4-5「今では、もう」
がちゃん、という金属のぶつかり合う音で目が覚めた。遅れて、何かが投函されたのだと気づく。身体を起こしてポストを覗きに行くと、最初にピザ屋の広告が出てきた。
ピザ一枚お持ち帰りでもう一枚無料。大きく写真の載ったマルゲリータの味を想像し、寝起きだったせいで胃が重たくなった。続けて残っていた郵便物を一気に引き抜くと、封筒が三通、厚底ブーツばかりの玄関に舞った。
郵便物を一枚ずつ拾い上げ、丁寧に居間のテーブルに並べる。
洗濯機に衣類を放り込んでから、電気が止まっていたことを思い出した。覗き込むと、昨日は洗濯機を回した気になっていたのか、一日ぶんとは思えない量が入っていた。日常で意識しなければならないことが、知らない間に頭から抜け落ちている。
コインランドリーに行く。頭のなかの予定表にメモを残す。
キッチン横の棚から食パンを手に取り、そのまま口に運んだ。封筒に刻まれた、電力会社の名前がしっとりと染み込んでくる。唐突に、昨日、歯磨き粉を買い忘れたことを思い出した。残り少ない歯磨き粉を絞り出す未来に心が沈む。
やらなければならないことが目の前でこちらを見ているのに、自分のなかで適当な言い訳をつけて後回しにしてしまう。いつの間にか、順番待ちのToDoリストが積み重なっている。
いま、この瞬間も僕は登校の準備を急がなければならないのに、行動に移すまでにはいくつもの覚悟を決める必要があるせいでなかなか実行に移せなかった。
咲の「話したいこと、ある」という声が脳内で生々しく再生され続けていた。時計の表示は、家を出なければならない時間にどんどん近づいていく。身体はダイニングチェアからなかなか離れない。次第に、ここが現実なのか、わからなくなる。
それでも時間が来れば僕はリュックサックを背負って家の扉を開けるから、自分でも不思議だった。いつ、どのタイミングで僕は動けるようになったのだろう。
風は冷たくなっていた。季節の変化に気づかなくなっている。空は晴れ渡っていた。快晴といえば灼熱のイメージが染みついていたせいで、景色と感覚の落差に、すこし混乱する。
文化祭中は点呼がないのをいいことに、朝のホームルームが行われている間、屋上で時間を潰すことにした。
図書室脇の窓の外、パイプに足を掛けても、昨日ほどの恐怖は感じなかった。慣れたせいなのか、心が凪いでいるせいなのか、わからない。屋上の地面に手を付いたとき、やっぱりプールのような匂いがした。
屋上の縁にそっと手を置いて、下を覗き込んでみる。高所から見る地面は半永久的に広がっており、吸い込まれてしまいそうだった。ここから落ちたら死ぬだろうか。案外、うまく着地できるかもしれない。
「ここから落ちたら死ぬのかな。いやたぶん、わたしなら上手く着地できる。やってみようかな」
後ろから有紀の声がした。同じことを考えていたと伝えると、「わあすごい」片言で話すみたいに有紀は言った。
「昨日の夜、野良猫の音がすごくて眠れなかった。にゃーにゃーうるさくて困る」
彼女は僕の隣にやってくると、その場でスカートの裾を強くはたいた。砂埃が舞い、視界の解像度が低下する。有紀の白い脚の、いつか見た痣はもう跡形もなくなっていた。
空を見上げると、高校を囲むように灰色の雲がかかっていた。僕たちは偶然、奇跡的な確率でできた曇り空の真ん中の、ごく僅かな晴れの世界にいた。
「面倒だ。このままサボろうよ、ここで」
どん、と鈍い音を立てて有紀は座った。せっかく砂埃をはたいたのに、と思う。芋づる式に、帰ったらコインランドリーに行かなければならないことを思い出して憂鬱な気分になった。生きるためにしなければならないことはたくさんあって、人々はそれらを問題なくこなしている。義務がひとつ追加されるごとに心を重くしたりは、しない。
「同じ中学の子、えっと、名前なんだっけ。忘れたけど、一緒に出かけてた?」
どうして知っているのだろう。疑問に思ったが訊き返さなかった。代わりに石橋が有紀を殺したがっていたという話をしてやった。彼女は「おー」とだけ言った。しばらくして、一般客受け入れ開始の放送が入った。
「どこ行くの?」
もちろん、咲との約束を放棄するわけにはいかない。パイプに足をかけ、四階の窓に身を滑らせる。この階で出し物をしている教室はないため、廊下はひどく閑散としていた。
『教室の前にいるよー!』
メッセージのとおり咲は教室の前にいて、こちらに気づくと、「あ、おはよー」明るい声で言った。
「ホームルーム、いた? 今日休みなのかと思った」
図書室にいたと嘘とを吐いた。「あそこ人いないもんね」、目を細めて咲が笑う。
