁寧に手を洗って、うがいもする。子どものころから几帳面なのは変わらない。


 振り返った虎狼にジェスチャーで玄関側のお茶の間に入ってと伝えて、自分もよろよろと洗面台に向かう。適当に顔に水をかけて、鏡を覗く。今日も酷い顔だ。

 ここ三か月、ほとんど外に出ていないせいで、なんとなく青白くなったようだ。眠れないせいで、目の下のくまはもう染み付いているのかもしれない、黒々している。

 揉み上げもあごひげも不精髭というよりは長くちょろちょろと伸びて、きっとこのままだとサンタクロースになれるんじゃないかなという感じだ。ありがたくない、ブラックの方のサンタクロースに。


 ジャージの袖で顔を拭きながらお茶の間に入ると、雨戸が開いていた。久しぶりに見る昼の光で目が痛い。明るいお茶の間には、入っていったはずの虎狼がいない。どこにいるのか探す力は残っていない。崩れるように畳に座り込んだ。


 台所でお湯が沸いた音がしたと思うと、保温ポットを抱えて虎狼がやって来た。卓袱台に置きっぱなしになっている茶盆の急須でお茶を淹れて、俺の手許に湯呑を差し出した。虎狼は本棚を背にしてあぐらをかいて、まるで家主のように堂々とお茶を飲む。


「時也、良いお茶飲んでるんだな」


「俺は、飲まないよ。……それは大家さんの」


 エネルギーが切れかけで、言葉がとぎれとぎれにしか出てこない。


「飲まないなら冷蔵庫にでも仕舞っておけ、悪くなるぞ。あと半年は海外から帰ってこないんだろ、大家の大屋おおやさん」


「うん……、そうだね」


 茶筒を手にのろのろと台所に行く。妙に広い台所の隅にぽつんと置かれた冷蔵庫を開けると、ついて来た虎狼が中を覗いた。


「ろくなものがないな。毎日なにを食べてるんだ」


 茶筒をしまって冷蔵庫を閉める。それだけで、ため息が出るほど疲れた。部屋に戻って布団をかぶってしまいたいけど、虎狼は質問に答えるまで何度でも聞きなおす。五年生の時に新任の高坂こうさか先生を質問攻めにして泣かせたことは忘れられない。


「飲むゼリーとか」


「いつか死ぬぞ」


「食欲なくて……」


 小声で言うと、まるで言い訳してるみたいだけど、仕方ない。声を出すって、かなり力がいるんだ。虎狼は保存食品が入っている大きな棚を開ける。


「カップ麵と飲むゼリーしかない」


 そこに食品が入ってるって、なんでわかったんだろう。古い家ではみんな同じような作りなのか? 

 そんなことも聞く元気はなかった。もう、体力の限界だ。喋り過ぎだし、動きすぎた。お茶の間に戻って畳に寝そべる。


「大変そうだな、うつ病」


 返事をする気力がない。ぼんやりと吐き気のような気分の悪さをやりすごすだけで精いっぱいだ。目を瞑って不快ななにかを飲み込む。

 ぼりぼりという音が卓袱台の向こうから聞こえる。虎狼が冷蔵庫に入っていた小粒梅干しをお茶うけに食べているようだ。去年、大家さんが世界一周旅行に出かけるときに忘れていったやつ。腐ってないのかな。


「微熱、続いているそうだな。おじさんから聞いた」


 なにか話してるけど、もう言葉が理解できない。


「時也、立春を過ぎたと言ってもまだ寒いだろうに。部屋に戻ってから寝ろ」


 疲れたからかな。なんだか眠れそう。


「眠ったのか」


 体がぐらっとして、暖かくなった。そこから後は、ブラックアウト。




 賑やかな人声が聞こえて目が覚めた。瞼を開けると、部屋がうっすら明るかった。常夜灯が点いてる。昼も夜も電気なんか点けないのに、どうして……。


 しばらく考えて、虎狼が来てたんだと、やっと思い出す。やっぱり俺は薄情なのかもしれない。

 枕もとのスマホを見ると、午後七時過ぎだ。布団まで歩いた記憶がない。虎狼が運んでくれたんだろう。耳を澄ますと、やっぱり人声がする。テレビがついてるのかな。


 何度か寝返りを打って、大家さんの和服が入った箪笥にしがみつきながら立ち上がる。四時間くらい眠れたおかげで、かなり楽になった。

 トイレに寄ってからお茶の間を覗くと、懐かしい顔があった。幼馴染の鳥子とりこちゃんと、その息子の島彦しまひこだ。大家さん宅の留守番をしていると連絡し忘れていたなと思い出す。


