秘拳の三十四 死闘の果てに

 周囲の光景が歪んでいると錯覚するほどの闘気を迸らせたゲンシャに対して、トーガは「そうかもな」と心中で苦々しく呟いた。


 ゲンシャは決して素人ではない。


 角力(相撲)で培われた足腰の強さはティーチカヤー(手の使い手)にも通じる理だ。


 強力な突きや鋭い蹴りを放つのも足腰の強さが決め手となる。


 加えてゲンシャとの体格差が技量の差を見事に埋めてしまっていた。


 背丈では七寸(約二十センチ)、目方では八貫(約三十キロ)。


 そんな体格差のあるゲンシャの突きや蹴りをまともに食らえば打撲傷を通り越して骨折するだろう。


 そして実戦において骨折することは完全な敗北を意味する。


 ましてやトーガは痛手を負っている身だ。


 今は肉体に然したる痛みや疲れは感じられなかったものの、それは意識が覚醒しているからで肉体はとうに悲鳴を上げている。


 つまり意識が穏やかになった後で痛みや疲れが塊となって襲ってくる。


 いつ襲ってくるかはトーガにも分からなかったが、四半刻(約三十分)もかからないことは医者として働いてきた経験から何となく予測できた。


 トーガが短く呼気をしたとき、鼻息を荒げたゲンシャが再び猪の如く突進してきた。


「くたばれや、トーガ!」


 ゲンシャは間合いに入るなり、一欠けらの躊躇なく攻撃を繰り出してきた。


 大木の枝を彷彿させる拳が次々と顔面や胴部目掛けて飛んでくる。


(落ち着け、トーガ。落ち着いてゲンシャの動きを先読みしろ)


 荒波の如き勢いで攻撃をしてくるゲンシャとは違い、トーガは波紋一つ浮かばない水面の如く冷静にゲンシャの攻撃を紙一重で躱していく。


「何でだ! 何で俺の突きが一発も当たらねえんだ!」


 六発の突きを回避したとき、肩で呼吸を始めたゲンシャは疑問の声を高らかに上げた。


(当たり前だ。あんたは素人ではないがティーチカヤー(手の使い手)でもない。注意深く動きを見ていれば拳が飛んでくる場所など分かるさ)


 ゲンシャの問いにトーガは胸中で答えた。


 角力(相撲)の達者だったゲンシャが繰り出してくる突きは、どれも過分な体力に任せた起こりの大きな突きばかりだった。


 これは素人の喧嘩などで多く見られる。


 相手を殴るという行為に意識が囚われ過ぎ、突きを繰り出す前に弓矢の弦を振り絞るように大きく拳を引いてしまうのだ。


 そのような無駄な動作を〝起こり〟という。


 けれどもティーチカヤー(手の使い手)は違う。


 生まれ持った肉体の大小が物を言った琉球の〈手〉に明国の〈手〉の術理を取り入れ、身体の小さな者でも大きな者を打ち倒せる深遠なる技術を生んできた。


 起こりを見抜く眼力も然り。


 十年以上も〈手〉の鍛錬を積んできたトーガには、ゲンシャの相手を殴りたいという起こりが明確に分かるほどの眼力が養われていた。


 ただ角力(相撲)と漁で鍛えられたゲンシャの身体は肉の壁だ。


 最も肉が盛り上がっていた胸板や腹部、二の腕や太股に生半可な攻撃を繰り出しても通用しない。


(だったら狙う箇所はここだ!)


 真っ直ぐ顔面に飛んできた突きを掻い潜るように躱すと、そのまま鋭く踏み込んでゲンシャの懐へ飛び込んだ。


 どんなに肉体が強靭な者でも、打たれれば苦痛に喘ぐ急所が存在する。


 鍛えられない顔面や喉なども急所の一つだったが、やはり闘う相手が男ならば最大の急所である金的を狙う。


 睾丸を強打されればどんな屈強な男でも眩暈、嘔吐、激痛を一度に味わって昏倒するからだ。


 懐に潜り込むことに成功したトーガは、ゲンシャの金的目掛けて蹴りを放つ。


 膝を抱え込んだまま腰の捻転を利用し、中足にした蹴り足を真っ直ぐ繰り出す前蹴りだ。


 トーガは体重を乗せた前蹴りを金的に食らい、睾丸を強打されて昏倒するゲンシャの痛ましい姿を脳裏に浮かべた。


 しかし――。


「先刻はこれで不覚を取ったからな。念のために用心しておいてよかったぜ」


 トーガの前蹴りは不発に終わった。


 金的に向かって繰り出した蹴り足を、丸太のようなゲンシャの両腕で挟み取られたのだ。


 由々しき事態である。避けられるならまだしも足を捕まれるとは誤算だった。


「さあて、トーガ。望みがあるなら聞いてやる。どういう風に痛めつけられたい? 地面に叩きつけられるか? それとも足を折られたいか? 好きなほうを選びな」


「どちらもお断りだ」


「いいね、さすがはティーチカヤー(手の使い手)だ。こんな状況でも一端の減らず口を叩けるんだからな」


 ここにきてゲンシャが饒舌になるのも無理はなかった。


 人間が何か行動を起こす際に必要な足を封じられては反撃も間々ならない。


 これは〈手〉や角力(相撲)などを鍛錬せずとも日常生活を送る人間なら誰しも分かっていることだ。


(俺の運もここで尽きたか)


