5-3「幸せでかけがえのない夢」

 自転車を引きながら、高架下の道を咲と並んで歩いていた。陽射しのせいで気温は高く感じるのに、捲ったシャツの隙間から入り込んでくる空気は心地いい。「え、そうなの?」、自分のうわずった声がして、あ、文化祭の話をしてたんだった、と思い出した。


「そうだよー。朋海が文化祭実行委員なんだから、準備、ちゃんと参加してあげてよ」

「それは知らなかった」

「先生も言ってたよ。周、いつも寝てるから」

「聞き耳は立ててる」


 あはは、と咲は笑った。「でも聞き逃してんじゃん」、ふわり、柔らかい春のような風が吹いて、身体は丸ごとすくい上げられたようになっている。風で、指先が温まっていくのを感じた。


 進んでいった先には広場のような公園があって、木製のベンチの下に、二匹の野良猫がいた。咲に促されて公園に入り、ベンチの横に自転車を停める。近くの花に止まっていた蜂が、慌てたように飛び立っていった。


 咲と手を繋ごうとして、片手だけでは自転車を引くのに足りず、ハンドルから離れた手をもう一度着地させる。それでもできるだけ彼女の側にいたくて、肩が触れるくらいの距離までそっと近づいた。


「猫だ。かわいい」

「綺麗な虎柄。咲、猫の餌持ち歩いてなかったっけ」

「もちろんあるよ」


 咲がベンチの前にしゃがみ込むと、寝そべっていた二匹の猫が警戒したように顔を上げた。続いて僕がしゃがむと、今度は上体が上がる。咲はリュックを背負ったまま腕だけを後ろに伸ばし、手探りで猫の餌を引っ張り出した。器用だな、と思う。


「ほら、食べな」


 缶の切り口で怪我をしないように配慮したのか、咲は学校でもらった配布物の上に、猫缶の中身をひっくり返した。咲が一歩下がると、猫たちはゆっくりと起き上がり、食事に口を付ける。


「さっきまで警戒してたのに。ずるい猫たちだ」

「でも可愛いからいいんだよ」


 食事の光景を見守っていると、彼らが居座っていたベンチの上に、鳩が止まった。「鳩にはあげなくていいの?」と僕は訊く。咲は今にも転倒しそうなくらい身を引いて、「鳥って怖いじゃん」、悲鳴に近い声で言った。その様子がおかしくて、つい笑ってしまう。


「でも、平和の象徴って言うし……うーん」


 最終的には鳩にも餌をやる気がしていて、実際に咲がその行動を取ったことに心がじんわりと温かくなった。彼女の優しさではなく、想像上の彼女が現実と一致していることが、堪らなく嬉しい。猫をじっと眺める咲の横顔を、僕はしばらく見つめていた。


 上を渡る高架に電車がやってきて、辺りは鈍い騒音に包まれた。咲も猫も、その物音を気にする様子はない。電車が通過して静寂が戻ると、咲は「いきなり電車来てびっくりした」と笑った。


 猫たちは食事を終えると、高架下に並ぶ倉庫のような場所へ消えていった。ばいばい、名残惜しそうに咲が言う。


 雲の向こうに手が届きそうな気がして、力いっぱい、腕を伸ばしてみる。やっぱりと言うべきか、手のひらは空気を掴むだけだった。


「昔、仲良くなった子がいてね、すごく魅力的な子だったの。でも、私より家庭環境に恵まれてて、好きなものも買ってもらえて、それがすっごく羨ましくて」


 どこかで蝉が鳴いている。窓を全開にした通り沿いの家から、掃除機の唸るような音がする。風鈴が、優しく旋律を奏でる。咲のバッグに、里緒の名前が書かれたキーホルダーがあった。


「私は周のことが好きなんだと思う」


 咲の声が遠く聞こえた。夢を夢だと自覚したとき、トイレに行きたくなるのはなぜなのだろう。


「周は人を殺したいって思ったこと、ある?」


 公園に自転車を残し、僕たちは手を繋いで歩いた。ふと、アイスが食べたいと思った。棒付きで、ソーダ味で、頭が痛くなるほど冷たいやつ。


「私が殺したいのはお母さんじゃないよ。私が殺したいのは――」


 道はどこまでも続いていて、きっとこのまま歩き続けても問題はなかった。そもそも、僕たちに行き先は設定されていない。いま、この瞬間を過ごすために足を動かしていた。


 未来のことは何一つ思い描けない。いつもそうだった。


「ねえ」、咲が消え入りそうな声で言った。

「どうしたの?」


 そばに小川が流れていて、僕たちが歩くその向こう、ちいさな池に流れ着いているようだった。この付近にそんな場所があった覚えはなかったが、口には出さなかった。少しでも間違いを犯せば、この時間が崩壊してしまうという確信があった。


