アナタもいない場所でただ息をするだけ

.六条河原おにびんびn

第1話アジフライサンド


 季節もあるのだろう。日が暮れるのが早いために電飾が映える。瀟洒しょうしゃな街の繁華街から少し逸れた洒落たデパートの傍には白い巨大クリスマスツリーが輝いている。正方形の植え込みのへりには、黒いコートの男性が腰を下ろしてスマートフォンを操作していた。待ち合わせしているのだろうか。


 かすみ|翠《あきら>は手袋を擦り合わせた。マスクから白い吐息が漏れる。それそのものがまるで飾りのようなデパートの明かりも、マフラーやコートの作るほのかな温かさも、彼女には幸せだった。流れてくるクリスマスソングに気付きもせず行き交う、冬姿の人並みを眺めているのも。

 彼女はイヤホンを嵌めた。そしてラジオを聴いた。

 クリスマスソングが流れていく。マスクの下の表情は柔らいでいたはずだった。だが強張っていく。


 それはクリスマスソングか反戦の歌か。華やぐ街並み、幸せそうな人々を遠回しに腐していく。気の利いたふうなメッセージを込めて、自虐めいた歌詞に他者への嫌味が潜んでいる。侮蔑が。俯瞰している己への、卑しい優越が。



 翠は夜空を衝くようなクリスマスツリーを背に歩き出した。耳にはもうイヤホンはなかった。

 彼女は人混みをかき分けて、駅へ向かった。


 反戦。高尚である。立派だ。人々が浮き足立ち、各々の幸せを他者と分かち合う、或いはひとり懐古に励む。もしくは世間に呆れる。または季節の行事に浸る。彼等彼女等を腐すのは、さぞかし心地が良いだろう。高みへ立っていられる心地になるだろう。

 画面でしか知らない土地のことを。ニュース番組や新聞を通さねば見聞きできない出来事を。

 当事者であり、当事者であれない劣等感と罪悪感をアクセサリーにして。

 己を世界のイルミネーションか何かと勘違いしている。星屑のひとつにもなれないくせに。

 


 マスクから白い息が漏れていく。怒りによって、とうとう湯気が出るまでになったのか。

 彼女は自宅アパートへ帰っていった。途中にあるスーパーマーケットで値引きされたアジフライを買い。

 冷蔵庫に6枚切りの食パンがあることをよく覚えていた。すでに開封してあり、早めに食べてしまわねばならなかった。パンもアジフライもトーストして、挟んで食う算段でいた。

 その頃には突沸した怒りも治まっていた。


 自宅アパートに着き、玄関の明かりを点ける。まずは手洗いとうがいだった。そして大型の雑貨店で買ったフクロウのオーナメントを紙袋から取り出して、暗かった部屋にも明かりを点けた。遺影が現れる。アルストロメリアの花が周りを囲んでいる。穏和げな微笑を浮かべる若い男は、白く照っていた。

 はじめは写りのいいものを選んだつもりだが、段々と、気に入らなくなってきた。元の写真を気に入っているつもりだったが、その正体は彼の写りが良いのではなく、自身の写りが良いだけのことだった。平生へいぜいから控えめな男が、思ったより麗らかに笑っているだけの写真だった。


 何千人、何万人と死んでいく外国の出来事は歌になる。自虐めいた叱咤の形で水を差す。

 だが身近な問題について、同じ国の、もしかしすれば袖を振り合った人の不幸には構いもしない。その人が抱えた、恨みつらみ、悲しみは無いも同然で、己で解決すべきことなのである。規模が違い、決着の仕方が違うのだから当然なのだ。

 遠くを見ていれば、何かをした気になるのだ。卑屈に見えた傲慢が潜んでいる。


 翠は手を合わせ、フクロウのオーナメントをそこに供えた。小さなクリスマスである。そして部屋の電気を消すと、台所へ行く。

 3割引きされたアジフライは1パックに2尾、二つ巴のように入っていた。今日揚げられてから時間が経っているようで、衣は萎びて見えるけれど、幅は大きく、張りがあるのが分かる。

