第3話 揺らぐ炎雷
「これは……」
マガミがレイドや教師達に報告を終えて戻ると、治療室のベッドの上は乱雑に剥がれた毛布と僅かな温もりを残してハーツの姿は消えていた。
何の連絡も無しにふらりと何処かへ行くようなハーツではない、と訝しみながら狼の耳を立て周囲を探る。けれど、帰ってくる足音の中にハーツらしきものは無い。
「この匂い…ハーツと、甘い香り…?」
もう既に此処を発った後らしい。視覚と聴覚が駄目なら、残るは嗅覚。鼻先を押し付けるように嗅いでみると、嗅ぎ慣れたハーツの良い匂いに甘い匂いが混じっていた。
ふわりと果物のように甘い香り…それが、2つ。
「あの2人ね…!」
正体を掴むと、耳と尻尾がブワッと広がる。色んな感情がないまぜになったまま、脳裏に浮かんだ女狐達と恐らく挟まれているだろうハーツを強く意識し風のように治療室を飛び出した。
〜〜〜〜〜
「とうちゃ〜く!」
「はぁ…はぁ…」
まさか、学校から少し距離があるベル家の屋敷まで全部走らされるとは思っていなかった。日頃<剣士>の訓練として、レイドと一緒に走っていて良かった…因みにマガミは狼の獣人なので、言わずもがなである。
「2人は凄いね…全然、息が…切れてない…」
獣人のように飄々としている自分よりも身長が小さな双子に素直に感嘆すると、妹のリーシャは金の髪と赤リボンを揺らし微笑む。
「いえいえ、ハーツ兄こそお姉ちゃんのペースに付いてこられて凄いです」
私以外で付いてきたのは初めてですよ?と補足するリーシャに少し嬉しくなって、口の端を持ち上げて見せる。
「ハーツはしっかり鍛えてるねぇ〜、お姉ちゃんがヨシヨシしてあげよう」
「……僕とリーンは、同じクラスだよね」
「細かいことは気にしないの♪」
大きなベル家の屋敷前で、リーンに頭を撫でられる。同じクラスとはいえ自分より背丈の小さな女の子に撫でられる感触は、くすぐったいけれど何処か心地良い。
「さ、そろそろ行こっか!ハーツも疲れてるだろうし、少し休憩してから法玉には案内するね」
「お母様が帰って来る前には、案内致しますね。先程も伝えましたが本来は当主のみしか見られないので…」
「本当にごめん…ありがとう」
謝罪と感謝を込めて軽く頭を下げると、サイズ違いの結えられた四つの髪を靡かせ笑顔で僕を先導する2人。
再度感謝を内心呟いてから、一歩敷地内へ足を踏み入れる。
ーーーーぁおぉぉ…んーーーー
「ん……?」
何処かで遠吠えが聞こえ、辺りを見回す。けれど、動物1匹辺りには見当たらない。木々に囲まれているから、物陰に居て見えないだろう。
深くは考えず、此方を不思議そうに見つめるリーン達の下に小走りで駆け寄り屋敷の中へと入っていく。
「おかえりなさいませ、リーンお嬢様。リーシャお嬢様。ハーツ様も、ようこそいらっしゃいました」
「ただいま、カラン」
「ただいまです、カラン」
屋敷の玄関が開けられると、入り口にはベル家のメイド長カランさんが出迎えてくれた。異口同音に挨拶を返すと、それにフッと柔らかく瞳を細めて双子を見つめる。
「お邪魔します、カランさん。僕には様を付けなくて良いって、前も言ったじゃないですか」
「いいえ、お嬢様方のお客様に敬称を使わないのは
「ならせめて、さんにしてもらえません…?何だか様って呼ばれるの、むず痒くて」
「考えておきます」
対して、此方には子供をあやすかのように朗らかな笑みと声音を向ける。僕のささやかな願いは、揶揄うような表情で流れた。
これはまた、聞き入れられないな…とがっくし肩を落とす。お上品に笑うお淑やかな女性らしくうふふっと笑うカランさんだが、すぐにはたと思い出したように手を叩くと僕の前のリーンとリーシャに申し訳なさそうに告げた。
「お嬢様方、残念なご報告が…。ご当主イーリナ様が、今日はお仕事が早く終わったとかで既に書斎に戻られております」
「お母様…私達も急いだのですが、相変わらずの手際の良さですね…」
「ううん、誇らしいけど残念…。こうなったら、直接お願いするしかないね。ハーツがいるから大丈夫!」
「うん、そうだねお姉ちゃん!ハーツ兄がいるから、お母様も許してくれるよ」
「…ん?どうして?」
てっきり諦めて別の日にするのかと思えば、急に話の矛先が此方に向いてきた。思わず首を傾げて見せると、にぃ…と双子揃って白い歯と煌めく瞳で無邪気に笑いかけてくる。
「それはですね…」
「行けば分かるよ、ハーツ」
阿吽の呼吸で言う2人の意味するところがわからずカランさんに助けを求めるものの、帰って来るのはやっぱり何処か楽しそうなニコニコ顔だった。
「まぁ、分かったよ。案内をお願い出来るかな?リーン、リーシャ」
「はーい」「はい」
揃って頷く2人に連れられ、素朴ではありつつも全体的に凛とした造りの屋敷を進む。窓から覗く中庭の中心には、噴水があり周囲の植木鉢に飾られた草花も何処か輝いて見える。
「着いたよ、此処が私とリーシャのお母様の書斎!この屋敷の中では、大体このお部屋の中に居るんだぁ」
「お仕事は終わってるとは思うので、今からノックをして入りますね」
やがて案内されたのは、少し重そうな両開きの扉の前だった。思わず僕がごくりと唾を飲み込む中、コンコンコンと3回リーシャがノックすると中から『誰かしら?』と声が返って来る。
「リーン•ベルです!リーシャ•ベルと連れの者が1人居ります!」
『リーンとリーシャね、お入りなさい』
「失礼します」
髪やリボン、服装に乱れが無いか手短に確認しつつハキハキと喋るリーン。あまり見ない一面に少し驚きながら見守っていると、中から入室の許可が。
「えへへ、ただいまお母様っ」
「ただいまです、お母様」
「……おかえりなさい。リーン、リーシャ。今日は随分早かったのね」
扉の右側を開けてリーンとリーシャが入ると、中で稲穂のように綺麗な金色の髪を三つ編みに結び眼鏡をかけた…ふさふさの耳と尻尾を持つ狐の獣人。
学園の理事の1人である、イーリナ•ベル理事が居た。名前からしてもしやとは思っていたが…本当に2人の母親だったとは。以前リーンとリーシャと馴れ初めになったとある事件の時に一度会ったきりだったから、2人と結びつかなかったのだ。
「あら、貴方は…」
「お久しぶりです、イーリナさん。貴女が2人の親御さんだったなんて」
「その件ではお世話になったわね。そういえば、あの時はお聞きしなかったけど名前は…」
「ハーツですよ、お母様」
「ありがとう、リーシャ。そう…貴方だったのね」
何だか、此処ではない何処かで僕のことを話に聞いていた…みたいな反応に少し背筋が冷たくなる。流石の僕も、理事から悪評が口にされたら立つ瀬が無くなってしまう。
「……リーンとリーシャの将来のお婿さん」
「……はい?」
柔和な笑みとその口から飛び出したのは、ある意味予想の斜め上の言葉だった。
「ふふふ、ハーツ…何で此処までマガミに言わずに連れてきたと思う?」
「それは、リーンとリーシャが引っ張って…」
「ハーツ兄、当主しか見られないはずの家宝…私達が知ってると思います?」
「それは、2人が…」
次期当主だから、と言いかけて体に電撃が走る。次いで口から出たのは、まさかという3文字。
それに双子はあの先程と同様の無邪気な笑みを浮かべると、青天の霹靂に打たれたような衝撃を僕に与えるのだった。
「「私達と結婚して、次期当主の婿になってください。そうしたら、家宝も貴方のもの」」
華奢な指を絡めて仲良く手を繋ぎ、リーンが右手をリーシャが左手を僕に差し出す。これだけでも、僕の足元をぐらつかせるには十分過ぎたが…更に驚愕の真実を、僕は知ることになる。
「……リ、リーン!リーシャ!その、耳と尻尾は…!?」
いつの間にか、リーンとリーシャから狐の耳と尻尾が生えていた。それに気付くと共に偶々差し込んだ風が、2人の髪を揺らしそっと巻き上げる。
其処には…何と、先ほどまであったはずの人間の耳はなかった。代わりに、狐の耳が反応するように小刻みに動く。
「騙すような真似をしてごめんね、ハーツ。『あの時』私とリーシャちゃんが狙われてたのは…ただ私達がお嬢様ってだけじゃないの」
「数が少なく、希少な狐の獣人だから…なんです。そんな私達が、この人なら迎えられると思えたのが…ハーツ兄ですよ」
特別な法玉とそれを守ってきた一族、2人の正体、結婚……怒涛の情報量に、眩暈が起きて思わず後退り壁に背中が付いてしまう。
「ごめんなさいね、ハーツくん…。私としては娘達の願いを叶えてあげたいのだけれど、立場というものもある。だから、折衷案として助けてもらった男なら…と以前から話していたの。どうか…娘達をお願い出来ないかしら?」
「ぼ、僕は……」
男として、明るく無邪気しかして女の子らしい一面もしっかりあるリーンと、大人しく可憐だけれど好きなことには一生懸命になれるリーシャの2人の婿になれるのなら、逆玉の輿だとか抜きにしても冥利に尽きる。
けれど……僕は、どうしても首を縦にも横にも動かせなかった。頭の中から今頃僕を見失って慌ててるだろう姉さん…マガミが、どうしても離れないのだ。
僕が好きなのは…僕が、結婚したいのは…。でも、2人も間違いなく良い子だし僕のことを思ってくれる気持ちを無碍にも出来ない。
どうしたら良いんだ…!
「……少し、考える時間が必要のようね。リーン、リーシャ。ハーツくんを泊めてあげましょう。ゆっくり、答えを待ってあげて?」
「うん…ハーツは優しいから、きっと即決はしないんだろうなって思ってた。ね、リーシャちゃん」
「うん、お姉ちゃん。そんなハーツ兄だからこそ、私達も好きになったんだもん」
話は一度そこで終わりのようで、どっと疲れたように体が重くなる。何とか、考える時間は貰えたようだ…。
「イーリナ様!リーンお嬢様とリーシャお嬢様は此方ですか!?」
「カラン?えぇ、此処に居るけれど…どうしたの?」
「それが…その、お2人に来客でして…」
リーン達も予期せぬ来客のようで、目を丸くして見合わせている。招かれざる客なら、カランさんが追い返すはずだが…。
「通しても良いかしら、2人とも?」
「うん、大丈夫」
「私も大丈夫です」
「とのことなので…通してちょうだい、カラン」
「畏まりました…」
珍しく困惑した声のカランさんに一同疑問符を浮かべたまま、開けられた扉の先の来客を見やると……。
「ーーー随分とお楽しみのようね、ハーツ?それにリーンとリーシャ」
「姉さん…何で、此処に?」
白銀の髪を悠然と靡かせ冷たい微笑みを浮かべて登場したマガミは、太陽のようなベル親子と対照にまるで夜空に浮かぶ月のように美しくて…腹の底がキュッと縮む程に怖かった。
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