5-4「思い出せないこと」

 有紀は入口から最も離れた、端っこの目立たない席に座っていた。ドリンクバーを注文したのか、手元のグラスは橙色の液体で満たされている。遅れたことを謝ったところ、「いいよ別に」有紀はあっけからんとした顔で言った。


 ソファに座るとちょうど店員がやってきて、有紀の前に巨大なパフェを置いた。背を向けかけた店員を呼び止め、ドリンクバーとフライドポテトを注文する。頼んだ品の繰り返しが終わると、客席には僕と有紀だけになった。


「明日、自殺する前に父の墓に寄りたい」


 渦巻き状にホイップされた生クリームの、先端の部分をスプーンで掬いながら有紀が言った。角切りのいちごが転がり、パフェグラスの縁で停止する。彼女はちいさな一口を、美味しそうに食べた。


 有紀は過剰に甘い物を摂取する特性がある。それでも彼女が細い体型を維持しているのは、本人曰く、「他にあまり食事を摂らない」ことが理由らしい。空腹よりも、食事を摂る億劫さが勝つ。たしかにその考えには共感できた。


「じゃあ、明日は九時くらいにいつもの駅で。東京駅から新幹線に乗る。広島までは四時間程度だ」


 有紀はバッグからノートを取り出し、中央辺りのページを開いた。そこには丸っこい文字で、明日の計画が書かれている。同じクラスに在籍してはいるものの、彼女が書く文字を見たのはこれが初めてだった。


 有紀の父親は、広島駅からさらに一時間、ローカル線とバスを乗り継いだ場所で眠っているらしい。


「睡眠薬を飲んで、練炭を炊く。七輪は前に行ったとき、準備しておいた」


 有紀のパフェはこの数分の会話で半分ほどに減っていた。僕は適当な返事をしてから席を立ち、ドリンクバーのコーナーへ向かう。マグカップに温かい珈琲を入れて戻ってくると、テーブルにはさきほど注文したポテトが置いてあった。塩気の多いポテトと珈琲はあまり相性がよくなかった。


「あーうん、睡眠薬ね。処方されたやつがあるよ。ほら、私、精神病だから」


 彼女はたまに、安っぽい皮肉を言う。


 ファミレスは大通りに隣接していて、道路側はガラス張りになっている。僕たちの座る席からは外の景色がよく見えた。間もなく午後十時を回ろうとしているのに、車の数は昼間とそう変わらない。ヘッドライトが一列に並び、一本の太い線のようになっていた。


 店内はほとんど静まり返っていて、BGM代わりのラジオ以外、ときどき厨房が音を鳴らす程度だった。閉店の時間が迫っているのか、洗浄機の回る音が頻繁に聞こえる。足を床に付けずぶらぶらさせていると、距離感を誤って有紀の脚を蹴ってしまった。


「本当にいいの?」


 突然、有紀が言った。明日、君は本当に自殺してもいいのか、ということを訊きたいのだとすぐにわかった。


 有紀への挑発も虚しく、僕は結局、自分の人生に意味を見つけることができなかった。長い時を経て導き出した結論は、僕の人生を、生まれてきたことを否定するものでしかなかった。


 僕が生まれてこなければ、思い人に死を悼まれない哀れな少女も、息子に「遊園地に連れていけ」とせがまれたあげく最愛の夫を失う女性も存在しないはずだった。咲は傷つかないはずだった。


「前は学校であんなこと言ったけど、本当はこれ、元々は生きる意味を見つけるための旅として計画していたんだ。仮に当初の目的で旅に出ていたとして、わたしは、自信を持って生きる意味を見つけることができたと思う?」


 答えに困った。人はみんな生きる意味を求めている。神を信じるようなものだった。結局はこじつけでしかなかったのだと思う。誰かを守るためとか世界を救うためとか、本質的に意味があるとは思えない。


 生きる意味を求めて彷徨う君たちは精神病。これは有紀が言ったことだった。


 必要な人間はそれに応じて勝手に決めればいいし、決められなければ僕たちのように自ら命を絶つか、罪悪感に圧迫されながら息を続けるしかない。


「じゃあ、わたしたちはまるで死ぬために生まれてきたみたいだ」


 僕たちは何か目的があって生かされているわけではない。世界には様々な生物がいて、生態系という仕組みがあって、人間はそこにたまたま上手く挟まっただけに過ぎなかった。そうやって生きている自分たちに意味があると勘違いしている。


「うん、たしかに。偶然の産物に意味を見出そうなんて、おこがましいのかも」


 フライドポテトはなかなか減らなかった。照明は店に入ったときより、薄暗くなっている気がする。いつの間にかラジオは、よく聞く閉店間際の音楽に変わっていた。オルゴールの綺麗な音色を聞いて、ふと、今なら死ねる、と思った。


「本当に、わたしたちの人生って意味がなかったのだろうか。自分を未来へ運ぶために必要な『生きる意味』とは違う。生きた軌跡と言ってもいい。これまで、わたしたちが生きてきた十七年間は、そのまま全部無駄だったなんて、あんまりじゃないか」


 認めたくはなかったが、僕は概ね彼女に同意見だった。このまま自分たちの生きた軌跡がなく死んでいくのは悲惨すぎると思う。


 有紀は「また明日」と言って帰路に就いた。


 その日、夢を見た。稀に見る、あの事故を再現したものだった。


 遮断機の、黒と黄色の縞模様はアトラクションのようだった。高く上を向いたまま、なかなか降りてこない。正面に白い軽トラックがいた。運転席には中年の男、助手席には少女の姿がある。


 バックミラー越しに、母の顔が見えた。見えているのに、母がどんな顔をしているのかわからない。こんな顔だったっけ、と思った。


 身体に大きな衝撃があった。トラックのナンバープレートに書かれていた「広島」という文字を見て、僕は暗闇に飲み込まれていく。どこかで、この地名を聞いたことがあった気がした。


 僕は夢を見てばかりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る