「時也、お邪魔してるー」


 おかっぱ頭でグレーのスーツ姿の鳥子ちゃんが箸を持った右手を上げる。


「うん」


「時也くん、ごはんだよ」


 保育園の制服のままの島彦が俺のために座布団を敷いてくれた。


「うん」


 座布団に正座する。卓袱台ちゃぶだいには麻婆茄子と玉子焼き、セリのお浸しがのっている。どれも俺の好物だ。虎狼が取り皿を準備してくれる。


「どうだ、食べられそうか」


 どこで準備してきたのか、黄色いエプロンを付けた虎狼がごはんと味噌汁もついでくれた。味噌汁の具は豆腐とワカメだ。

 食欲なんて全然ない。作ってくれた虎狼に悪いから、なんとか箸だけでも持とう。そう思っただけだったのに、汁椀から上る懐かしい匂いに自然と手が動いた。


 汁椀を取って口に付ける。熱い。味噌汁ってこんなに熱いものだったっけ。こくりと飲むと熱さが喉を焼くようにしてお腹の中を下りていく。甘いような香ばしいような味噌の風味。ワカメから磯の香りも汁に溶け込んでる。飲み込んだ後も口の中に味噌の良い香りと温かさが残って、ほうっと深いため息が出た。


 虎狼がおかずを取り分けてくれて、目の前に三品並んだ。セリの緑、卵焼きの黄色、茄子の紫と刻み唐辛子の赤。こんなにカラフルなものを見たの、どれくらいぶりだろう。

 部屋の電気をつけなくなったのは、明るいだけで目から全身に疲れが広がるからだった。でも今、食卓の色とりどりは優しくて落ち着く。


 炊き立てのご飯を一口。これも熱い。思わず口を半開きにして、ほふほふと小さく息を吹いて冷ます。噛まないうちから、じわりと甘い。噛めば甘さがどんどん増してくる。飲み込むときには柔らかくて優しくて、なんだか泣きそうになった。


「良かった、食べられそうだね。虎狼から聞いてびっくりしたよ。全然ご飯食べてなかったんだって? 言ってくれたら作りに来たのに」


 全然ってことはないんだけど、鳥子ちゃんに詳しく説明するためのエネルギーが足りていない。ちょっと頷いただけでも頭が下を向く。ほんの一噛み、二噛みしただけで正座を続けるエネルギーもなくなって、卓袱台に肘をついた。島彦が俺の腕をぺちぺちと叩く。


「こら、時也くん、行儀が悪いぞ」


 きっと、そう言って鳥子ちゃんに叱られてるんだろう。大人っぽい口調が愛らしい。


「うん」


 でも笑うエネルギーもなくて、ただ小声で返事をするしかなかった。


「島彦、今はいいんだ。時也は具合が悪くて力が出ないんだ」


 虎狼の言葉に、とたんに島彦は心配げな表情になる。


「病気? お熱ある?」


 首を横に振る。それでも心配そうに見上げてくる島彦に説明する。


「MP切れちゃった」


「くすりびんがいるね。僕、探してこようか」


 島彦が好きなゲームの用語で言ってみたら、すぐに理解してくれた。嬉しくなってほんの少しだけど笑えた。


「大丈夫、ありがと。優しいね」


 島彦はにっこり笑った。


「時也、おかず食べられる?」


 鳥子ちゃんに聞かれたけれど、もう無理みたいだ。


「だめそうだね。ラップかけておくから、お腹減ったら食べな」


 三歳年上の鳥子ちゃんは面倒見がすごく良くて、俺と虎狼の母親みたいだと、いつも思う。島彦も俺たちのことを母親の友だちというよりは、自分の兄弟のように思っているふしがある。


 本当にMPがない。卓袱台にもたれかかってなんとか体を起こしているけど、つらい。 

 うつ病って名前は知ってたけど、どんな病気か詳しくは知らなかった。気分が塞いだり、眠れなくなったりするんだろうなとか、うっすらと考えてた。

 自分がなってみてわかったけど、それはうつ病の症状のほんの一部でしかない。気分がどうとかいうのは、俺にはあまり当てはまらない。


 それより症状がひどいのが、体力がどん底まで落ちてしまってることだ。エネルギーが足りなくて、眠ることもうまく出来ない。眠るのがどれだけ大変なことか毎日思い知る。

 起きている世界と夢の世界の間には、かなり高いハードルがあるみたいだ。俺の体力では飛び越えることなんかできなくて、やっとの思いでハードルをよじ登ろうとするんだけど、それも大抵は失敗する。


 ぼんやりしているうちに、鳥子ちゃんと島彦は食事を終えていた。鳥子ちゃんと虎狼が台所で片づけをしている音をぼんやりと聞く。島彦は一人で保育園の黄色いバッグを覗いて遊んでいるようだ。


「虎狼くん、遊ぼ」


 島彦が、台所から戻ってきた虎狼の袖を引っ張っている。


「いいけど、静かな遊びな。うるさくすると時也が疲れるからな」


「わかった」


 説明しなくても、なぜか虎狼は俺の病気のことをわかってくれてるみたいだ。一人でいるより疲れない。不思議な感じがする。

 卓袱台に頬を付けてぼんやりしていると、島彦のお絵描きを見てやってる虎狼に鳥子ちゃんが話しかけていた。


「虎狼、本当にお相撲やめたんだね。そんなに痩せちゃって。肥えてない虎狼を見るのは二十二年ぶりかな」


「三歳から太ってたからな」


 虎狼が父親の言い付けで本格的に相撲を始めたのは小学生になってからだと思うけど。それから本物の相撲取りになるまでずっと肥えていたから、昼間、虎狼の顔を見ても、誰だか一瞬わからなかったんだ。


「結構、いいところまで行ってたんでしょ、番付。もったいないね」


「いいんだ。もう疲れ果てた。俺もMP不足だったんだよ」


「ね、そのMPって、なに」


「ああ、鳥ねえはゲームしないのか。最近流行ってるラジモンとか、知らないか?」


「知ってる。島彦が一生懸命遊んでる」


「それ、RPGって種類のゲームなんだ。HPっていう体力的なことを測る数値と、MPっていう精神的なことを測る数値がある。体力がゼロになっても、MPが残っていれば、気合いで動けたりもするんだが、MPがなくなったら、本格的に動けなくなる。そんな感じだな」


