第2章『咲かない花を、いつまでも愛でるような営み。』

2-1「落ちない花瓶」

 高校の入学式の日、テーブルの千円札は三枚に増えた。


 学校までは自転車で三十分程度だ。できれば遠くの高校に進学したかったが、食事代や教材費などを考えると、交通費はできるだけ抑えたい。妥協点として、自転車で通えるうち最も遠い高校を選択した。


 春の風は心地よい。通学路には桜並木が通っていて、ペダルを踏むたび、花びらが制服に絡みついた。道の端で、老夫婦が桜の写真を撮っている。


 並木を抜けると、今度は高架下の道に入る。下から見ることは叶わないが、上を走る電車は母が働いている「歌舞伎町」という街に向かうものだと知っていた。


 家から学校までは絶妙な距離をしている。遠いと思っているときは近く感じるし、近いと思っているときは遠く感じるから不思議だ。


 校門では三人の教師が大声で「おはようございます」を繰り返していた。


 駐輪場の屋根を支える柱は白い塗装が剥がれ、ところどころ錆が浮き出ている。自転車を停めて昇降口へ歩き始めると、抜いた記憶がないのに手には鍵が握られていた。人の脳はうまくできていると思う。


 事前に通知された出席番号の下駄箱に靴を入れ、高校指定の上履きに履き替える。古い校舎だからか、エメラルドグリーンの廊下には無数の黒い傷が付いていた。


 階段を上がり、一年生のフロアへ向かう。僕が所属する二組の教室は、中央階段から二番目に遠い場所にあった。


 教室の前には人集りができていた。どうやら扉に座席表が貼られているようだ。A4の印刷用紙を一瞥した生徒たちが、次々と教室へ吸い込まれていく。視認できる距離まで来たとき、そこには一人の女子生徒が残るのみになった。


 座席表は名簿順になっていた。父が遺した「新居」という苗字の影響で、進学やクラス替えの際は端の席になることが多い。案の定、廊下側の前から二番目に自分の名前を発見した。


 教室へ足を踏み入れたその瞬間、「あのっ」という、小鳥が歌うような声がした。


 声のほうを振り返る。体中の血管が、大きな波を打つ。


 それは初めての感覚だった。僕は、彼女が放つ儚くもたしかな存在感を持つ暖かな眼差しに、世界がひっくり返るほどの衝撃を受けていた。


「座席表の見方、わからなくて。これ、どっちが前?」


 ゆっくりと僕を見上げた彼女の目があまりに美しすぎて、頭に湧いたすべてのテキストが消滅した。


 大きく息を吸って、心臓を落ち着ける。不自然な沈黙を、彼女が怪訝に思っている様子はなかった。


 座席表をよく見れば、たしかに、教卓や黒板の位置など方向を示す具体的なものは書かれていない。ただ、五十音順は前から始まるという暗黙の了解があり、クラスメイトもそれに従っているようだ。


 上手く説明できたかはわからない。声は裏返っていたかもしれないし、喋るペースも不自然だったように感じる。


 彼女は照れたようにも見える笑顔を浮かべ、「そっか。ありがとう」と言った。僕は頷くことしかできなかった。


 清廉潔白が透けて見える彼女の笑顔を前に平常を装うには、長期間にわたって特別な訓練を受ける必要があると思う。礼のあとに「池高いけだかさき」と名乗った女子生徒は、偶然にも僕の後ろの席だった。


「新居くん、よろしく」


 池高は瞼のあたりで切り揃えられた前髪を触ったあと、今度は花が咲いたみたいに笑った。


 教室は奇妙な空気で満たされていた。ぽつぽつ会話が興り、そのどれもが長続きすることなく衰退していく。ずっと喋っているのは、池高の後ろに座る、いかにもムードメーカーっぽい男子生徒だけだった。


 実際に彼女が僕を見ていたかは定かではないが、背後から視線を感じるたび、大勢の前で演説をするときのように筋肉が固まった。


 ほどなくしてチャイムが鳴り、バインダーを抱えた男の教師が入ってきた。新任の教師なのか、自分たちとそう変わらない年齢をしているように見える。


 担任の名前が記憶に定着することはなさそうだったが、黒板に書かれた、右肩上がりで異様に色の濃い文字の癖だけは頭に残った。名前だけでチョークを一本消費してしまいそうなほどだ。


 彼は鼓膜に悪そうな声量で入学式の説明をしたあと、「じゃあ自己紹介をしようか」と言った。言いながら、黒板に「名前」「入りたい部活」「出身中学」「高校生活への抱負」という癖の強い字を綴っていく。


 出身中学、の文字を見て喉が詰まった。チョークの、黒板をつつく音がやけにリアルだった。


 おそらく、このクラスに僕と里緒の繋がりを知る者はいない。しかし、当時、中学一年生による殺人事件はニュースやワイドショーに取り上げられるほどの盛り上がりを見せた。


 報道関係者は学校の他に生徒の家にまで押しかけ、「被害者のお子さんはどんな子でしたか」としつこく訊いたようだから、里緒の死に落ち込んでいた人にとっては苦痛だったと思う。


 有紀が殺人を犯した翌日、里緒はあっさり発見された。しかも、第一発見者は里緒の親友である石橋だった。テニス部の朝練のため最初に登校した彼女は、運悪く親友の死体を目撃することになってしまったようだ。


 僕は未だに、里緒の死を現実として受け取れずにいた。どんなに悲惨な状況でも心は凝り固まったままで、動かない。悲しそうな演技をしていると思われるのが嫌で、彼女の葬儀には参加しなかった。


