仁義なきカメムシとの戦い
鈴懸さら
第1話
闇の中に突如として響き渡る、ブーンという低い羽音。硬い何者かが窓ガラスにコツンとぶつかり、小さな重みでカーテンが微かに揺れる。それら一つ一つの現象が、幼い頃に植え付けられたトラウマを呼び起こしていく。
広島の山奥のど田舎から、大学進学を機に大阪のコンクリートジャングルへとやってきた。都会に出てきて一番嬉しかったことは、徒歩でコンビニやスーパーに行けることでも、電車のダイヤが一日に三本以上あることでも、救急車の到着が三十分以上かからなかったことでもなかった。本当に嬉しかったのは、夏と冬の間の気候のいい時期に、カメムシが全く視界に入らなくなったことであった。
私の田舎ではカメムシはもはや秋の風物詩というか、その時期になると毎年必ず大量発生する生き物で、奴らがわんさか沸いてくると季節の移ろいを感じたものである。少し優雅な雰囲気で表現してみたが、実際は壮絶な戦いの日々の幕開けである。
まず、外に干してある洗濯物には必ず奴らが二、三匹潜んでいると考えなければならない。彼らは暖かい場所を好むようで、裏起毛のジャージを履いていたらポケットに三匹入っていたことがあった。それ以来服を着る前には必ず一連の儀式を執り行うようにしている。まず、服の端を持ってバタバタと地面に三回以上叩きつける。次に服を地面に広げ、端からそっと押さえていって硬いものが入っていないか確かめる。ポケットは特に要注意だ。手を突っ込んでひっくり返すのが確実だが、それだと素手で触ってしまうリスクが生じるため、子供だった私には怖くてとてもできなかった。服を押さえている時に「サクッ」とやってしまうのも恐怖だったが、着ている服に入っている状況が最も最悪なので、そこは毎回頑張っていた。
「カメムシぐらいでそんな。ハチじゃあるまいし、なんも怪我せんじゃろうが」
うちの雑な母はこんなことを言っていた。確かにそうかもしれないが、そういう問題じゃない。噛むやつだっているし。
カメムシの匂いは強烈でなかなか取れない。パクチーみたいな匂いがするという表現を聞いたことがあるが、うちの田舎にはそんなおしゃれな植物はなかったので、私は小さい頃はきゅうりっぽい匂いだと思っていた。とにかく至る所にいるので、知らない間に挟まっていたり、潰していたり、なんか様々な理由で匂いを発していて近くにいるとすぐに分かったものだ。夜になると部屋の電気に引き寄せられてブンブン飛び回り、紐に止まったと思ったら電気にぶつかって落下してきたり、気になって食事も喉を通らない有様だった。こんな奴らと離れられて、私がどれだけ嬉しかったか、それは筆舌に尽くし難い。
それなのに今年、令和五年は全国的にカメムシが大量発生するという異例の年となった。まさか大阪の大都会で彼らと再び相見えることになろうとは。
ただ、十四年の時を経て再会した彼らは、私の記憶の中の奴らと違って全身が鮮やかな緑色だった。地域の違いのせいか、田舎と都会の違いのせいかは分からないが、私の田舎にいたのは灰色というか茶色というか、そんな感じのやつだった。
大阪の人たちはあまりカメムシに馴染みがないらしく、会社の同僚の発言にはかなり驚かされた。
「生まれて初めてカメムシ見たわ!」
マジですか。それはとても幸せな人生ですよ。
「あそこにカメムシいるけど、思ったより臭くないやん」
「死んでるからもう匂わんのんちゃうん?」
いや、匂います。うちの雑な母は忙しいのもあってあまりきっちり掃除をするタイプではなかったのだが、去年出てきていたカメムシの死骸が翌年の夏頃でも普通に部屋の隅のカーテンの下とかに転がっていたりした。そしてそれは普通に臭かった。
「部屋にいたからごめんなさいして、ティッシュと辞書で挟んでから捨てたわ」
圧殺! あなた、それは悪手です。