「ふうん。で、虎狼はMPがないの」


「そう。俺はHPは残ってるから動けるけど、時也はどっちも切れちゃったんだろうな」


 わかるようなわからないような虎狼の例え話でも納得出来たみたいで、鳥子ちゃんは「なるほどねえ」と呟いた。


「虎狼もゲームしたことないでしょ。お相撲の稽古ばかりでろくに遊べなかったじゃない」


「相撲部屋に入ってから、兄弟子に借りた」


「そうなの。力士も遊ぶんだなあ」


 しみじみ言う鳥子ちゃんの言葉を虎狼が小さく笑う。


「それはそうだ。稽古しかしないと、あっという間に死んでしまう。飯も食うし、風呂も入るさ」


 鳥子ちゃんが、ぽんと手を打ち鳴らした。


「そうだ、お風呂沸かそうか。時也もお湯に浸かったら、のんびりできるかも」


「どうだ、時也。なんなら風呂掃除するけど」


 小さく首を横に振る。卓袱台に鼻がこすれて、ちょっと痛い。


「そうか。身づくろいもエネルギーを使うからな」


 島彦がクレヨンを置いて虎狼を見上げる。


「身づくろいってなに?」


「風呂に入ったり、顔を洗ったり、服を着替えたり、島彦が苦手なことだよ」


「僕、一人で出来るよ」


「風呂も一人で入れるのか?」


「一人で洗える」


 鳥子ちゃんがお茶を淹れている。緑茶の葉の温かいような、爽やかな香りがする。


「まだちょっと一人では入らせたくないかな」


「お母さん、一人だと怖いんだよね。シャンプーするとき、僕がいないとダメなんだよね」


「そうなんだよねえ。シャンプーの時、目をつぶるとお化けが見てるんじゃないかと思っちゃう」


 虎狼が頷く。


「わかる。なんとなく落ち着かないよな」


「虎狼くんも? 皆おんなじだね。時也くんは?」


 また鼻をこすりながら首を横に振る。


「本当に? 一人で怖くないの?」


 頬を擦りながら頷く。


「本当かなあ。僕、一緒にお風呂入ってあげてもいいよ」


 親切な言葉に頬を擦ってみせる。


「じゃあ、時也のMPが回復したら、一緒に入ったらいいね」


 鳥子ちゃんが言うと、島彦が明るい声を上げた。


「そうだ、くすりびん! 宝箱に入ってるんだった!」


「宝箱って、どこにあるの?」


「保育園の……、あ」


 島彦が言葉に詰まる。虎狼が島彦の顔を覗きこんだ。


「保育園、なにかあったのか?」


 島彦は黙って俯いてしまった。代わりに鳥子ちゃんが説明する。


「お友達とケンカしちゃったのよ。すごいファイトだったらしくて、園長先生に叱られたんだって」


「そうか、いい取り組みだったんだな。勝敗は決まったか」


 島彦は首を横に振る。


「預かりか。それは良かったな」


 鳥子ちゃんが不思議そうに言う。


「預かりってなに?」


「相撲で、勝負の勝敗を決めないことだ。よその地方の奉納相撲なんかだと、預かりで締めることが多いらしいんだが」


「おめでたい感じ?」


「そうかもな」


 島彦は俯いたまま、黙っている。


「明日は弓弦ゆづるくんと仲直りしようか、島彦」


 鳥子ちゃんの言葉に、島彦は首を横に振った。


「ダメなの? なんで?」


「弓弦くんが悪いから」


 鳥子ちゃんが言葉を継ぐ前に、虎狼が島彦の頭に手を置いてぐりぐりと撫でた。


「よし。納得出来るまで、保育園はお休みだ」


 虎狼の言葉に困ったような鳥子ちゃんの声がかぶさる。


「でも、せっかく預かりで問題が落ち着いたのに」


「俺が間違えた。預かりじゃなく、物言いだ。公正な軍配が上がるまで、待つ」


「そうは言っても、私、仕事休めないから……」


「島彦は、ここで預かる。大丈夫だな、時也」


 島彦の面倒を見る体力なんてないことくらいわかってるだろうに、虎狼はなにを言い出したんだ。ぼんやりしていると、虎狼が言う。


「もちろん、島彦の面倒は俺が見る。お前の面倒も見る」


「面倒を見てもらえるのはありがたいけど、虎狼はいいの? 仕事とか、今どうしてるの」


「この家の住み込み家政夫になって時也の世話でもするよ。金のことは心配するな、時也。俺の老後の面倒を見てくれれば問題ない」


 鳥子ちゃんが首を曲げて俺の顔を覗き込む。


「それで大丈夫?」


 少しだけ顔を動かすと、鳥子ちゃんは「ありがとう」と花が咲いたように笑った。


「よし、決まりだ。ちゃんとした食事が出来ないのは、作ることが出来ないのが一番の理由だろう。俺が作ってやるから、食べられるときに食べればいい。俺の部屋はどこでもいいし、布団もいらない」


 島彦がそっと顔を上げる。


「虎狼くん、ここに住むの?」


「ああ、そうだ」


「僕も住むの?」


 心配そうな島彦に、鳥子ちゃんが苦笑しながら言う。


「住まないよ。遊びに来るだけ」


 虎狼が頷く。


「明日も来るんだ。だが、静かにだぞ」


「わかってる。時也くんが疲れちゃうもんね」


 島彦は俺の顔を覗き込んで、にっと笑った。




 玄関のドアが大きな音でガタンガタンと鳴って、目が覚めた。どうやら卓袱台に突っ伏したまま眠っていたらしい。ご飯を食べられたからか、少し体が暖まったみたいだ。


「起きたか、なにか飲め。水分が足りてないだろ。皮膚がガサガサだ」


 顔を上げて卓袱台に肘をつく。虎狼が二つの湯呑に緑茶と白湯を注いでくれた。


「白湯は体を暖めるからな。万病に効く」


「そうなの」


 白湯の湯呑を取って口を付ける。


「あち」


 唇に触れるだけで熱い。湯気が鼻先に届くと、それも熱くて気持ち良い。卓袱台に湯呑を戻して鼻に湯気を当てていると、虎狼が言う。


「ヒゲ、剃ってやろうか」


「いいよ」


「そうか。邪魔くさそうだけどな」


「うん」


 湯気が少なくなってきた。ふうふうと息を吹きかけて一口すする。甘いとか辛いとか苦いとかなにもなくて、温かい。滑らかに優しく舌の上を転がっていく。そうだ、こんな味だった。

