第4章『人の生きた証を大切に抱えて生きなければならない。』

4-1「嘘を吐いたから、この手で」

 咲と上手く話せなくなってから半月が経った。


 九月に入っても気温は夏休みの最初とほとんど変わらないように思う。午前七時に設定したアラームが鳴るよりも先に、うだるような暑さで目が覚めた。


 汗が布団に染みているのが、動かなくてもわかる。湿気と暑さのぶん、身体は重い。一度大きく伸びをしてから、また目を閉じた。


 しばらく天井を眺めていたら突然動かなければならない衝動に駆られ、布団を蹴って起き上がった。着ていたシャツを脱ぎ、箪笥から代わりのものを引っ張り出す。着替えても、纏わり付くような水分の冷たさは消えなかった。


 リビングへ続く扉を開けた向こう側には母と、咲がいた。


「咲? 何してるの?」


 声を掛けると咲は僕に気づいたようで、「おはよう」と言った。自室に比べれば爆発的な明るさをしているのに、不思議と眩しくはない。「周を殺しにきた」、咲は続けて笑った。


 カーテンが風に押し上げられ、その拍子に、鮮やかな日光がまた部屋に入り込んでくる。室内が明るさの臨界点に達したころ、ふわり、花のような匂いがした。前髪が睫毛に絡まって、景色が正面からふたつにわかれている。


「え、なに。どういう、こと?」


 母はマグカップで珈琲を飲んでいた。柔らかい光が差し込むこの部屋に、珈琲はよく似合っている。


 咲はキッチン台の前でしゃがみ込み、収納扉を順に開いた。包丁を取り出そうとしているのだとすぐにわかった。


「私に嘘、吐いたから」


 それなら仕方がないか、と思った。言葉と感情はぜんぶ曖昧だから、僕はどんな手段を用いても本当のことを口にすることができない。「あった」、そう言って咲が笑顔で振り返った瞬間、再びアラームが鳴った。


 身体が、急激に輪郭を取り戻していくのがわかる。まだ寝ていたいのに、自然に意識が覚醒していく。何もない休日の、早朝のような気分だった。


 目を開けるのが怖い。咲の足音が遠のくたび、意識が格納されるべき場所へ引き戻されていく。


 視界に真っ白な天井が映ったとき、夢の世界にいたのだと気づいた。今度こそ現実の世界で布団を蹴り飛ばし、着ていたシャツを着替える。リビングには静かだった。机に千円札は見当たらない。母の部屋へ続く扉は開いていて、そこに人の姿はなかった。


 こうしてアルバイトができる身になった今、母からの三千円がなくても食費に困ることはない。


 夢のなかで命を落としたとき、身体や脳が実際に死んだと誤解し、現実でもそのまま死に至る場合があるらしい。あのまま死んでしまう可能性があったことを考えると、なんとなく未来が拓けていくような心地になる。僕は、咲の手で死んでしまいたかった。


『関東圏は曇天が続く模様――』


 家を出る前にネットで見た天気予報のとおり、空には灰色の雲が敷き詰められていた。母はどこに行ったのだろうと想像して、すぐに考えるのをやめた。


 校門では、生活指導担当の教員たちが大声で挨拶をしていた。おはようございます、僕は目を合わせずに言う。声が小さいとでも言いたげな視線を背後に感じながら、いつもの古びた駐輪場まで自転車を引いた。支柱は日に日に錆の面積を広げている気がする。昇降口へ向かうとき、イヤホンを着けて自転車を運転していた生徒が怒られていた。


 長期休暇が明けて最初の登校日なのに、久しぶりに来た感じはしなかった。


「あ、周」


 靴を履き替えているとき、朋海に声をかけられた。何か言いたげな表情をしていたので、おはようの挨拶で先手を打つ。僕の健闘も虚しく、彼女は「喧嘩でもした?」と言った。


「最近、咲が落ち込んでるみたいなんだけど。あの子、自分の話しないからさ。私もよくわかんないんだわ」


 話し方が誠に似てきてるなと思った。


 花火大会のあと、咲との関係はだらだらと続いた。別れようと決心したのに、たったひとことをなかなか言い出せずにいる。


 でも、言葉はなくとも、離れる未来はずっと香っていた。文字だけを使ったやりとりはあまりに不安定だった。


 距離が生まれる決定的な出来事があったわけではない。長期休みの間、顔を合わせる機会が減り、連絡の頻度も自然と疎かになっていった。いや、咲からしてみれば、花火大会の日に僕の迷いに気づいていて、それをきっかけと捉えているかもしれない。


