弦のそら音

koto

弦のそら音

「おとうさまだ!」「お父様お帰りなさい」

 玄関の扉を開けると、娘達が子犬のように駆け寄ってきた。

 彼女らに砂を払ったばかりの外套や帽子を剥ぎ取られながら、数ヶ月ぶりの我が家に足を踏み入れると、その変わらない佇まいにおのずと笑みがこぼれた。

 砂漠の国の商家の中でもそこそこ豊かな我が家は、代々珍しい文物を扱うことで知られているとはいえ、自宅の設えは比較的質実なそれであったから、とりわけ豪奢と言うわけではない。

 それでも長旅から帰ったとき、これほどまでに輝かしく見えるのは、帰宅を待つ者と待たせる者が思いあって繋がっているからだろうか。待つものは家を磨き寝具を整え、待たせるものは家を目指し道を急ぐ。そんな柔らかな絆の在り処に私は帰ってきたのだ。

 家もひとも、焚かれた香の薄甘さも、春にこの家を出たときと何ら変わらない。強いて言えば、娘達が一回り大きくなったように見えて、彼女らの日々の成長を目にとめることが適わなかったのが、いささか口惜しい程度のことだ。

 仕入れのためとはいえ長旅から無事に帰れた。そのことが今はひたすらに嬉しい。

「どうかなさったの? ことのほか嬉しそうになさってますけれど」

 夕食を終えて、香草茶をすすりながらも、娘達は久々に帰った私からなかなか離れようとしない。それがいとおしくて彼女らの積もり積もった話に耳を傾けていた私に、妻が不思議そうに尋ねた。

 どうやら私は常ならず喜色を露わにしていたようで、彼女としては嬉しいながらも不審に思ったようだ。

「そうね、おとうさまったらにこにこわらってばかり」

「良い物が手に入ったのですか? お父様」

 矢継ぎ早の問いかけに、愛おしさが胸を満たす。この時間のために私は帰ってきたのだと温かいものを感じながら口を開いた。

「そう、そうだね。良い物……というよりは佳いご縁を頂いたのかもしれない。さあ、お前たちは寝る支度を先にしておいで。床に就きながら話すとしようか。少し不思議で怖くて、それでいて素敵なお話なんだよ」

 妻の労わるような眼差しと娘達の好奇の視線に負けて、私は隣国での不思議な話を語って聞かせることにした。


 それは、東の国での定宿、珍しい木造の酒場兼冒険者の宿でのことだ。

 私は別に冒険者でもなんでもないが、ここの料理が気に入っており、ついには定宿にしてしまったのだった。この宿は埃まみれの旅人にも快く部屋を貸し、もてなしてくれる貴重な場所だった。

 この国でも名高い、腕の立つ剣士も定宿にしていると聞く。高潔な人物だそうで、彼が選ぶならと定宿にする者もいるそうだし、それは宿の治安の面でも一役買っているようだった。高価な品を扱う以上、信頼のできる宿でないと恐ろしい。

 すれ違ったこともないその剣士や宿の者たちに感謝しつつ、あてがわれた部屋の扉を開けた。

 その日は日中一杯を港や市での品定めに費やし、その甲斐あって幾つかの掘り出し物を得ていた。私が大きな荷物を抱えて部屋に戻ったときには、既に長い影が石畳の上に幾つもの伸びる時刻であった。

 買い付けた品々を置いて腰をおろし、このあとはどうしたものか、と思案する。夕食をとるにはいささか早く、商談の合間に繁華街の屋台でつまんだ食事の腹持ちが思いのほか良かったのだ。

(まずは軽く一杯飲んで、腹が減ったら階下の酒場で食べるとするか)

 私はチーズとワインのみを頼んで部屋に届けさせ、ひとり杯を傾けることにした。


 いくらか喉が潤った後で手を拭いてから、今日仕入れた品々をあらためる。市や商店を巡って見つけた掘り出し物の数々に頬を緩ませながら、極上の品を一つ手に取る。宝石をあしらった手鏡だ。

 幾分古びており、絢爛豪華とはいえないものの、丁寧に細やかな線を掘り込み、上品で凝った意匠を施してある。私の手には小さめだが、女性の手にしっくりと馴染み、重さも丁度良い品のようだった。