 小さいころ、風邪をひくと白湯で薬を飲んでいたんだった。今は風邪じゃないけど病気の俺に、白湯はなんだかぴったり来た。


 一杯の白湯を飲むのに、二分ほどかかったと思う。なにをするにも時間がかかってしょうがない。ふと顔を上げると、虎狼がじっと俺を見ていた。なんだろうと首を傾げる。


「お前の病気は自分の育て方が悪かったせいだとおばさんが言い張るんだって、おじさんから聞いた」


 母のことが卓上に上ると、ずしりと胃が重くなった。


「おじさんから伝言だ。おばさんに病気について説明してみるって。うつ病患者の家族のための勉強会にも行くってさ。あと、生活費が足りなかったら言え、だそうだ」


 黙って頷く。両親には心配も迷惑も掛け通しだ。


「俺がここにいる間の家賃と食費はちゃんと払うからな」


 虎狼は小学生時代から、そういうところ、きちんとしている。


「いいよ。家賃は俺も払ってないんだし」


「今どき、家守を置いて旅行に行くなんて豪儀な大家だな。世界一周の船旅なんて、昔の貴族みたいだしな」


 豪儀なんて言葉を使う方が、よっぽど今どき離れしている気がする。


「ここにずっと住んでる分、アパートのお前の部屋が閉めっぱなしなんじゃないか?」


 頷くと、虎狼も頷く。


「明日、掃除しといてやる」


 ありがたい申し出にお礼を言いたかったけど声が出ず、また黙って頷いた。





 ジリリリンと、どこかで妙な音がしている。夢かと思ったら違うようで、少しの間が空いて、また鳴る。

 ジリリリン。

 ジリリリン。

 なんだか聞き覚えのある音だと思って、枕から頭を上げた。玄関のドアが開いたガラガラという音で思い出した。玄関のチャイム音だ。スマホを見ると午前七時過ぎ。なんだろう。


「すみません」


 若い女性の声がする。


「大家さん、いませんか」


 両手を突いて、なんとか上半身を起こした。でもこれ以上は動けない。


「どちらさまですか?」


 虎狼の声が玄関の方から聞こえた。


「わ、びっくりした」


「すみません、後ろから失礼しました」


「えっと、あの、大家さんは……?」


「旅行中です。留守を預かっている者がいるんだが、動けるかな。見てきます」


「あ、はい」


 たすったすっという軽い足音がして、襖が開いた。ジョギングでもしてきたのか、スポーツウェア姿の虎狼が部屋を覗き込む。


「起きてたか。お客さんだが、動けるか」


 頷いて立とうとしていると、虎狼が腕を持って引っ張り上げてくれた。よろけて虎狼にぶつかる。


「歩けるか」


「うん」


 壁に手をつけば、なんとか歩ける。いつもなら朝はまったく動けないんだけど、昨日、温かいものを食べたからか、虎狼がいてくれて安心したからか、少し楽だ。


 よろよろと玄関に向かうと、見知らぬ女性が立っていた。思わず足が止まった。美少女だ。いや、少女という年齢ではないだろう。二十歳そこそこくらいかな。すごく美しい人だ。同時にかわいくもある。肩のあたりでふわふわしている栗色の巻き毛が絵本に出てくるお姫様みたいだ。

 彼女は丸い目をさらに丸くして俺を見ている。


「こいつが大家の留守番をしてます」


 虎狼が代わりに話してくれる。女性は俺と虎狼を代わる代わる見る。なんとも言いようのない表情だ。強いて言うなら、大家の家の玄関を開けたらヒゲぼうぼうの怪しい男が立っていたが警察を呼ぶべきだろうかと悩んでいるというような顔をしている。


「ご用件は?」


 虎狼が尋ねると、女性は俺から無理に目をそらすようにして答えた。


「あ、えっと。私、ホライズン荘の203号室の日振ひぶりですけど、キッチンの給湯器が壊れたみたいで……」


 女性の言葉を虎狼が遮る。


「ああ、それなら俺が見てみますよ」


「え?」


「電池切れとか配管が外れてるだけなんてこともありますから。時也、出入りの業者の連絡先なんかを大家さんが書き残してるかわかるか?」


 ぼうっとしたまま頷く。


「ガス会社の電話番号があるか見ておいてくれるか」


 また頷く。


「じゃあ、行きましょう」


「あ、はい」


 玄関を出て行く彼女の後ろ姿も美しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る