4-2「殺人事件の延長線」

 石橋に連れてこられたのは、学校から自転車で十分ほどのところにある、古民家のような喫茶店だった。建物の壁を構成する色あせた木材は、不思議と周囲の住宅に馴染んでいた。


 きい、と音を立てて石橋が自転車を停める。駐輪場らしき狭いスペースに他の自転車は停まっていない。彼女が鍵を抜いたあと、少しスペースを開けて自転車を停めた。


 店の正面には古びた外観の床屋があって、風が吹いたとき、カーテンが内側に膨らんだ。窓から少し見えた店の中に人の姿はなく、代わりに、赤、白、青が回転する名前のわからない機械が堂々と店番を務めている。同じ場所を回り続けるのは、退屈なようで案外居心地がいい。


「あんたたちのクラスって、仲いいよね。準備、みんな参加してるし」


 彼女はそれだけ言うと、正面に向き直り、木製の引き戸に手をかけた。


「ツラ貸せ」から約三十分ぶりの言葉だった。行き先や用件など、道中で僕が問いかけた言葉たちはことごとく無視されたので、自分の声が届いていないのではないかと不安になっていたところだ。


「あれか、朋海の好きな人が纏めてるからか。なんだっけ、名前」


 里緒の死後、まともに石橋と話したのはこれが初めてかもしれない。彼女の声に敵意が見られないことが、逆に怖い。何を企んでいるのだろう。


 誠の名前を教えてやると、彼女はたいして興味がなかったのか、「へえ」とだけ言った。


 引き戸の向こうは、珈琲と木の香りがした。内装のほとんどは木と漆喰でできている。家の近くにこんな場所があったことを初めて知った。


 店内は決して広いわけではなく、テーブル席が二つと、カウンター席が五つ並んでいるだけだった。柱や梁に使われている木材は黒っぽい色をしているが、窓から大量の自然光が入ってくるため、暗い雰囲気は全く感じられない。


 カウンターには中年っぽい女性が立っていて、僕たちがテーブル席に着くと、水を運んできてくれた。礼を言って受け取り、水に口を付ける。レモンの香りがする水は、道中で火照った身体と相性がいい。


「アイスコーヒー二つと、いちごのショートケーキ一つで」


 石橋はメニュー黒板を一瞥すると、僕に断りなく注文を開始した。女性がカウンターの奥の扉へ消えていくと、店内には僕と石橋だけになった。


「アイスコーヒーでよかったよね?」


 いいけど、と返す。「『けど』、なんだよ」彼女の眉間に皺が寄る。面倒なことになりそうだったのでそれ以上は応じなかった。


「ここのショートケーキ、美味しいんだよね。食べないと損」


 それは楽しみだと言いたいところだが、注文されたショートケーキは一つだけだ。


「ちなみにあげないから。食べたいなら自分で頼んで」


 そうだった。彼女はこういうヤツだった。


 店内は穏やかなクラシックが流れている。石橋が言葉を発しないので、音楽を構成する音のひとつひとつや、カウンターの向こうに広がっているであろう厨房の物音が鮮明に聞こえた。


 目が合って、すぐに逸らされる。用件はまだ判明しない。


 しばらくの沈黙ののち、二つのアイスコーヒーとケーキが運ばれてきた。また礼を言って受け取り、ストローに口を付ける。香りが立つのに苦味や酸味の薄い、独特な味をしていた。


 女性がまたカウンターの奥へ姿を消すと、音の支配権は再び穏やかなクラシックに移る。石橋のアイスコーヒーが、からん、というひどく清涼感のある音を鳴らした。


 僕は珈琲というものが好きだった。反対に、酸味や辛味の強いものはあまり摂取したくない。何も付けない食パンやバゲットなど、味の薄いものばかりで腹を満たしている。「泣ける」と話題の映画を見たくないのと同じ感覚だった。


 刺激が強いものを取り入れるとき、それを処理するのに猛烈なエネルギーが使われる気がしてならない。起伏のないものに囲まれて生きていきたい。夢のような感覚にずっと浸っていたかった。咲のことも母のことも、できれば考えたくない。


 最近、母の姿を見かけない。普段なら使い終わった食器や洗濯物、それから机に置かれた千円札でその存在を感じるのに、数日前からそのうちどれもがあの家から姿を消した。


 完全に息子を見捨てることにしたのか、それとも他に帰れない理由があるのか。想像だけでは何もわからない。


「咲と別れたの?」


 椅子を引いて体勢を直しながら、石橋は目を合わせずに言った。


 言葉の真意がわからず、首を傾げて話の続きを待つ。石橋は僕から目を逸らし、再びこっちを見たかと思えば、今度はショートケーキに視線を落とした。


 頂上に飾られたいちごは、自然光を受けて艶やかな光を放っている。光があまりに綺麗だったため、この瞬間まで外が曇っていることを忘れていた。


 別れてない、と答える。今度は「けど」が付かないように言い切った。代わりに彼女と咲の関係を訊くと、石橋は「は? 同じ部活なんだけど」と目を細めて言った。


「咲のこと泣かせたらテニス部の女子全員からミンチにされるから。気をつけなよ」


 咲と関わりがあって、僕と交際していることを知っているのに、噂を流していないことが不思議だった。彼女は会話の間から僕の考えを察したのか、「言っとくけど」という前置きを使ってまた口を開いた。


「小山のことバラしたの、私じゃないからね」


 思わず、意外、という顔をしてしまった。石橋は不機嫌そうに顔をしかめる。からん、氷がまた鳴った。


「あんだけ話題になったんだから、知ってる人もいるでしょ」


 田舎ではどんな些細な情報も共有される、という話を聞いたことがある。この地域にそういった風習はないが、あの事件はあまりに非日常性が強かったため、犯人に関する話が出回るのも無理はないのかもしれない。


「いや、そんな話をしに来たんじゃなくて」


 だったら最初から用件を話してくれ。喉の辺りまで上昇したその言葉を空気と一緒に溜飲し、言いたいことのすべてを、なに、の一語に集約する。「あのさ」、石橋の目が泳ぐ。


「会ったでしょ、あの日。里緒に」

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