1-2「晴れのち曇り」
放課後の人付き合いが億劫になってくる時間帯、薄暗い廊下を歩いて里緒がとの待ち合わせ場所を目指した。傾いて沈みかけた夕日の、高いマンションの陰からかろうじて放たれた光が、リノリウムの廊下を朧気に照らしている。
里緒があんなふうに僕を誘うのは初めてだった。いつもだったら「部活終わったら一緒に帰ろ」とか「明日暇だしイオン行こ」とか、肩につくほどの髪を風に靡かせながら爽やかに言う。
「じゃあ部活のあと、この教室で」涼しげでない里緒の誘い文句の、裏側にある彼女の思考を推測してみた。
ついにこのときが来たかもしれない、と思う。
以前、感動すると話題の映画を里緒と一緒に見たとき、彼女だけが泣いていて、感動を共有できないことがもどかしかった。映画館は奇妙な空気で満たされているような気がしたのに、里緒は「みんなが一体となって物語に感動するあの感じがいい」と言った。
そう言われればたしかにそうかもしれない。そう思って僕が紡いだ感想は、「無理しなくていいよ」という里緒の困り顔に一蹴された。
「周には合わなかったね。でも、いつか絶対に心から感動する映画に出会えるよ」
感情を自然に表現しようとしても、なぜか演技をしたような感覚になる。人との間に距離を置きすぎたせいで、本心を話しているつもりでも顔の皮が作り物めいて見えるようになってしまったのかもしれない。
でも、人生に自分の意思は必要ない。周囲の環境に適応し、合わせて生きることこそが人生をよりよくする手段に違いなかった。
たとえば里緒が僕に対して見当違いの勇気を出すつもりだったとして、その場合、告白を断って変な空気を浴びるより、押し留めて交際するほうがずっと賢明だ。
それに、好意を抱かなければ母のようになることはない。
恋愛は人を壊すものだと母を見て学んだ。誰かを心の拠り所にすれば、失った時にとんでもない代償を払わされることになる。
生きる意味を他人に委ねるような生き方は、あまりに不安定だ。
僕が人に関心を向けられないことは、母のようにならないよう生きてきたことの戦利品であり、代償だった。
「ごめん、待った?」
しばらくして教室に現われた里緒が、乱れた髪を直しながら言った。辺りはすっかり明度を落とし、太陽は見えなくなっている。
待ってない、というテンプレートの言葉を返すと、里緒は「よかった」と目を細めて笑った。飛び跳ねていた髪は、彼女が手ぐしを通したところから順に落ち着いた。
外ではまだサッカー部がグラウンドを走り回っていた。窓際の、誰のものかわからない机に里緒が腰を下ろすと、スカートが折れて白い脚が覗いた。僕は椅子を引き、里緒と同様にグラウンドを向いて座る。
里緒からは制汗剤の透き通った匂いがした。彼女がいつも使っている、せっけんの香りがついたものだった。机の上に置いていた僕の肘に里緒の手のひらが触れ、すぐに離れる。彼女は慌てたように「あ」と言った。
「……わ、わかってるよね」
里緒を見上げたとき、たった今彼女が僕から視線を外したのがわかった。彼女の顔が赤い。自分の、息を吸い込む音がする。
「ここに呼んだ理由。いくら周相手でも流石にわかりやすいって、自分でも思ったもん」
里緒は両手で顔を仰ぐと、「あー恥ずかし」、グラウンドを見たまま言った。
胸の内側は、過剰にものを食べたときのようになっていた。胃の奥のほうから、熱の塊が押し寄せてくる。吐き気とは異なり、激しさや刺々しさを持たない、安定した熱だった。僕は熱に浮かされている。
「私、前から周が好きだったよ」
里緒の視線が、熱い。
うわずってしまいそうな声を、理性よりもっと深い部分で抑えている。
「だから」と里緒は続けて言った。それが合図だったみたいに、一斉にグラウンドのナイターが灯る。視線は合わない。
後ろで物音がした。静かに振り返る。人がいた。里緒は気づいていないようだった。
廊下はいつの間にか照明が点いていた。逆光になっていた人物は、こちらへ近づくにつれて、窓からの光で正体を現していった。
交流学習という名の授業で見たことがある。たしか、特別学級に通う女子生徒だ。彼女が僕を見て、口元に人差し指を運ぶ。僕はその指示に頷く。里緒はまだ気づかない。
正体が判明した途端に関心が霧散し、僕は正面を向き直った。意識は里緒の言葉に吸い込まれていく。その瞬間、僕はたしかに、刃の皮膚を突き破る音を聞いた。
「え、えっ?」
里緒は目を丸くして、振り返り、遅れて首を手のひらで覆った。指の隙間からリズムよく噴き出すものが血液だということに、横から見ている僕でさえ気づくのに遅れた。テンポはどんどん速くなり、次第に判別できなくなる。
纏まって宙を漂う血液の玉は、ナイターの光で透けて見えた。唐突に、絆創膏を返さなきゃ、と思った。
指から剥がして里緒に差し出す。彼女は首から噴き出す血液に狼狽えているようで、こちらに気づいていない。里緒の、柔らかそうな睫毛の先端に光が乗って、こぼれ落ちそうになっている。大きな黒目がちいさく揺れていた。
「ねえ、今どんな気持ち?」
猫のような声がした。振り返った先、さっきの女子生徒がいて、右手にはカッターナイフが握られていた。彼女は真顔だった。嘲笑や挑発の色は浮かんでいない。
自分の気持ち。考えている間に、里緒が机の上に崩れ落ちた。
「……逃げないの?」
女子生徒が言ってから、自分が殺される可能性に気づいた。 僕はこの瞬間、一日のなかで最も冷静だった。
自分が死ぬ。死ぬってなんだっけと思った。自分の死を現実と重ねて見ることができない。とにかく、痛いのは嫌だ。素直にそれを伝えると、「うーん」、彼女はわかりやすく困ったような顔をした。
「死ぬの、怖くないの?」
毎日、夢の世界を生きているような気がしていた。頭のなかは薄いフィルターが張られたようになっていて、思考が上手くまとまらない。自分が見ている景色が現実なのか夢なのか、わからなくなる。
アラームが鳴る直前に、まどろみのなかでふと自分が夢の世界にいることに気づいて、夢から覚めないように目を閉じ続けるような状態だった。
里緒が自分に好意を向けていることはわかっていた。それを伝えられなくても、たしかに彼女の想いを感じ、それとない距離で幼馴染という関係を続けている間、心臓はちゃんと動いた。
自分を必要としてれる人の横は、血液が軽い。
女子生徒は首を傾げて僕の回答を待っていた。一度しまわれていたカッターナイフの刃が音を立てて伸びる。刃の先端から数センチにかけて、艶やかな赤い血がべったりと付着していた。それでも、刃が綺麗に光沢を放っているのがよくわかる。
彼女と交わっていた僕の視線は、重力に従って落下した先で、今度は里緒の薄く開かれた目にぶつかった。
首から血を流している以外、目立って死の雰囲気を纏う部分はない。突然起き上がって「実は生きてました」と言われても、今なら驚いたフリをすることができる。
里緒がいたから呼吸がしやすかったとはいえ、彼女の存在と自分の生きる理由を紐付けて考えてはいけないような気がしていた。
里緒のために生きていたわけではない。母のため、というのも違う。だからといって自分のためと断言することはできない。だったら僕はなんのために生きていたのだろう。
顔上げる。再び彼女に視線を合わせる。
生きている理由がわからない。今度はするりと口が回った。答えたあとに「死ぬのが怖くないのか」という質問の回答としてはズレていると考え直したが、彼女は特に気にしていないようだった。
「私もそう。同じだ」
その言葉を聞いたとき、身体の隅々まで、血液が行き渡るのを感じた。
重力に当てられた身体は、重い。それは決して不快な重さではなく、冬に分厚い布団のなかで眠るような心地よさに似ている。
この瞬間、身体は現実の世界にあった。
「こやまゆき」、と女子生徒は名乗った。ゆき、と名前を繰り返す。彼女が示した胸元の名札には、「小山有紀」と書かれていた。
彼女は孤独だ。確信があった。僕と有紀にしかわからない、特別な領域がたしかに存在していた。
有紀はきっと誰からも理解されず、そして誰かを理解することもできずに生きてきた。まるで幼いころから知り合いだったみたいに、いくつもの情景が浮かんだ。
「逃げなきゃ」、彼女が言ったとき、僕は引き留めるための言葉を探していた。でも、あってはならない、と思う。
彼女は里緒を殺した。その相手を前に、もっと言葉を交わしたいと思っている。そんなことがあってはならない。誰も許してくれない。
「周くん。今度、ゆっくり話そう。約束ね」
そう言って彼女は白い引き戸の向こうに消えた。
彼女はきっと僕の孤独を理解してくれる。こんな人間になってしまったことも、彼女なら許してくれる。でもここで彼女を追えば、これまで築き上げた普通の環境から足を踏み外すことになるだろうということも充分理解していた。
月が見えなくて不自然に思っていたら、いつの間にか空には薄い雲がかかっていた。よく見ると、一部分だけが微かに光っている。里緒は動かなかった。床に散らばったちいさな飛沫はすでに乾き、赤黒い痕になっている。彼女の身体はまだせっけんの香りがした。
カッターにこびりついた里緒の血液が、生々しく脳裏に浮かんだ。血が輝いて見えたのは初めてのことだった。
グラウンドのざわめきが大きくなり、サッカー部の練習が終わったのだと知った。少し迷って、疑いをかけられる可能性を考慮し、里緒を置き去りにすることにした。
今日の天気は晴れのち曇りで、明日からは曇天が続くらしい。
翌朝、家の電話に、一時的に学校を閉鎖するという連絡があった。
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