 オーブントースターは、食パン2枚を横に並べるのが精々だった。先にパンを加熱した。アジフライを熱くするのなら、パンは少し冷えているくらいがちょうどいい。

 外皮クラストが色付くまで、赤く光る窓を眺めた。外は寒いが、そこは熱いのだろう。



 気分が凪いでいた。何故、怒りを覚えたのか分からない。「戦争」の対義語は「平和」であるそうだ。それに則るならば、「平和」であるほうがはるかに望ましいはずだ。戦争がなくとも、日々は忙しいというのに。

 パンの焼き目にこだわったりだとか。値引き品に右往左往したりだとか。

 戦争があったとしたら、この時期になると意識を絡め取っていく電飾は無くて、便乗したくせ水を差す反戦の歌に怒りを覚えることはないのだろう。

 戦争がなくとも、人々には事情があるというのに。団結していない不幸を、人は「平和」とまとめることで、やっと安らげるのだ。


 オーブントースターのつまみが真上を向く寸前で我に返った。瞬間、チンと鳴る。電子レンジみたいに。しかし最近買い替えた電子レンジは、もう「チン」とは鳴らなかった。


 パン屑を落としながら、彼女は硬直したようなトーストを皿に移した。そしてアジフライをひとつ、まだ熱い綱へ寝そべらせる。残熱で表面の油が蠢くように見えた。

 ジジジ……とふたたびオーブントーストが呻いた。彼女はアーガイル模様と白い腹を晒すトーストを見遣る。繊切りキャベツを買えばよかったと思った。だが同時に打ち消された。水気が、トーストとアジフライの衣を腑抜けさせる。



 赤い窓に視線を戻した。横たわったアジフライの狐色の霜から、油がじわじわ滲んで消える。微かに顔を出しては沈んでいく。


 悪気もなく無賃乗車している心地になった。クリスマスにゆかりのある国を差し置いて、この行事に浮き足立っている。

 気付いてしまったら最後。気付かない有象無象どもに水を差してみたくもなる。その無邪気さに。意地悪をしてみたくなる。無自覚な連中を同じ穴の狢にしてみたくなる。奴等と一線を引いて、一段高くなるには。


 赤い光が消えていく。チン、という音にまた我に返った。蓋を開けると、シワシワ、油の滲む音が聞こえる。日焼けしていた。菜箸で掴んだだけで、ざりりと水気の失せた質感が伝わる。

 皿に仰向けのトーストはさらに皿になった。銀色の尾の生えた三角形がふんぞりかえって大の字に寝る。ぽろぽろと衣が固く冷たいほうの皿に散らかる。


 擂りごまはなかった。白ごまを葉脈みたいな浅い窪みに沿ってふりかけた。


 ソースはかけない。トーストで蓋をする。ざりり、とよく焼き直せた乾いた音がする。衣の香りと、アジの香り。嗅ぎ慣れたパンの平凡な甘い匂い。


 ケーキはない。チキンもない。シャンパンもない。そういう信仰ではなかった。だがそれらに便乗する世間の一員ではあった。

 

 翠は冷えた椅子に尻をつけた。マフラーもニットも外さず、コートも脱いでいなかった。まるで武装だ。手袋はもう嵌めていなかったけれど。外よりは温かいはずだった。ただ脱ぐのを忘れただけだ。

 テーブルに皿がぶつかる。トーストは軟かさを失い、少し冷めていた。口へ運ぶ。歯を立てる。アジフライが噛み切られていく。木枯らしのような音だった。

 さくさくさくさく……と衣は崩れたが、アジは柔らかかった。魚の脂の匂いが鼻を突き抜けていく。



 何者かになり、何か言った気になるには、些細な事故で些細に死んでいった些細な人間について言及しても仕方がないのだ。

 翠はミュージシャンになるつもりはなかった。歌うつもりはなかった。詩人になるつもりもなかった。


 およそ2センチメートル。分厚い布団からはみ出た銀の尾が、歯を拒んだ。



 皿の上に欠片と化した遺骸を置く。シャンメリーを開けて瓶ごと呷った。。分け合う人などいないのだ。

 細やかな炭酸とりんごの味。

 独り言ちる柄ではない。けれど時事に乗ってみたかった。ゆえに、今日一日、秘めていた一言がある。

  

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