秘拳の三十五 ユキの正体
空には依然として不吉な暗雲が立ち込めている。
人間の汗を促す暑さも徐々に冷え、今にも大粒の雨が降ってきそうな空模様だ。
「はあ……はあ……はあ……」
しかし、荒く呼吸を繰り返していたユキには関係なかった。
なぜならユキは気を失ったトーガを背負って森の中を彷徨っていたからだ。
河原でトーガとゲンシャが死闘を演じてから半刻(約一時間)。
ユキは清水でトーガの顔を濡らすと、急ぎトーガを背に担いで歩き始めた。
女の体力で男のトーガを連れ回すのは大変な重労働だったが、あのまま河原に居続けるよりは安全だった。
トーガがいつ意識を取り戻すのかも分からなかったし、ゲンシャや取り巻きたちの仲間が現れるか不安だったからである。
それでも延々とトーガを担ぎ歩くのは困難を極めた。
最初は順調な歩き出しだったものの、しょせんは女のひ弱な足だ。
ましてや担いでいる相手は男のトーガである。それゆえに刻が経つごとにユキの歩く速度は遅くなり、四半刻(約三十分)を過ぎた辺りからは亀と同じぐらいの速度まで足の勢いが落ち込んでしまった。
不意にユキは立ち止まり、必死に呼吸音を抑えながら周囲を見回した。
禽獣の鳴き声や人間の足音はなく、聞こえるのは耳障りな蝉の鳴き声のみ。
「ここまで来れば大丈夫」
ユキは一本の樹木に目をつけるなり、その樹木の根元まで歩いてトーガを下ろした。
丈夫な樹木にトーガの体を丁寧に預ける。
「トーガさん、トーガさん」
本人しか聞こえないほどの小さな声で何度も名前を呼ぶ。
それでもトーガは一向に目を覚ます気配がない。
やはり沢の水で少々冷やした程度では熱を取れなかったのだろう。
顔中の至る箇所を腫らしたトーガは苦しそうな呻きを漏らすだけだ。
「何か……この辺に何かないかしら」
ユキはトーガの苦しみを少しでも和らげようと周辺の木々を一つ一つ注視する。
そして多年草が多く見受けられた樹木の中、ユキは若葉に褐色の毛が生えた蔓を見つけた。
クービである。茎は半蔓性で長く伸び、四枚の白い花弁の中央に付着していた果実は熟れる前だったので赤くはなかった。
だがユキはクービを見て安堵の息を吐いた。
クービの茎には胃腸の働きを整える他にも解熱の効果があるとトーガに教えて貰っていたからだ。
ユキはクービが生えていた場所へ駆け足で向かい、他の樹木の枝から垂れていた一本の蔓を強引に引き千切った。
次にユキは手頃な長さに茎を千切ると、ためらうことなく口の中に入れて咀嚼した。
口内に植物特有の苦味が広がり、徐々に茎が泥状になっていく。
咀嚼を続けながらユキはトーガの元へ戻った。
当然の如くトーガは熱に苦しんでいる。健康な者でさえ苦しさを覚えるような有様だ。
地面に両膝をつけたユキは、何の躊躇もなく自分の唇をトーガの唇に重ねた。
わずかに開いた口の隙間から泥状になるまで咀嚼したクービの茎を流し込む。
「うう……ううう」
意識がなくともクービの苦味を舌が感じたのだろう。
半ば咽ながらもトーガは泥状になったクービの茎を飲み込んでいく。
「これでいくらかは楽になるでしょう」
そっと唇を離したユキは、トーガの額に浮かんでいた汗を着物の裾で拭い始めた。
「本当にごめんなさい。私のためにこんな怪我を負う羽目になってしまって」
額に浮かんでいた汗を拭うと、ユキはトーガの前髪を手櫛で整えながら呟く。
「でも、安心してください。もうこれ以上あなたが傷つくことはありませんから」
根拠のない言葉ではなかった。
ゲンシャたちがトーガを襲う理由は一つ。
この黒城島に起こっている異変にトーガが関わっていると誤解しているからだ。
そうでなければトーガが狙われるはずがない。
たとえ祭祀に関わる人間でも島全体に起こっている災厄の原因が一人の人間にあるなど簡単に決めつけるはずがなかった。
ユキは呼吸が落ち着いてきたトーガを優しく抱き締めた。
仮初の肉体を持つ自分でも着物越しにトーガの体温が伝わってくる。
