秘拳の十八  角力勝負

「ちっ、今度こそ最悪な野郎が現れた」


 ティンダの呟きにトーガは心から同意した。


 ゲンシャは常に数人の取り巻きを引き連れ、我が物顔で根森村を歩き回ることが多い。


 そして気に食わない男は殴り、気に入った女は強引に口説き落とす。


 普通ならば問答無用で村から追放されている。


 しかし、ゲンシャが根森村から追放されることは有り得ない。


 理由は多々あった。


 ゲンシャの父親が根森村の海人たちを取り纏める元締めであること、ゲンシャ自身が石垣島や小浜島の集落で行われた角力(相撲)で悉く相手を倒したという武勇伝を持っていること、またツカサであるカメから男衆の若頭に命じられたことが大きかった。


 カメ曰く、ゲンシャには屈強な男衆を束ねられる素質を持っているからだという。


 だが、どう考えてもゲンシャには人の上に立つ素質があるとは思えなかった。


「せっかくのモーアシビ(毛遊び)だっていうのに男二人で酒飲みとは侘しいな。女の一人や二人ぐらい口説き落とせよ」


 ゲンシャは威嚇するように盛大に唾を吐き捨てた。


「あんたのように力尽くで女を草場に連れ込むような奴に言われたくないね」


 微塵も怯む様子もなく意見したのはティンダだ。


「相変わらず口の減らねえ奴だな。俺はお前よりも年上で男衆の若頭だぞ。だったら、それなりの敬意ってやつを見せたらどうだ」


「敬意? 寝言は寝てから言えよ」


 ティンダはゆっくりと立ち上がるなり、尻に付着していた土を叩き払った。


「俺が何も知らないとでも思っているのか? あんた、今度は妹のナズナに手を出そうとしているそうじゃないか。そんな野郎を尊敬するほど俺は落ちぶれちゃいない」


 強い酒を飲んで気持ちまで強くなった気になったのだろうか。


 今のティンダは態度も口振りも普段よりも大きくなっていた。


「おいおい、気に入った女を口説こうとして何が悪い? この八重山では結婚する前なら何人の異性と寝てもいいんだぜ。それはお前の妹であるナズナも同じだ」


「ふざけるな! それも互いに同意の上でだろうが!」


 大きく胸を張ったティンダは、先ほどのゲンシャを真似して唾を地面に吐き捨てた。


「いい機会だから忠告しておくぞ。今後、ナズナに指一本でも触れてみろ。そのときは俺があんたに地獄を見せてやる」


 ゲンシャは「地獄って何だ?」と太い首を傾げた。


「地獄ってのは明国や大和で信じられている、あんたみたいに悪行を重ねた奴が死後に向かう最低最悪の世界のことだ」


 二呼吸ほど間が空いた後、ゲンシャは喉仏が見えそうなぐらい高らかに笑った。


「そう言えば、お前は石垣島で明国人から明国語を習っているんだったな。それで明国の慣習に毒されたわけか。こりゃあ面白え。琉球人は死んだらニライカナイに逝くんだぜ。善人も悪人も関係なくな。まあ、そこの半端者は分からねえけどよ」


 不意にゲンシャの意識がトーガに向けられた。


「だってそうだろう? 俺たちは生粋の琉球人だ。たとえティンダが言うように地獄なんてグソー(死後世界)があったとしても琉球人には関係ねえ。でも、琉球人と大和人の血を受け継いだ半端者のトーガは果たして死んだらどうなるんだろうな?」


 このとき、トーガは胸が締めつけられる異様な感覚に陥った。


 琉球人と大和人の血を引いた人間は死後どうなるか。


 これは常日頃からトーガが考えていた事柄の一つだった。


 海の彼方に浮かんでいる理想郷――ニライカナイへ逝くのか、それとも明国や大和で信じられている極楽か地獄に落ちるのか。


 グソー(死後世界)のことなど深く考える必要がないことは分かっている。


 けれども平穏な日々を送っているとき、ふと脳裏に過ぎることがあるのだ。


 果たして自分は死んだらどうなるのだろう。


 いや、こうして生きているときも自分は琉球人か大和人のどちらとして生きているのだろうか、と。


「ナズナばかりか今度はトーガのことまで……」


 トーガが思案顔で口元を左手の掌で覆い隠したとき、ティンダは利き腕である右手を固く握り締めた。


「絶対に許さん。ゲンシャ、俺と立ち合え!」


「立ち合う? まさか、俺に角力(相撲)勝負を挑んでいるのか?」


「おおとも!」


 二人の会話を聞いていたトーガは瞬時に我に返るや否や、慌てて立ち上がりティンダの右肩を後方から強く掴んだ。


「落ち着け、ティンダ。ゲンシャと角力(相撲)を取るなんて無謀もいいところだ。それに俺は別に気にしていない。分かったら今の言葉を撤回しろ」


「いいぜ、お前と角力(相撲)を取ってやる。だが間違えるなよ、ティンダ。勝負を挑んできたのはお前のほうからだからな」


「当たり前だ。俺が怪我したときの言いわけでもすると思っているのか?」


 トーガを無視してティンダとゲンシャの角力(相撲)勝負は簡単に成立してしまった。


 事の成り行きを傍観していたゲンシャの取り巻きたちは他の人間たちに話を広め、あっという間に原野に集まっていた人間たちの興味の矛先は二人に向けられた。


 歌を歌っていた者、三線を弾いていた者、踊りを踊っていた者、談笑に耽っていた者たちは原野の中心にわらわらと集まり、やがてティンダとゲンシャの二人を取り囲んだ。


 一方、トーガは拳の骨を鳴らして闘う気概を見せたティンダを説得する。


「ティンダ、気を静めるんだ。ゲンシャと角力(相撲)を取ってお前に何の得がある?」


「得も損もない。俺はお前を侮辱されたことに苛立っているんだ」


「だから俺は何も気にしていないと言っているだろ。今からでも間に合う。適当に誤魔化してここから立ち去るんだ」


 ティンダは「もう遅い」と細い声で言った。


「周りを見てみろ。これだけ場が盛り上がってんだ。さすがに角力(相撲)を取らないで帰ると言っても他の連中が素直に帰してくれるとは思えないぜ」


 トーガは改めて周囲を見渡した。確かに群集たちからは凄まじい熱気が伝わってくる。


 本来、祭祀やモーアシビ(毛遊び)で行われる角力(相撲)は事前に参加者を集うのが決まりだ。


 なので、このように突発的な角力(相撲)が行われることはまずない。


 だからこそ群集は余計に娯楽気質を刺激されたのだろう。本気で角力(相撲)を取ろうとするティンダとゲンシャの二人にである。


「分かっただろう? もう角力(相撲)を取るしかないんだよ」


 トーガは二間(約三・六メートル)前方に立っているゲンシャに目を走らせる。


 すでにゲンシャは着物の上半身だけを開けさせ、腰に巻いていたミンサー(帯)を解けないように強く引き締めていた。


 琉球の角力(相撲)は着物を着たまま行われるのだが、ゲンシャは日頃の漁や角力(相撲)の鍛錬で作り上げた自慢の肉体を披露する癖があった。


(まるで意志を持つ大木だな)


 ゲンシャは性根こそ最悪な男だったが、肉体は性根とは違って素晴らしく発達していた。


 それこそ、ザン(ジュゴン)も素手で捕獲できるのではないかと思えてしまう。


「よっしゃあ、さっさとおっ始めようぜ!」


 意志を持つ大木が意気揚々と移動した。


 一間(約一・八メートル)ほど前に進むと、ゲンシャは立ち止まってティンダに手招きをする。


「トーガ、悪いが行司役を務めてくれないか?」


「俺が?」


「頼む。ゲンシャの取り巻きに任せると不安だからな。その点、お前ならば勝負を公平に判断してくれるだろう」


「あ、ああ……」


 生返事をしたトーガは、ここが運命の分かれ道だと悟った。


 どう贔屓目に見てもティンダの体格ではゲンシャには勝てない。


 ティンダも仕事柄、大きな壷や荷を降ろす作業をしている男だ。


 筋骨の逞しさならば海人にも引けを取らないだろう。


 だが、さすがにゲンシャと角力(相撲)を取るなど分が悪い。


 加えてゲンシャは乱暴者で名が通っている男だ。


 ならば単なる角力(相撲)で事がすむとは思えなかった。


 下手をすればティンダが怪我を負うことも十二分に考えられる。


 いや、怪我だけですんだらいいほうだ。万が一、命を落とすような羽目になったら。


(どうする? ここは俺が代わってゲンシャと仕合うか)


 素人であるティンダとは違い、トーガは十年以上も〈手〉を鍛錬してきたのだ。


 ならばゲンシャと角力(相撲)を取ったとしても、引き分けか怪我を負わないように身を護ることはできるだろう。


 そう考えたトーガだったが、実際には考えただけで行動にまでは移せなかった。


「そんなに心配するな。お前が考えているよりも俺は弱くない。勝てないまでも引き分けには持ち込んでやるさ。だから行司役は頼んだぜ」


 ティンダは一方的に決断してゲンシャに近づいていった。

 

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