 里緒の死について、自分がどう感じているのか、よくわからない。


 僕が里緒と会うことを知っていた石橋は、僕を疑い、問い詰めた。結局里緒は来なかった、という苦し紛れの嘘を彼女に見破られたかはわからない。


 結局、葬儀に参加しなかったことを咎められて以来、彼女とは一度も話さなかった。


 一時的に学校は閉鎖されたものの、一週間もしないうちに授業は再開した。有紀が少年院に行ったという噂は、あとから聞いた。


「次、新居」という声を聞いて、僕は一人目の自己紹介が終わったことを知った。名簿を眺めていた担任の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。


 名前は新居周、入りたい部活はありません。ここで自己紹介を止めても不自然だったため、できるだけ平静を装って出身中学を口にした。


 僕を爆心地として、クラスのいくつかの顔が勢いよくこちらを向く。そのうちほとんどは気まずそうに顔を背けて、少数は口を開いた。何を言っているのか聞き取るよりも早く、「うるさいぞ」、担任が言う。静まりかえった教室で、僕は高校生活への抱負を語った。


 別に、孤立してもよかった。


 池高咲と話すことで生まれた浮ついた気持ちは、里緒の死に顔を思い浮かべるのと同時に消えた。里緒の死を未だ悲しめずにいる僕に、甘ったるい感情を味わう資格はない。


 それに僕は恋情とは関わらないことに決めている。


 自己紹介は池高、その後ろの内山うちやままことと名乗るお調子者へと続いた。交友関係のために覚えようとしていた名前たちは、その後ろで諦めた。


 多岐にわたる交友関係は、数打てば当たる理論のように、そのうちどれかはかけがえのない関係にまで発展してしまうのだと思う。だから僕は、高校生活において、なるべく一人で過ごそうと決めていた。


「なあ、あとでバスケ部の見学行こうぜ」


 え、と声が出た。直前まで自分に向けられ

た言葉だと気づかなかったからだ。


「だから、バスケ部の……」


 いや聞こえなかったわけじゃない。


 この至近距離で彼のやたら大きな声が聞こえなかったのなら聴覚の障害を疑う必要があるだろう。


「あ、バスケっていうのは」


 手を突き出して言葉を遮ると、彼はいよいよ困惑したような表情を浮かべた。僕がわからないのは初対面のはずなのに馴れ馴れしく話しかけてくるこの内山という男の神経だった。


「初対面じゃないだろ。さっき自己紹介したし」


 そう言った彼は本当に不思議そうな顔をしていた。


 僕はすぐにこいつが自分と別の次元を生きている人間だと認めた。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


 入学式は始まりから退屈だった。その上、この日は天気もいい。内山は睡魔に負けてしまったようで、点呼の際、「内山誠。……えー内山誠」と二回も名前を呼ばれていた。これには荘厳な雰囲気の会場でも笑いを許してしまったようで、その瞬間だけ、空気が和らいだ。


 男女別で整列させられたせいで、池高の姿は点にしか見えなかった。でも、模範解答のような制服の着こなしや、彼女の周囲だけに漂う春の雰囲気を正確に感じられるから不思議だ。


 無意識に彼女を目で追っている自分に気づき、固く、瞼を閉じる。


 演説台の上に、煌びやかな生け花があった。巨大な花瓶には幾何学的な模様が刻まれている。もしあの花瓶を落として割りでもしたら、入学式は中止になるだろうか。


 結局誰かが花瓶を落とすような気配は見られず、最後まで僕の素朴な疑問が晴らされることはなかった。


「風、あったかいね。今日はずっと晴れるらしいよ」


 教室に戻る途中の渡り廊下で、池高が弾んだ声で言った。


 たしかに、雨が降る気配はない。今朝のネットニュースで確認した「曇りのち晴れ」という予報の、「晴れ」の段階まで到達したようだ。話は天気から満開の桜に逸れ、さらに部活動に移った。


「新居くんは何か部活入るの?」


 もちろん入るつもりはない。でも僕には内山の強引さに流されてしまった実績がある。バスケ部の見学には仕方なく参加するつもりだった。


「あ、私の後ろの席の人だね。私はテニス部に行こうと思うよ」


 彼女はなんとなく文化系のイメージがあったので少し意外だった。


「ねえ、ライン交換しようよ」


 間もなく僕の携帯には「池高咲」の文字が表示された。彼女が「よしっ」と言いながら追加ボタンを押すのと僕がそうするのは同時だった。流れのまま交流を深めているが、このままでいいのだろうか。そんな考えが脳裏によぎる。


 あのとき、有紀ともう一度話す約束をした。


 しかし彼女に会うことは人間としての道を踏み外すのと同義だ。これは里緒の死を侮辱するような最低の行為なのかもしれない。


 ゼロから人間関係を築くのには途方もない時間と努力が必要になる。他人を理解することは不可能に近い。


 少年院や鑑別所のことは調べてもよくわからなかったが、殺人の場合は最短で二年半ほどだと、質問サイトの掲示板に書いてあった。この情報が正しければ、間もなく有紀の出所時期がやってくる。


 選択肢を与えられたとき、僕は彼女に会わずにはいられないと思う。


 有紀とはすべてをわかりあえるような気がしていた。人を好きになったり、愛したりすることではない。有紀なら愛とは別の、特別な形で僕を必要としてくれる。


 会いたいけど会ってはいけない。思考が同じところをぐるぐると回っている。

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