 今、故国では、即位が近いと噂される皇太子の宮に女性が集め始められている。見目麗しい女物の品は今こそ売り時なので、今回の仕入れではそれを意識して品定めをしていた。


 窓を開け放ち、暮れ方の空をも肴にして楽しむ。この街の風は柔らかく優しい。故国のような砂嵐ではなく、潮の香りや咲き乱れる花の香りばかりが感じられる。家族にも見せたいものだが、危険を伴う旅路に伴うわけにもいかない以上、一人で味わうしかない。

 せめて、国に残してきた家族には街を描いた小さな風景画を購入して、見せながら語るとしよう。彼女らが耳を傾ける土産話の一つにできるのは旅をする商人ならではの小さな自慢だった。

 仕入れたばかりの手鏡を卓上に置く。ランタンの揺れる灯をうけて、鏡面が涼しげな光を返し、宝石が炎を映してきらめく。自分の見立てに満足し、旅情を十二分に堪能しながら、私はいつの間にか眠りにおちていたようだ。


 ――かえ……い。わ……あのひと……とに、かえして……い。

 囁かれた声に、意識が浮上する。

 響いたのは女性の声だ。店のものが部屋に勝手に入ったのだろうか? いや、この店は料理も上手ければ店員の応対も優れている非常に良質の店であって、だからこそ毎回泊まっているのだし、恐らくは近く聞こえるだけで、場所は別なのだろう。窓を開けているから窓に面した通りの人々の声か、下の酒場の声かもしれない。差し障りがないなら、このまま眠ってしまおう。今はとても眠い、眠いのだ。

 瞼が鎧戸にでもなったかのように、酷く重い。体もだるい。知らぬ間に私はこんなに疲れていたのだろうか。

 ――かえして、ください。わたしを……かえして。

 声はまた近くで囁かれた。今度こそ、意識が睡魔の手を振りほどく。

 音のしそうなほど重いまぶたを強引に持ち上げて、視界のかすむまま、目に映るものを確かめていく。

 窓からは既に落日の光が失せ、街の灯りに取って代わられている。

 部屋はなぜか暗い。ランタンはいつの間にか消えてしまったようだ。油が足りなかったのだろうか。この店にもそんな失敗があるのだなと思い返してふと我に返る。

 確か油を差しに来たのは夕方。チーズとワインを届けに来た店員が、気を利かせて新しいものを継ぎ足してくれたのだ。そんなに早く減るはずがない。そして、なぜ街がこんなに明るい時間なのに、歌舞音曲や人々の声一つ聞こえてこないのだろう。

 ――かえして、ください。わたしを、あのひとのもとに、かえして。

 先ほどから耳元で囁く、その声以外に何一つ。


 意識と視界がはっきりするにつれて見えてきたものは、髪の長い女が一人。テーブルの横に立って、私に囁いていた。その体は、驚くことにうっすらと透けていた。

 私の体は石のように硬く、指一本たりとも動かせない。声も出せないまま、脂汗が背を伝う。女は悲しげに、ひたすら「かえして」と囁く。

 恨みつらみよりも悲しみの闇にとらわれたようなその表情は、生前の美しさを伺わせるものの、虚ろなその視線がえもいわれぬ恐怖と悪寒を誘った。

(何が望みだ、どうすればいいんだ、私はお前などしらない。帰りたいならさっさと帰ってくれ、頼む)

 口が動かない。喉が渇いて声が出ない。それでも必死に唸りながら、心の中でそう念じる。だが彼女には伝わらなかったようだ。同じ言葉をただただ繰り返して、私を悲しげに見つめるばかり。

(私が何をしたというのだ、心当たりも何もない。返せと言われてもあてもないのだ、頼む、他所をあたってくれ)

 心の中で必死に叫んでいると、反応がないことに焦れたのか、狂おしい表情でこちらに緩やかににじり寄ってきた。もともと目の前のテーブル脇に居た女だ、その距離など大したものではなかったのだが、緩慢な動作のためかその時間は恐ろしく長いものに感ぜられた。

(やめてくれ、私には何もできない、助けてくれ、何も知らないんだ! 誰か、誰か!!)