この日の天気予報は曇りのち晴れだった。上空を除いて無限に広がっていた雲は、その僅かな隙間を埋め尽くし、一日が終わる前にどこかへ消えていくらしい。今日という日にそれだけのドラマがあることを考えると途方もない一日になる気がして、僕は早速学校に来たことを後悔した。
「昨日ね、気になってたの。二年七組のベーグル」
咲の手には文化祭のパンフレットがあった。以前、似たようなもので仰いでもらったことをよく覚えている。気の遠くなるような過去でいて、やろうと思えば再現可能な過去でもあった。
咲と並んで階段を降り、二年生の教室を目指す。廊下は知らない上級生たちで賑わっていて、その横を僕たちは談笑しながら通り過ぎた。二年七組の教室は、中央階段を降りてすぐだった。
教室の中は、二日目が開始してから十分も経っていないのに、すでに十人ほどの列ができていた。「最後尾」と書かれた案内プレートを持つ生徒に誘導され、列に並ぶ。机には、プレーンや紅茶、ココアといった王道の味たちの他に、七色を纏った禍々しい見た目のベーグルが並んでいた。『人気No.1』、ラミネート加工のポップに照明が反射して、眩しい。
「禍々しくないよー。虹みたいで綺麗じゃん!」
咲が口を尖らせて言う。表情はすぐに笑顔へ変化した。季節の移り変わりってたしかこうだった、と思い出した。
僕はプレーンのベーグル、咲は虹色のものをそれぞれ購入し、食べる場所を求めて校内を彷徨った。自分たちの教室、南校舎の空き部屋、校庭。そのどれもが不発に終わり、最後は中庭に落ち着いた。屋上へ続く扉の前のスペースは、有紀と鉢合わせたら面倒だったため、提案しなかった。
中庭には人が二人寄り添うようなオブジェがあって、その足元には「卒業生 贈呈」と書いてあった。卒業年は掠れていて解読できない。何年前にしろ、卒業生たちの意思が介入しなかったことは容易に想像できる。
中庭からは、校舎の廊下がよく見えた。教室がある南校舎は多くの人が行き交っていて、反対に職員室や化学実験室がある北校舎に人の姿はなかった。連絡通路には窓がないため、ここから人の有無は確認できない。
僕たちは古い校舎に似合わないアイアンウッド調のベンチに腰を下ろした。
「いただきます」、と小声で咲が言った。虹色のベーグルの、太陽みたいに黄色い部分を小さな口で頬張っている。「んー!」彼女の、その味を訴えようとする満面の笑顔が眩しかった。いや、咲にそのつもりはなくて、ただ自然に反応を示しているだけなのかもしれない。外界からの刺激に対して、純粋に反応を示せることが羨ましかった。
「食べる?」
無機質なプレーンのベーグルを咀嚼しているとき、目の前に虹色が差し出された。好意に甘えて一口囓る。見た目とは裏腹に、意外と美味しい。「でしょー」声、柔らかい音の塊が、ふんわりと鼓膜を揺らす。
芝の、清々しい匂いがしていた。空に青い部分は見えないのに、芝の匂いはひどく晴れ渡った空を連想させる。
違和感を抱かせるものは何もなかった。この先も同じ日常が淡々と流れていく気配がしている。「話がある」という言葉は聞き間違えだったのかもしれないとさえ思えた。
ベーグルを食べ終わると、僕たちは自分のクラスで射的をしたり、同学年と三年生が運営するお化け屋敷をそれぞれ回って比べたりした。咲は目を細めて笑う。僕もおそらく笑っていた。
どうして物事は変化してしまうのだろう。代わり映えのない、同じような日々をずっと繰り返していたかった。それなのに、生きていれば嫌でも変化を強制させられる。変化に順応するためには毎回、自分が心に持つ、核のようなものを丸ごと入れ替えなければならない。
世界で、自分だけが悩んでばかりのような気がした。そんなことはあり得ないと頭ではわかっている。それでも、直感的に理解するまでは、届かない。
世界の人々の悩みを本にしたら、何冊の文庫本ができるだろう。もしかしたらみんなの悩みは同じようなことばかりで、案外、薄っぺらい一冊だけができあがるのかもしれない。
咲はセピア色のフィルターが似合いそうな笑顔をしていた。風景は彼女が笑ったそばから記憶に沈んでいく。耽る間もなく沈んだ記憶は溶けていく。
「そしたら成美が思いっきり転んでね、みんなすごいびっくりしたんだけど、あの子は全然けろっとしてて」
時間は何ごともなく過ぎていった。目を離した隙に風は心地よくなり、太陽が顔を出した。
文化祭終了十分前を知らせる放送が入った。一般客は少しずつ姿を消し、それでも廊下は生徒たちで賑わっている。後夜祭、という言葉が耳に入った。
話って、なに。自分の声が遠く聞こえた。
視界の端で、咲の肩がちいさく跳ねる。僕は正面を向いたままだった。隣で咲がゆっくり振り向くのがわかる。「ん」、一文字の前置きから数秒経って、彼女は「人いないとこ、行こ」と言った。
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