 はっきりと思いを伝えられればもっと楽だった。


「まあ、仲直りしなよ。咲ってそういうの待つタイプだし」


 彼女は少しの間を置いて、「そういえば文化祭の準備、一回も来なかったでしょ」と目を細めて言った。


 夏休みの間、時間がある生徒たちが集まって文化祭の準備を行っていたという話はグループのトーク内容から知っている。僕のクラスは縁日の祭りをテーマに、屋台などの出し物をするらしい。アルバイトで時間がなかったことを伝えると、「うちの高校ってバイト禁止じゃないの?」と返ってきた。


 朋海と適当な会話をしながら教室を目指していると、後ろから走ってきた誠が「おはよっ」と言って僕の背中を強く叩いた。席に着くと同時に始業のチャイムが鳴り、「あれ、今日は遅かったね」、すでに後ろの席に着いていた咲が言った。


 目に見える部分で変化があったわけではないのに、こうして距離を感じるのは不思議なことだった。キーホルダーはまだ、返せていない。


 背後に咲の気配を感じるたび、空調から放たれる空気がすうっと背骨に染み込む。


 高校の外観とは反対に、教室はひどく懐かしい場所のように感じられた。音のしない時計も薄汚れた黒板も教卓も、妙な愛おしさがある。有紀は相変わらず登校していて、彼女への嫌がらせを先導していた女子たちが顔をしかめていた。


 一時間目は長期休暇中に行った課題の提出で、二時間目は二学期の始業式だった。曇ってはいるが、気温だけ異様に高い。体育館の湿気は肺から流入し、細胞のひとつひとつを膨張させる。閉会の言葉が紡がれるころ、全身がむくんだようになった。


 始業式のあとは教室で進路相談や自殺防止などに関する配付物が配られ、その日の登校は終了となった。とはいえ、この日は学校が終わり次第クラスメイトを集めて文化祭の準備を進めることになっていたらしい。帰ろうとしているところを朋海に引き留められ、誠の元に強制送還された。


 文化祭は九月の中旬、土日の二日間にわたって開催される。まだ二週間近くの猶予があるのにもかかわらず、教室の後方には段ボール製の屋台や看板が置かれていた。


 イベントに積極的な朋海が実行委員ということもあってか、僕が関わらない間にも必要以上のペースで準備が進められているようだった。


「この前朋海と地元の祭り行ったんだけどさ」


 段ボールを切断しながら、誠が声をひそめて言った。僕は屋台の設計図に目を落とし、相槌を打つ。視界の端、教室の扉に手を掛ける有紀の姿が映った。


「なんか、お洒落なドリンク? みたいなやつ飲みたがってさ、でもめちゃくちゃ人が並んでんだよ。やめとこうぜって言ったら朋海、不機嫌になってさ」


 クラスに有紀を引き留める者は誰もいなかった。彼女もそれが当然というように廊下へ消えていく。背中が見えなくなったころ、一緒に作業をしていた男子生徒の一人が「それはお前が悪い」と言った。僕も同調しておいた。


「ねえねえ、周」


 誠と一緒に段ボールを組み立てているとき、咲に名前を呼ばれた。


「いま大丈夫?」


 大丈夫、と答えながら、軽い調子の声に安心している自分がいる。それなのに顔を上げた先にいる彼女は戸惑ったような表情をしていたから、困った。


「なんか、成美が」


 咲が僕から視線を外したので、その方向を辿ると、教室前方に石橋の姿があった。


 誠に適当な断りを入れて石橋の元へ行くと、彼女は「ツラ貸せ」とだけ言い、僕に背を向けた。意図はわからないが、とりあえず石橋のあとを追う。中央階段まで来たころになって「荷物は?」と訊かれたので、僕はリュックを取りに教室へ戻る羽目になった。

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