ぽんこつ悪役令嬢な君が溺愛〈す〉き──腹黒殿下の愛は重いのに届かない──

真己

第一章 悪役令嬢の婚約破棄はファーストキスを呼ぶ

第1話 悪役令嬢は殿下に抱き留められる

「婚約破棄などさせません…………!」


 縦巻きロールを揺らして、バネッサ・リュシュモンドが叫ぶ。フリルとレースとで身を固める彼女は、この国で有数の権力を持つ公爵家の一人娘だ。

 そんな令嬢が慎ましさをかなぐり捨て、一人の女に掴みかかっていた。

 城内、階段の踊り場。夜闇を透けてみせる、彩りのステンドグラスを背にし、パーティの最中であることも忘れて、バネッサは吠えた。


「男爵令嬢ごときに殿下は渡さない、殿下の婚約者はこのわたくし!」


 紫の瞳に憤怒が猛々しく燃え盛る。アメジストをはめ込んだようなそれも、嫉妬で荒れ狂っていれば恐ろしい。


 睨みつけられる男爵令嬢――ユーリ・ヴェイルは圧に押されながら、弁明する。


「え、あたしはエドワード様のことはどうでも、ただ、ちょっと商談……いえ、お話があっただけで……」

「黙りなさい、この泥棒猫!」

「お、落ち着いてくださいませ、リッシュモンド様。ここ、階段です!」


 命の危機を感じて、ユーリは必死に呼び掛けるが、激高する彼女には届かない。

 男爵令嬢の飾り気がないドレスは、バネッサの手で皺がつけられていた。


「みとめない、」


 公爵家の一人娘は、桜色の唇をわななかせる。


「認めませんのよ」


 華やかな顔立ちは、痛切な拒絶で苦しげに歪む。


「殿下を、ぽっと出の男爵令嬢になんて渡さない」


 爪先から力が抜ける。息しづらさから解放されて、ユーリが咳き込んだ。安堵の色を浮かべる彼女を、バネッサが忌々しそうに見た。

 公爵令嬢は一瞬躊躇って、けれど胸から離した手がもう一度、ユーリに伸ばす。彼女に触れ、かける。


「わたくしが、悪役令嬢だなんて絶対に認めませんの……!」

 バランスを崩した令嬢の影が、階段に映り――。


「あぶない…………ッ!」


 男が、落下しかけるバネッサの身体を強く抱き留めた。

 彼女の婚約者、この国の王太子エドワードだ。研ぎ澄まされ涼しげな顔に、汗が流れる。

 愛する婚約者の危機に駆けつける姿は、まさに王子様。

 誰であっても、婚約者であっても見惚れる凜々しさであった。


「ひぃぁ……っ」

 バネッサは、愛する彼のご尊顔がすぐ側にある事実に悲鳴をあげる。

 突き飛ばそうとした拍子に、つま先が滑り止めに引っかかったのだろう。体勢を崩した彼女は、自分の身に何が起こっているのか、理解が及んでいなかった。


 殿下は引き寄せたバネッサの腰に後ろから手を回したまま、安堵と苦悩でため息を漏らした。怪我がないかをまじまじと確認し、惚けた彼女に声を掛ける。


「バネッサ、大丈夫ですか」

「は、はひゅう、」


 こくこくと、イエスかどうか分からない言語で応じた。呼び掛けの意味が伝わっているか、不安な光景である。


「一体、何がありましたか?」

「は、はぁい…………」


 頬を染めたまま、バネッサは曖昧に返事する。

 これでは埒が明かないと、殿下は首を横に向けた。


「ヴェイル嬢、一体何がありましたか?」

「……ああ、はい、それが」


 あっけに取られていた男爵令嬢は頷いた。


「どうやら、リッシュモンド様は、……あの件を浮気と誤解されてしまったようで」


 ユーリは「あの件」と声を潜めたものの、殿下の関心はそこではなかった。


「浮気?」

「まあ、学園で出回ってる根も葉もない噂ですよ。あたしが殿下を慕っているとか、そういう類の恋バナですね」


 本当に流布しているのは「殿下が公爵令嬢を捨て、男爵令嬢に乗り換えようとしている」という内容だ。しかし、計算高いユーリはそれを伏せ、愛笑いを浮かべる。


「お分かりだと思いますが。あたしが殿下と密会しているのは、殿下が持ちかけた商談のため、だけです」


 ぽわぽわ夢見心地の令嬢と、無表情の殿下を交互に見て、首を振った。


「あたしが殿下に恋慕するほど身の程知らずじゃ、ありません。世間のご期待とは外れますが、お二人の恋路の邪魔なんて、とてもとても」


 下手に出ながら、ユーリはばっさりと自身の要求を告げる。


「手早くリッシュモンド様の誤解を解いていただけますか?」

 ――お困りになるのは、エドワード殿下だと思いますけど。


 男爵令嬢の口内から、そんな台詞がでかかったことを誰も知らない。

 相対する青年はその要求に重々しく頷く。


「僕としても、貴方にご迷惑をかけたことをお詫びしたい。…………のちほど、バネッサからも謝罪を……」

「そういう言葉だけのお詫びでしたら、あたしは構いませんので」


 恐れ多くも、ユーリは殿下の申し出をバッサリ切り捨てた。顎をクイクイと動かして、背後から抱き締められた体勢のままの公爵令嬢に、視線を誘導する。

 バネッサは、ゆるゆると瞼を開いた。大粒の宝石と紛う眼に、困惑を色濃く映して、摩訶不思議のように言葉を漏らす。


「おかしいのですの、夢からまだ覚められませんの」


 縦巻きツインテールをふるるんとゆらして、悪役令嬢が首を傾げる。


「殿下が助けてくださるなんて……。夢でしかありえませんのに」


 死を目前としたとき、天使が空から舞い降りてくる。そのレベルの奇跡が起きたというように、バネッサの声はたどたどしかった。


 完全無欠鉄仮面の殿下が、人前で初めて目を見開く。

 二人の思ってもいなかった反応を見て、傍観者のユーリは顔を逸らした。

 これからお熱い光景が始まるのだと、目敏い彼女だけは察している。



 これは、公爵令嬢バネッサと殿下エドワードが、ファーストキスする一分前。


 世間に流行った書物になぞらえて「悪役令嬢」と呼ばれる彼女。バネッサは、勘違いで殿下とすれ違いを重ねた結果、殿下の重い執着を知ることになる。


  後世に美化・脚色されて残される寵愛奇譚。

  その始まりのシーンは、悪役令嬢のキャットファイトから幕を開けるのだった。

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