素手で触れない、潰さないがカメムシ退治の基本である。とは言え私は田舎者のくせにビビリで、なんか祟りとか怖くて蚊以外の虫は基本殺せないので偉そうなことを言う資格はないのだが。子供の頃はよく爪でピーンと飛ばして一時的に視界から消す方法を取っていた。ガッツリ触りたくはないけど、爪の先一瞬だけならセーフという子供理論だったのだと思う。なんの根本的解決にもならないが、肩に止まったやつを撃退したりするのには効果的だった。
友達の家では、瓶やペットボトルに灯油を入れて、そこに捕獲するという方法を取っていた。これはビビリの私には出来ない所業だったが、本当にこれくらいしないといくらでも沸いてきてキリがないのだ。
あとは、ガムテープでペタッと捕獲して、クルクル丸めて捨てるという方法もある。これも私には無理だったが、虫も殺さぬ顔をした私の友達が「これが一番お手軽だよ」と言いながら実行していて度肝を抜かれた記憶がある。料理と手芸が趣味の大人しくて可愛い子だったが、綺麗事を並べて自分の手を汚せない私と違って、思った以上に芯の強い子だった。
「もう嫌すぎて耐えられんかったから、カメムシ専用の殺虫剤買ったわ!」
え、殺虫剤?
私の田舎ではカメムシに殺虫剤を使うという習慣が無かった。多すぎて殺虫剤なんか使ってると破産してしまうからか、そもそも上記のような手段でずっと退治してきたので必要なかったからなのか、とにかくカメムシ用の殺虫剤というのは私にとってはとても新鮮なワードだった。ていうか普通の殺虫剤では死なないのか。
そんなこんなで今年は奴らが私の会社の同僚をパニックに陥れ、私も何度か不快な思いをしたが、とは言っても家で見たのは一匹だけ。会社では外の階段で何匹か見かけたが、その程度でしかもすぐにおさまった。窓のサッシにずらりと一列に並んでいたり、常に電気の周りを二、三匹飛び回っていたり、学校の壁にびっしり張り付いていたりといった光景を見ることはなかった。大阪に現れたカメムシは全然可愛い数である。この程度で大騒ぎするなんて、これだから都会のすました連中は。
ところで今日は家族で久々に自宅の庭でバーベキューを楽しんでいる。アウトドアに出かけるのもいいが、自宅だと準備が楽、トイレが近い、コップや皿が足りなくなることが無いなどのメリットが大きい。食材は快適な自宅の広いキッチンで調理でき、疲れたら室内で休めばいいので快適そのものである。掃き出し窓から出入りして、中で切った食材を庭のバーベキューコンロへと運び、焼けた肉を室内で待つ子供達に運ぶ作業を繰り返す。全ての肉が焼き終わり、すっかりお腹も膨れてさて後片付けをしようと掃き出し窓から足を踏み出した時だった。靴の中敷がずれているような、妙な感覚があった。一回足を抜いてもう一度靴に入れなおしたが、土踏まずに何か当たっていて気持ち悪い。再度靴を脱ぎ、ひっくり返してトントンしてみた。
もうお分かりだろう。靴の中に一体何が入っていたか。あれだけ何年間も神経を使って戦ってきたにも関わらず、こんなところで油断して一手取られてしまうとは。夥しい数のカメムシに囲まれて生活していた幼少期ですら、素足に限りなく近い靴下一枚の状態で奴を踏んだことなど一度たりともなかったというのに! 因みに実は素足でゴキブリを踏んでしまうという壮絶な体験はしたことがあるのだが、それはまた別の機会に。
この度の戦いは慢心した私の一本負けだったが、人生まだまだこれから。なるべく多く勝って最後にも勝てればそれでいいのである。願わくば、来年はカメムシが大量発生しない年でありますように。
仁義なきカメムシとの戦い 鈴懸さら @serse
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
黒騎士日記最新/有原ハリアー
★96 エッセイ・ノンフィクション 連載中 2,508話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます