4-4「あと一歩」
文化祭の初日は誠の提案により、咲と朋海を合わせた四人で回ることになった。
新学期開始から一週間で段ボールの加工は終了し、教室の飾り付けは最後の数日で終わった。その二週間、僕はアルバイトをしたり、誠や咲とともに文化祭の準備を手伝ったりした。
教室の後方に置かれた段ボールの塊はどんどん体積を増やし、スペース確保のために全員の席が少しずつ前に動いた。
関係を終わりにしよう、という類いの言葉はまだ口にできていない。喉元まで差しかかった言葉も、咲の手を握ればすぐに消滅する。このまま普通に関係を続ければいいのではないかという気持ちが邪魔をする。そういうとき、こんな僕の自己肯定に利用して申し訳ない、と考えれば幾分か楽になった。
里緒のことを訊こうと思った。そして、自分のことも全部話そう。受け入れてもらえなかったら、そのときは潔く彼女の元を去ろう。それが咲の人生にとって最善であることは疑う余地もなかった。
眠る前、毎晩のように咲のことが頭に浮かんだ。そして僕は本当に咲のことが好きだったのだろうか、と考えに行き着く。例えば交際が開始したあのとき、一時の感情の高まりを好意と勘違いしたのではないか。
感情とはどのようなものをいうのだろう。辞書には『物事に対する心の動き』とあった。心が動いたことを客観的に観測することは難しい。続けて、愛情という言葉を調べてみる。例文に「母の愛情」とあって、すぐに辞書を閉じた。
出し物の役員は、シフト制で分担するようだった。僕の当番は一日目の午前中、誠や咲たちと同じ時間帯だ。そのため、四人の予定を合わせるのは容易だった。
僕たちが当番をしているとき、誠と朋海の母がそれぞれ顔を出した。朋海の母は小学生ほどの男の子を連れている。彼女に弟がいることを初めて知った。誠は持ち前の子どもっぽさで朋海の弟と親睦を深めていた。たぶん精神年齢が同じなのだと思う。
「ふふ。うちの子、よろしくお願いいします」
「いやだから別に俺ら付き合ってないって!」
「誠くんはおもしろいね。大切にしなさいよ」
「もう。私たち付き合ってないってば」
誠の母は陽気で、話し方や振る舞いのところどころに若さが見えた。化粧と服で固めた僕の母親とは異なり、どちらかといえば自然に近い若さだ。それに、誠と同じ種類の明るさを持っている。
年齢で言えば僕の母のほうが断然若いはずなのに、見た目とは別の部分に柔らかさがあった。
何を考えていたのかはわからないが、咲は「あはは」と笑いながらそれぞれの会話に参加していた。僕の家族は来なかった。咲の家族も来なかった。
僕は最初からそれを最初から知っていたし、咲もそれは同じようだった。
母が消えてから二週間以上が経った。事故に遭ったなら警察や病院から連絡が来るだろうから、どこかで生きてはいるのだと思う。仕事には行っているのだろうか。食事は摂っているのだろうか。何もわからない。
自分から母に連絡するようなことはしなかった。
母がいなくなった最初の一週間、電気が止まった。配線の不具合なのか電気代を払っていないせいなのか、僕に確かめる術はない。
携帯の充電は学校やカフェでできるし、照明がないことに不便はしても、生活できないことはない。水道とガスは問題なく通っている。給湯器が付かないから風呂が不便だと思いきや、残暑が続いているおかげで温水が出なくても問題はなかった。
中学生のころも、ときどきこういうことが起こった。母は男の元で生活し、本来過ごすべき家には姿を現さなくなる。こういう場合、数週間から一ヶ月ほどで母は戻ってきた。今回も同じだと思う。
冷蔵庫の卵が腐っていることに気づいたのは昨日のことだった。温泉の匂いを比喩するのに、「卵が腐ったような匂い」という表現を使うのは正しい。それでも、腐っているという先入観のせいか、匂いはひどく不快なもののように感じた。冷蔵庫の中身を全部捨てても、窓をすべて開放して換気しても、部屋はいつまでも温泉街の匂いがした。
自分で卵を買った記憶はないから、あの日、母が目玉焼きを作ったものの残骸に違いない。
生活費は貯金とアルバイトで充分賄えた。掛かる費用は食費とシャンプーなどの生活用品くらいだ。母がいなくても、ある程度は生きていける。でも、このままずっと帰ってこなかったら僕は死ぬのだろうか、とも思う。
有紀のように迷いなく死を選ぶために、自分に足りないものを考えている。喫茶店で、石橋に「死ねばいいのに」と言われればもっと楽だった。
咲との時間は早く過ぎる。文化祭一日目の終了を知らせる音楽が流れ始めたころ、僕は咲に声を掛けた。あの、と言った声が、「ねえ」とこちらを振り返った咲の声と被った。明らかに、咲は僕の声を遮るように言った。
「明日は二人で回らない?」
話し始めるタイミングが被ったとき、咲はいつも話の主導権を譲ってくれる。しかし、今回はいつものようにはいかなかった。
「話したいこと、ある」
咲は僕に目を合わせずに言った。ついにそのときが来たのかもしれなかった。今から話すのではダメなのだということは、彼女の表情を見ればすぐにわかった。
「明日までに、覚悟決めてくるから」
咲は目を固く閉じて言った。
ホームルームの終了後、二日目に向けた準備をやり過ごすため、屋上に避難した。封鎖されているため実際に屋上へ出ることはできないが、扉の前の空間は人が来ないため、一人の時間を過ごすという点では図書室よりも信用度が高い。
ほとんど誰も使わないその階段はひどく埃っぽかった。身体を動かすたび、空中に巻き上げられた埃が日光でキラキラと輝く。扉の前まで来たとき、進入禁止の貼り紙が大半を覆う窓の向こうに、人影が見えた。溜息を吐く前に、それが有紀であると気づいた。
窓を叩くと有紀も気づいたようで、小さく手を振ったあと、こちらへ駆け寄ってきた。それから指で下を示し、何かを訴えかけようとしている。よくわからず首を傾げると彼女はスマートフォンを取り出し、何かを打ち込んだ。
数秒を経てこちらに向けられた画面には、『図書室の横の窓から来て』と書かれていた。
屋上へ続く階段の横、四階の廊下の角に図書室は位置している。そのすぐ手前にある窓は、閉じてはいるものの、よく見たら鍵が開いていた。周囲を見回し、人がいないことを確認してから窓を開ける。四階ぶんの高度を挟み、下には低木が植えられていた。
「そこのパイプに足を掛けて上がってきて」
窓は、ちょうど旧校舎の死角になる位置だった。外から見つかる心配はないが、足を踏み外したら地上へ真っ逆さまという別の危険がある。
「大丈夫、私落ちたことないから」
有紀があっけからんとした表情で言った。彼女は主観たっぷりの経験論で意見を述べることがあるから、こういうとき、全く参考にならない。
窓から身を乗り出し、パイプに足を掛けると爽やかな風が吹いた。手に汗が滲んでいくのを感じ、未だに生への執着を手放せない自分が情けなくなる。生への実感は死がそばにあって初めて生まれるものなのかもしれない。
屋上はプールのような匂いがした。遠くに沈んでいく夕日が、くっきりと見える。「スカイツリー」、と有紀が言ったが、それらしきものは見当たらなかった。
「え、うそ、見えないの?」
離れたところに見える高架を、白い新幹線が猛スピードで通過していった。グラウンドの向こうには高速道路が通っていて、高校の横で高架の下に潜る。大型のトラックが、大きな音を鳴らして横切っていった。
屋上からは、生活を送る様々なものたちを観察することができた。
「たのしいこと、ないなあ」
有紀が夕日を眺めながら言った。
ここから飛び降りれば簡単に死ぬことができそうだった。わかっているのに、たったそれだけが難しい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます