名前も知らないきみと
望月しろ
1.瞳の綺麗な男の子
「ふぅ……、あと100枚……」
家にいても暇だからと始めたポスティングのアルバイト初日。
3時間で3500円──時給としては悪くない。
ただ、体力的にはきつい。ひたすら歩いて、ポストを探して、投函する。ときどき家主から嫌な視線を感じたりして、精神的にもなかなかきつい。
無理だな、これ。続けられそうにないや。
人と話さなくて良いから気楽だと始めてみたけれど、全然楽じゃなかった。きっとコンビニやパン屋あたりで働く方がよっぽど楽。
早く帰りたいその一心で、速足で歩く。
綺麗な新築の一軒家もあれば、昔ながらの家もあり、団地もあり。
普段気にして見たことなんてなかったけど、いろんな家があって、いろんな人が住んでるんだなって。歩きながら思慮に耽る。
「……あと8枚……、」
いよいよ終わりが見えてきた。
最後、あのアパートでおしまい。
目標の場所へと近づく。言っちゃあ悪いけれど、かなりボロボロのアパートだった。築40年といったところか。
茶色い木造の家屋……窓ガラスはところどころ養生テープで止められていて、細い手すりに捕まりながらゆっくり階段を上がると、ミシミシと全体に響く音がする。
どんな人が住んでいるんだろう……?
サイズ感からいって、おそらく一人暮らし向け。
二階の一番奥の部屋の前にたどり着く。
ポストにチラシを投函しようとした……そのとき、
───ギ~ッ…
不気味なくらいゆっくりと、部屋のドアが開いた。
「………きゃっ」
思わず声を上げる。……と同時に、中から出てきた男の子を見て……目が、釘付けになった。
黄ばんだTシャツに、毛玉だらけのダボッとしたスウェットパンツを履いていて、これまた言っちゃあ悪いけれど、見るからに貧乏くさい格好をしているのに……
美しい。
一言で言うと、美しい御顔をしていた。
ポケットに手を突っ込んで私を見る気怠そうな表情。
サラサラの黒髪は前髪が長くて目を半分隠してる。それなのに……前髪の隙間からこちらを覗く黒目があまりにもキラキラしていて……。引き込まれるように見惚れてしまい、言葉が出てこない。
「………なに」
無気力に発せられた言葉。
「……え、あの……すみません、チラシ配ってて……」
答えながらぎこちない動作でチラシを渡す。
彼はそれを受け取ると、「へぇ」と短く言う。
チラッと一瞬だけ手元を見て。
「………いらないんだけど。こうゆうの」
そう一言言うと、ネジの緩んだドアノブに手を掛ける。
軽いドアがパタリ閉まる間際……
伏し目がちなその目元からは……
孤独な心が、透けて見えるようだった…───
「ふぅ………、」
翌週も、私はチラシを持って例のアパートの前に立っていた。アルバイトは辞めなかった。体力的にはきついけど、それに勝る感情を見つけてしまったから。
───彼に会いたい。
そう、たったそれだけの感情で、私はこの一週間ひたすらチラシを配って回っている。
同じ地域に週に1回ずつ、という決まりになっているため、この地域以外を回るときは地獄のような時間だった。
けれども、元々運動不足だった私は、このアルバイトを始めてから1週間で2キロも瘦せたので、良いダイエットだと思うことにした。
「腰痛いな~……」
あろうことか今日はアレの二日目。大量出血で調子が最悪だ。でも今日は休むわけに行かなかった。だって、一番行きたかった地域の配達なんだもん。
「───よし、」
短く決意を固めて、二度目のそのアパートへと向かう。
ミシミシと音の鳴る階段を、恐る恐る上がって、一番奥の部屋の前に立った。
ドッキン、ドッキンと心臓が鳴る。
………いや、待って……?
前回「いらない」と言われたんだった。怒られてしまわないだろうか?と、ここへきて急に冷静になる。
『イケメンの彼に会いたい』という、そんな不純な動機だけでまたここへ来てしまった……私って、なんて軽率な人間なんだろう。
だって……どうしても会いたかったんだもん。
何か、言いようのない魅力を感じたんだもん。
一目ぼれ……て、ダメダメ。私は既婚者なんだから。
しばらく彼の部屋の前で固まっていた。
どうしよう……。でも、ドアをノックする勇気はない。せっかく会いに来たのにな……。
仕方ないか、やっぱり帰ろう。何やってんだろう、私。
そう思い、チラシを一枚、彼の部屋のポストへと静かに入れた。
ミシミシ…といちいちうるさい階段をゆっくり降りて。
さぁ、あとは下の階に配れば今日の仕事は終わりだ……と、
考えていたとき…───
───……グワンッと視界が揺らいで。
私は地面へと倒れ込んだ…────
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます