秘拳の二十  かつてない異変

 一年のうちに最も満月が美しく見えるというジューグヤー(十五夜)の当日、ツカサであるカメの家には百人を超える老若男女たちが集まっていた。


 夏の日差しを完全に防いでいる曇天にも似た、暗く険しい表情を浮かべながら戸口の前に人垣を作っている。


「はあ、はあ……これは一体どういうこと?」


 自宅から一目散に駆けてきたナズナは、乱れる呼吸を整えながら人垣に近づいていく。


 戸口を塞ぐように作っていた人垣を眺めていると、やがて騒がしい群集たちを掻き分けるように現れた女を見つけた。


 顔見知りであるサンダだ。


「ナズナ、よかった。あんたにも話が伝わったんだね」


「サンダさん、詳しく話を聞かせてよ。この空模様は何? 頻繁に起こり始めた地震の原因は何なの?」


 サンダの顔を見るなり、ナズナは心の中に抱いていた不安の言葉をすべて吐き出した。


「私もよく分からないんだよ。ただ、ツカサ様が言うには黒城島全体に途轍もない〝何か〟が起ころうとしているらしいのさ」


「だから私はその〝何か〟を教えて欲しいのよ。あの人たちもそうでしょう? 身の回りに変なことが起き始めたからツカサ様の元へ事情を訊きに来た」


 サンダは弱々しく顎を引いた。


 当然だ、とナズナは群集たちを見据えながら思った。


 事の発端は三日前に起こった地震だ。


 幸いにも家が崩れ落ちることはなかったが、突然の激しい揺れに取り分けて童子や老人たちが打撲や骨折などの怪我を負った。


 しかし、根森村を襲った災いは地震のみではなかった。


 地震が起こった翌日から爽快な晴天が消え失せ、代わりに人々の不安と恐怖を駆り立てる曇天が姿を現した。


 しかも今日まで三日続けてである。


 ここまでくると陽気な島人たちも見て見ぬ振りはできない。


 また近所に住んでいた海人の話によれば、地震が起こった翌日から急に波が荒れ始めたのだという。


 だからこそ、皆は一様にしてカメの家に押しかけてきたのだ。


 今まで平穏に暮らせていた根森村に起こった異変の正体を知るために。


 それはチッチビの一人であるナズナも同じだった。


 今にもマジムン(魔物)やヤナムン(悪霊)たちが降りてきそうな暗色の雲。


 昼夜問わず頻繁に起こる地震。


 枯れ始めたカー(井戸)の水。


 漁に支障が出るほど荒れ狂っている海。


 すべては三日前に起こった地震の翌日から起こり始めたのだ。


 ナズナは暗澹たる溜息を漏らすと、懐に入れていたミンサー(帯)を強く握り締めた。


 末永く愛が育まれるという意味があった白と藍の二本線を刺繍したミンサー(帯)は、三日前からほとんど寝食を削って織り終えたトーガへの求愛の証であった。


 本来ならば今日の夜に開かれるモーアシビ(毛遊び)でトーガに渡す予定だったが、根森村を襲った異変を考えると今日も普段通りにモーアシビ(毛遊び)が開かれるとは思えない。