 取り殺されると思った。だから女が私に向かって指を伸ばしたとき、外の喧騒も聞こえないたった一人の部屋の中で、それでも誰かの助けを求めた。


    導かれよ 楽園へ

    風に乗り 水の流れのまにまに


 突如、女の動きが止まった。つい、と顔を上げて、私に伸ばしていた指を離す。

 

    くさぐさの宝にみちし とこしえの都に


 女の声しか聞こえなかった私の耳に、抑制した弦の響きに乗せて、低い声がかすかに届いていた。どうやら女にもその音色は聞こえるらしく、音の源を探しているのか首をめぐらせ、あわれなほどに動揺している。


    汝の業を清めぬぐいて

    清きしとねの飽かぬ眠りに


 体を縛る鎖が解けたような気がした。ゆっくりと、女の目に留まらぬように指を動かしてみる。動く。

 女の様子を伺うと、動揺は治まり、じっと音色に耳を傾けているようだった。先ほどまでの狂おしさはなく、どことなく清らかにすら思えた。その印象と、清かな調べに打たれたのか、後で考えれば意外な程に、私も落ち着きを取り戻していた。


    導く風はいざなわん

    今ぞ迎えは来たりける 

    今ぞ迎えは来たりける


 一曲終わっても弦の響きは未だ続いている。歌声と音色から察するに、別の詞を選んで歌い始めたようだ。

 歌声の主を探していた女が、こちらを振り向いた。笑みが浮かべた彼女は、可憐ですらあった。


 ――すみませんでした。わたしがこの手鏡に思いをのこしたばかりに、恐ろしい目にあわせてしまって。


 一礼した彼女は、最後にそういい残して空気に溶けるように消えた。

 彼女が消えると同時に、狭い部屋にどっと外界の音がなだれ込み、弦と歌声は街の喧騒にかき消されて遠くなった。

 張り詰めた空気は和らぎ、窓から届く花の香りが再び鼻腔をくすぐる。それらを感じ取った瞬間、私は力が抜けてしまい、押し寄せる疲れに飲まれるように再び眠りに落ちたのだった。

    

「お父様、何が佳いご縁なものですか! 怖くて眠れなくなりますっ」

「ご無事で何よりでしたけれど、気が気ではありませんでしたわ」

 口々に言い募る娘と妻の恨みがましい声をなだめつつ、私は慌てて言を継いだ。

「その翌朝、目を覚ましてすぐに市まで出かけたのだよ。売主を探して手鏡を突き返すつもりでね。そうしたら案の定というか、売主はどこにもいなかった。途方にくれていたら、同じ人物を探しているひとに出会ったのだよ」

 オズワルトと名乗るその男は、盗まれた妻の遺品を探していた。例の手鏡だった。

 私が買い求めた店の主はどうやら盗品の故売を手がけていたらしく、時折そういった品を扱うと言う噂を頼りに、オズワルトは一縷の望みをかけて店を探していたのだった。

 手鏡を示して事の次第を話すと、彼は涙を流して妻に手を合わせた。彼女が嫁ぐときに持ってきた由緒ある品で、それはそれは大切に扱っていた思い出の品なのだ、とオズワルトは涙ながらに語った。

 妻を亡くして傷心のある日、彼の自宅に盗賊が入り、貴重品を奪われてしまった。そのなかに、亡き妻の手鏡もあった。気づいて必死に盗賊の行方を追ったものの、盗賊につてがあるわけでもなく、困り果てていた。そんなときに盗品を売る者の噂を聞きつけて市へと足を運んだのだ、と彼は鼻をすすりながら言った。

 是非買い取らせてほしいという彼の言葉に、盗品、しかも遺品をそのような形で売るのは気が進まないから代金は受け取れない、そのままどうぞ、と手鏡を差し出して代価は辞退するも、彼は引き下がらなかった。涙を拭いながら、金がぎっしりつまった革袋を差し出してくる。

 そこそこ高い買い物であったのは事実だが、こちらにも商人として通したい道理がある。丁重に断って押し戻すが、オズワルトは子どものように眉を下げて包みを押し付けてきた。

 そんな風にしばらく押し問答をしたが、私が隣国の商人で後は帰国するばかりであると知ると、彼は知り合いの船が近々隣国に向けて出航するので船代は自分が持つからそれを使って欲しい、と言い出した。