「トーガさん、以前にあなたは私をマジムン(魔物)と勘違いしましたね。ですが、本当に私はマジムン(魔物)ではないのです。しかし人間でもありません」
ユキはトーガの耳元で囁くように言った。
「私は黒城島の常在神なのです」
掠れるような声でユキは言葉を続ける。
「本来、私のような常在神は来訪神たちのように人間に姿を見せることはありません。クバやマーニ、巨岩に住んで人間たちを暖かく見守ることだけが役目なのです。それが琉球国を創世されたアマミキヨ様から命じられた唯一無二の規律でした」
けれど、とユキはトーガから身体を離した。
「私はその規律に反してしまった。あなたを本気で助けたいと思ったから」
今から数日前、自分の住処と選んだ平地で一人の若者が巨大な猪に襲われた。
一部の人間たちが神木と敬う〝クバの木〟が立っていた平地においてだ。
襲われた若者の名前はトーガ。
両親を失ってからは医者として生計を立てる一方、密かに平地で黙々と〈手〉の鍛錬に励んでいたティーチカヤー(手の使い手)であった。
本来ならば猪に襲われた人間を常在神が助けるなど許されない。
常在神の役目はただ人間たちを見守ること。
それだけを心に刻み込んでいればいいとアマミキヨから命を受け、黒城島の常在神として日々を送ることを託されたのである。
なので誰であろうと人間の手助けはしない。
そう固く心に誓っていたユキだったが、巨大な猪に襲われたトーガだけは見捨てることはできなかった。
だからこそユキは躊躇いや葛藤の末に決行した。
トーガを助けるために本来の自分に備わっていた力の一部を使うことを。
かくしてトーガは助かった。
人間よりも危険の本能に長けていた猪は、自分の身を脅かす存在がユキではなく眼前にいたトーガにあると勘違いして逃げ去ったのである。
そのときの記憶は未だ新しい。
クバの葉に隠れていたユキは、力を使ってトーガを助けることができたと同時に姿を見られずにすんだことに一安心した。
トーガ自身もよもや神の力で命を助けられたなど微塵も思わなかっただろう。
しかし、予期せぬ出来事は人間ではなく神の身にも降り注ぐ。
力を使ったユキは誤って足を滑らせ、クバの樹上から地面に叩きつけられたのだ。
お陰で意識を失ってしまい、トーガの家に運び込まれるという失態を犯してしまった。
現世に身を置く以上、常在神にも身体がなければならない。
ニルヤカナヤに住んでいるときはマブイ(霊魂)の状態で事足りるが、複雑な人間の世界に存在するときは必ず肉体という代物をアマミキヨから与えられるのだ。
もちろん土や葉で作られた生半可な身体ではない。
老いと死を除いた他は細部まで人間に似せて作られた肉の身体である。
それゆえにトーガの家で目覚めたときの衝撃は計り知れなかった。
常在神が住処から離れたばかりか人間の世話になったのだ。
「あのときばかりは肝を冷やしました。何せ素性を聞かれても答えられない身分。それで私は咄嗟に記憶をなくした振りをしてしまったのです」
意識を取り戻した後、トーガは驚いた様子で問いに問いを重ねてきた。
だが自分が常在神であるなど言えるはずもない。
仮に言ったところで祭祀とは無縁だったトーガには常在神の意味すら分からなかっただろう。
その後、トーガは自分の素性を話し始めた。
根森村で医者として糧を得ていること、両親はすでに他界していること、村には一人の門中もいないこと。
記憶をなくした女を演じていたので惚けていたが、実のところユキにはトーガの素性など以前から知り得ていた。
「トーガさん、あなたは先刻こうも尋ねてきましたね。なぜ、たった数日間の付き合いしかない自分を信用できるのかと?」
とんでもありません、とユキは小さく首を左右に振った。
「私は数日間どころか十年以上もあなたを見つめ続けていたのですよ」
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