 自分の不運を感じ取った瞬間、意識の覚醒が途切れたのか頭部を中心に胸部や背中などに熱を伴った鈍痛が蘇ってきた。


 痛みに顔を歪ませたトーガに構わず、ゲンシャは不敵な笑みを浮かべる。


「じゃあ、俺が決めてやる。地面に叩きつけた後に足をへし折ってやる!」


 両手で掴まれていた右の足首に激痛が走った。


 今度こそ年貢の納め時だ。


 地面に叩きつけられ、なおかつ足を折られては勝敗どころか今後の日常生活にも重大な支障が出てしまう。


(すまない、ユキ。どうやら君の力になれるのもここまでのようだ)


 後悔の念を抱きつつ、トーガは茂みへ視線を向ける。頭痛と眩暈のせいで視界は二重に揺れていたが、茂みの中に佇んでいた全身が白いユキの姿は視認できた。


 その直後である。


「トーガさん!」


 突如、今まで沈黙を保っていたユキの声が聞こえてきた。


「そんな人に負けないでください! あなたはそんな人に負けるほど弱い人間ではありません!」


(無茶なことを言うな。ティーチカヤー(手の使い手)でも足を掴まれてはどうしようもできない。海人に言わせれば今の俺は網にかかった魚だ。そして海から船に揚げられた魚の定めは抵抗もできずに捕食されるだけさ)


「トーガさん、気を強く持って心を折らないでください! あなたならきっと勝てます! ですがどうしても無理だと思うのならば」


 腹の底まで響くような凛然としたユキの声が激しく耳朶を打つ。


「あのときのように私があなたに助力します!」


(ユキが俺に助力する?)


 トーガは足首を掴まれながら眉根を細めた。


 仮にユキが助力したところで興奮していたゲンシャを倒すことは絶対に無理だ。


 などと思ったとき、トーガは身体の一部に妙な違和感を覚えた。


 場所はすぐに特定できた。ゲンシャに両腕で掴まれている右の足首だ。


 その足首から痛みが急になくなったのだ。


「ぐああああああ――ッ!」


 痛みが消えた理由に気づいたトーガは、前方のゲンシャに視線を戻すなり驚愕した。


 ゲンシャは自分の頭を両手で挟むように押さえながら絶叫し始めたのだ。


 右の足首に感じていた痛みが消えたのは、ゲンシャ自身が自ら両手を放したからである。


(一体、何が起こったんだ?)


 なぜ、ゲンシャは苦しみ出したのだろう。


 ティーチカヤー(手の使い手)ではなく医者としてゲンシャを診たとき、苦悶の表情を浮かべたゲンシャは口内から大量の涎を垂れ流しながらトーガに震える右手を突き出してきた。


「こ、この野郎……惚けやがって……やっぱり……あ、あの女はマジム……」


「今です、トーガさん!」


 ユキの声に触発されたトーガは、無意識にゲンシャの金的に蹴りを繰り出していた。


 先ほど防がれた前蹴りである。だが今度は防がれなかった。


 足裏の指の付け根――中足の部分にゲンシャの睾丸を捉えた感触を得たのだ。


 ゲンシャは苦痛の声を上げることもできず、股間を両手で押さえながら前のめりに倒れた。


 全身を小刻みに痙攣させ、口からは蟹のように泡を吹き始める。


「勝った……のか?」


 掠れるような声で呟くと、トーガは真横から地面に倒れた。


 まるで一刻(約二時間)以上、黙々と〈手〉の鍛錬を行った後のような疲労感が怒涛の如く押し寄せてきた。


 それに伴って頭痛や眩暈がトーガをさらに苦しめる。


 そこでトーガの肉体は意識を覚醒させるのではなく、あえて消失させることでトーガの疲労や痛みを抑えることを選んだのだろう。


(なあ、ユキ。この際だから包み隠さず教えてくれ)


 左頬に地面の冷たさを感じながら、トーガは遠巻きに揺れて見えるユキに心中で問う。


(君は本当にマジムン(魔物)じゃないよな?)


 やがてトーガの目蓋は塞がり、様々な感情や疑念が渦巻いていた意識は消え去った

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