「私のこと嫌いになってもいいよ」

「え、なんで?」

「んー、なんとなく」

「嫌いになることはないと思う。嫌いになんてなれないよ」


 意識がほつれてしまいそうなのを、咲の手を強く握って耐えた。「痛いよー」彼女は困ったように笑っている。景色の端っこが真っ白になっていた。この世界の外側から、救急車のサイレンが聞こえた。僕が住む街は、夜になるとよく救急車が走る。


 咲の手を引いて、思いっきり抱きしめた。力を込めたそばから感覚が失われていく。


「どうしたの?」

「なんでもない」


 涙が止まらなかった。足元に、大きな水たまりが広がっている。表面には高い解像度で空が映し出されていて、そこに雲はひとつもなかった。


 上空から雫が落ちてきて、空は歪んだようになる。


「周、大丈夫だよ。大丈夫だから」


 身体が熱かった。隅々まで張り巡らされていた神経は、時間が経つにつれて形を失っていく。背中に腕が回るのを、朧気な意識の中で感じた。


 関係が壊れる前にちゃんと全部話すから、何も言わずに突き放さないから、もっと側にいてほしかった。今度こそ確実に「好き」と伝える。言いたいことは声にならなかった。夢だと気づいて、それを自覚したときにはもう遅かった。景色は端っこから崩壊し始めていた。


「ごめんなさい」、言葉、喉のずっと奥から湧き上がってきた音の振動を、僕はたしかに自分の言葉だと思っていた。


 目を開くと、部屋は夜の闇に溶け込んでいた。


 これだから夢は見たくなかった。幸せな夢を見ると、現実の自分が不幸の底にいるような気がして、その日を生きるということがどうしようもないほど難しく感じる。


 高架下の道で、咲と話しながら歩いた過去はたしかに存在する。過去は記憶に留まり、僕の外側に出てくることはない。共有する相手が現われない限り、それは本当に存在した過去なのかもわからなくなる。


 そういえばあのとき、咲は誰を殺したいと言っていたんだっけ。


 上体を起こし、部屋を見回す。スマートフォンを見つけて時間を確認すると、すでに夜の九時を回っていた。ちょうど、有紀との待ち合わせ時間だった。画面には一件だけ、彼女からのメッセージが届いている。『先に入ってる』、そのメッセージを見て、ファミリーレストランでぽつんと座る有紀を想像した。少し遅れると返信したが既読は付かなかった。


 大きく伸びをすると、濃密な夜の匂いがした。夢の記憶を思考の端へ追いやり、外出するための準備を始める。


 夢のなかは感情が大きく動く、ということがあると思う。目が覚めて残るのは虚しさと憂鬱だけで、悲しみに心を締め付けられることはなかった。ずっと、夢の世界を生きていられればよかったのに。


 有紀と同じタイミングで学校に行かなくなり、それから二週間が経過しようとしていた。母は源さんと別れてからずっと口をきけない状態なので、家に無断欠席の理由を尋ねる電話が入ったとしても問題ない。


 有紀と過ごさない時間は堕落した生活を送った。食事は必要なときだけ摂り、眠くなったら目を閉じた。そうしているうちに、気づけば夜に活動するようになった。人は簡単に堕ちるのだと知った。


 有紀との旅立ちの日が翌朝に迫っていた。


 新幹線で広島へ向かい、今では廃墟となったかつての有紀の家で自殺する。それが僕たちの計画だった。方法は練炭だと言っていたが、苦しくなければ何でもよかった。


 台所のシンクに、レトルトのカレーとパックご飯の残骸があった。封筒だらけだったダイニングテーブルは片付いていて、代わりに千円札が三枚、乗っかっている。こんなときに限って、と思った。


 普段なら何も感じないくせに、死が近いせいか、心が感傷的になりたがっている。三千円には手をつけず家をあとにした。

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