「まずは私の店へお越しください。食事でもしながら色々お話させて頂きたい」

 あまり厚意を無碍にするのもはばかられ、彼の申し出を受けることにした。その後もこちらが恐縮するほどの厚遇を受け、ついには今後の継続的な取引を約束したのだった。

 数日後、仕入れを終えた私はオズワルトの紹介で船に乗り、東の国を後にした。快適な船旅で思うより早く故国へと帰りつき、無事に自宅の扉を開けることができた、というわけだ。

 そこまで聞いて、妻がほっと一息をつき笑顔を見せた。私も彼女に笑み返す。

「案内された彼の店は、勢いのある良い店だった。これからも思いがけず良い取引が出来そうだ。急成長したにもかかわらず、最近神殿への寄進を怠っていたのが災いしたのかもしれない、と彼は苦笑いしていたよ。今回のことで彼はお詫びがてら寄進をして、不届きな信徒にも佳い縁を頂いたお礼をするそうだ。我々はともに商業と交流の神をあがめているからね。」

「まあ……それは確かに神様のお導きかもしれませんね」

「私もそう思ってね、出航までにと神殿に参拝したのだ」

 

 神殿で寄進を受け付けた神官に顛末を話すと、年若いながらも思慮深さの伺える神官は少し考えた後、笑顔で頷いた。

「まさしく御神慮によるものでしょう。巡り会わせがどなたにとっても良い結果がもたらしたのですから」

 神官の言葉が、あれほどに実感をもって沁み入ったのは初めてだった。

「それにしても……あなたと女性を救ったその歌い手は、さぞや名のあるお方なのでしょうね」

 彼女の言葉に頷く。

 寝息が聞こえると思ったら、一緒に話を聞いていた二人の娘はいつの間にか寝入っていた。「お手洗いに行くのが怖い」だのと口にしていたから、今夜は横で寝てやることにしてその髪を撫でていると、「私も聞いてみたかった」と妻が溜息をついた。

「ところがね、その夜は楽師は一人として泊まっていなかったと言うのだ。もちろん下の酒場でも、誰も演奏していなかったと。ただ、宵の口に一瞬水を打ったように酒場の喧騒が止んだことがあったそうだ。

 時折あることだから、大して気に留めていなかったというのだが、もしかしたらその時に私の耳に届いた歌が奏でられていたのかもしれないと、そんな風に思っているよ。流しの歌うたいだったのだろうか。それほどの力量がありながら、惜しいことだ」

 不可思議なことはあるものだ。

 そう繰り返しつつ、妻や子と再び穏やかに憩うことが出来た己の幸運を神に感謝して、私は眠りについた。


 月の明るい夜、東の国のとある酒場にて。

 年若い神官が静かに席に着く。四人ほどがちょうどいい卓には、先客がひとり杯を傾けていた。彼こそがこの国でも名の売れた剣士であり、ここを定宿とする男であった。

 神官も、ほどなく運ばれた杯を傾けつつ、料理に舌鼓を打って和やかに過ごす。二人は店内の喧騒のなかに響く、吟遊詩人の弦の音色と歌声を耳にして心地よくくつろいでいた。

 演奏が終わったのち、神官は目の前の剣士に「そういえば」と切り出した。

「ふと気になったのですが。確か以前ほかの皆様と飲んでいたときに、店内に置いてあった楽器を奏でて歌ったことがありましたよね」

「普段は人前で歌うことはないが……興が乗ればそういうこともある。それがどうかしたのか?」

「いえ、神殿に寄進にきた商人の話を聞いておりまして、なんとなくそれを思い出したのです。最近宿で歌ったりはなさいませんでしたか?」

「月のない夜に、ふと戦地でたおれた友の声が聞こえた気がした。その折には部屋にあった楽器をつま弾きつつ、いささか歌を捧げもしたが。」

「あなたは楽師としてもなかなかの腕でいらっしゃいますからね。さぞやご友人の御霊も慰められたことでしょう」

 年若い神官と、剣の道で名を馳せる男が、くだんの酒場兼宿屋で杯を交わしながらそんなことを語っていたと知るものは、彼らのほかには街を吹きぬける風ばかりである。

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