 それでもナズナは希望を捨てなかった。


 現在は昼過ぎ。


 カメならばモーアシビ(毛遊び)が開かれる夜までに根森村を襲った異変を解決してくれるのではないか。


 そう思ったからこそ、ナズナは織り終えたばかりのミンサー(帯)を懐に入れたままカメの家にやってきたのだ。


 荒ぐ呼吸が正常に戻ってくると、ナズナはサンダの両肩を掴んで激しく揺さぶった。


「それでツカサ様はどこにいるの?」


「ツカサ様なら……や、屋敷の裏……オン(御獄)に……チッチビたちと……」


 首を前後に揺らしながらサンダは答えた。


「オン(御獄)にチッチビたちと一緒にいるのね!」


 サンダの両肩から手を離したナズナは、群集たちが人垣を形成している戸口を大きく迂回して屋敷の裏へと向かった。


 聖域たるオン(御獄)は神職であるツカサを筆頭に、ツカサを補助する役割を持つチッチビたちしか立ち入りを許されていない。


 なので群集たちは戸口に集まり、いずれ姿を現して真意を話してくれるカメを待っているのだろう。


 だが、睡眠不足で神経が高ぶっていたナズナには悠長に待っている暇などなかった。


 ましてやナズナもチッチビの一人なのだ。


 いちいちカメに許可を貰わなくても、堂々とオン(御獄)に立ち入ることができる。


 ナズナは母屋と離れ座敷の横を通り過ぎ、やがて神木と崇められたクバの木とイビ(聖石)が点在するオン(御獄)へと足を運んだ。


「え……どうして?」


 オン(御獄)に到着したナズナは、眼前の光景に目を瞠った。


 イビ(聖石)が真っ二つに割れていたのだ。


 非常に滑らかで綺麗な断面である。


 しかし根森村の中にイビ(聖石)を割ろうと企むような不届き物はいないはずだ。


 また仮に実行しようとしたとしても、巨大な自然石を二つに割ることなど到底無理なはずだ。


 つまり、イビ(聖石)は人の手ではなく自然に割れたことを示唆していた。


 ナズナは激しく動揺していたチッチビたちを無視し、イビ(聖石)の前で腰を丸めて鎮座していたカメに走り寄った。


「ツカサ様、これはどういうことですか? 納得のいく説明をお願いします」


「私にも分からん。なぜ、こんな恐ろしいことが起こったのだ」


 カメは落胆を含ませたくぐもった声を漏らす。


「常在神様がおわすクバの木に毎日祈り、オン(御獄)の掃除も怠らなかった。それなのに、なぜイビ(聖石)がこのように割れた? なぜ太陽が姿を隠した? なぜカー(井戸)の水が枯れ始めた? なぜ地震が頻繁に起こり始めた? 私にはまったく分からん」


 ナズナは独り言のように呟いていたカメに近づき、数日前までは棒でも仕込んでいるのかと疑ってしまうほど伸びていた背中にそっと手を置いた。


「ツカサ様、お気を確かに持ってください。あなたが不用意に取り乱せば私たちチッチビにも少なからず影響が出ます。そうなれば必然的に島人たちも困惑するでしょう」


 カメはゆっくりと首だけを振り向かせた。


「ナズナ、お前は恐ろしくないのかい? 富と平穏に恵まれていた根森の村に次々と災いが起こり始めたんだよ。いや、まだまだこんなもんじゃない。これからもっと恐ろしい〝何か〟が起こるやもしれん」


 高鳴る動悸を抑えるため、ナズナは深呼吸を繰り返した。


「もちろん恐ろしくないと言えば嘘になります。ですが、だからといっていつまでも途方に暮れていても仕方ありませんよ」


「では、一体どうすればいいのだ?」


 ナズナは両腕を緩く組むと、顔をやや下に向けて思案する。


「災いが起こった原因を探りましょう」


 皆の視線を一心に浴びた中、ナズナはふと脳裏に浮かんだ案を口に出した。


「この災いには何か原因があるはずです。それを突き止めて解決すれば、自ずと村に平穏が戻るのではないでしょうか?」


 カメは神妙な面持ちで低く唸った。


「災いの原因など決まっておる。ニライカナイに住むアマミキヨ様の怒りを買ってしまったからに違いない」


「アマミキヨ様の怒りを買った?」


 組んでいた両腕を解いたナズナは、カメに「誰がです?」と問い返した。


「ツカサ様を筆頭に私たちチッチビは、聖域であるオン(御獄)での祈りを懸命に行っていました。掃除も同様です。まあ多少なりとも手抜きはあったかもしれませんが、そんなことで災いが降りかかるならばとっくの昔に村は災いに見舞われていたでしょう」


 ならば、とナズナは右手の人差し指をぴんと突き立てた。


「私たち以外にアマミキヨ様の怒りを買った人物がいるのではないでしょうか? 村だけに留まらず、黒城島全体に多大な影響を与えている災いの発端となった人物がです」


 ナズナの言葉を聞いて、チッチビたちがにわかに騒ぎ始めた。


 当然である。


 チッチビの中でも最年少だったナズナの推測には、一回りも年上の人間たちを行動に移す不思議な説得力が含まれていたからだ。


 ほどしばらくして、カメの真剣な眼差しがナズナを射抜いた。


「だったらお前には分かるのかい? アマミキヨ様の怒りを買った人間が誰か」


「いえ、さすがにそこまでは」


 と、ナズナが言い淀んだ直後であった。


 ――私の声が聞こえる者よ。イビ(聖石)に触れろ。我はニルヤカナヤの常在神なり。

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