真上兄弟
目を瞑る。でも、そんなのは無駄で、ウジ虫男の舌はずろりと瞼に間に入りこみ、眼球を舐る。
そんな、数秒後の未来を予想した。全身を硬直させて、けれどどこか諦めた気持ちで。
でも、その未来は10秒、20秒立っても訪れない。
「あっ、がっ、ぶぶぶっ」
代わりに、声がした。ウジ虫男の、さっきまでの語りかけるようなのとは違う苦しそうな声。
「じゃま、失せろ」
もう一つの声が聞こえる。少し掠れた、高い声だった。多分、私と同じくらいの男の子。
「あぶっ、ぶぶぶぶぶっ、ぶぶっ、あっ、にむげむっ、なんっ、なんれっ、なんれっ」
何が起こっているのか、理解できない。どこからか、タバコの匂いがした。
私が恐る恐る目を開くと、紫色の煙の中でウジ虫男が悶えていた。まるで磔にされて火にかけられているように、ガクガクと頭を揺らしている。顔の上を這い回るウジ虫が、一匹づつ弾けて蒸発していく。やがて男は指先から黒ずんで、炭のように崩れて始めた。
「あぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶっ」
「うるせぇ」
男の子が追い討ちをかけるように煙草を喫い、煙を吐く。ウジ虫男を包んでいるのと同じ、紫の煙だった。
「一寸の虫にも五分の魂っつーけど、五分なら五分らしくさっさと消えろ」
ぼすり。鈍い音。
弾けるようにウジ虫男の体が霧散して、煙と混じり合いながらいくつもの色に輝く。
やがてそれも空気に溶けていき、最後にはなんでもないいつもの町の風景だけが残った。
いや、違う。
私の目の前には、気だるげな顔の男の子が立っている。男の子は、少しため息をつくと指先に挟んでいたタバコを揺らした。まだ先端で、チリチリと火が輝いている。
多分、彼が助けてくれたのだろう。
すごく綺麗な顔をしていた。つい、まじまじと見てしまう。
年は私と同じくらい──大学生だろうか?金色に染めたやや長めの髪は顔の左側を隠していて、顔を揺らすとチラリと派手な銀のピアスが覗いていた。
なんというか、ヤカラ系?V系?ともあれ、いかにも不良という感じだ。常時なら間違いなく関わることのないタイプだろう。
「大丈夫?」
男の子は、ため息混じりに口を開いた。いかにも不機嫌そうな、ぶっきらぼうな声。
「雨上がりは虫が地面から出てくるからな。気をつけろよ」
「は、はぁ……」
虫?さっきのアレのことを言っているのだろうか?
虫っていうか、どう見てもバケモノだったけど……。
そしてそれを倒した彼も、おそらく普通の人間ではないのだとも思った。
「えっと、あれは……あれはなんなんですか?」
何か知っていそうだったので、質問してみる。
本当ならすぐお礼を言うべきなのだろうけれど、それよりもまず疑問を解消したかった。そういうところは、自分のよくないところだ。
「ん?ああ、まぁアレだな。いわゆる──」
「霊!どーぶつれーってやつ!」
不意に声がした。あたりを見回していると、男の子の背後から小さな影が飛び出す。
「で、にいちゃんはジョレイ屋さんなの!ねー?」
影の正体は、小学生くらいの少年だった。女の子みたいに長い茶髪を揺らしながら、まつ毛の長い大きな目をぱちぱちさせて笑っている。その声は、鈴を転がしたように、なんて形容が恥ずかしげもなく似合うほど高く透き通っていた。
よく見ると、男の子とお揃いのピアスを右の耳につけている。首には黒いチョーカー。
兄弟なのだろうか?V系兄弟?ていうか、除霊師だの動物霊だのって……。
「ナーオ、人の話遮んな」
男の子が、手に持っていたタバコの先を少年の顔に押し付ける。イライラした声の中に、わずかな気安さがのぞいていた。小さい方の少年は、ナオくんというらしい。
「あぢゃっ、ごめんなさーい!」
少年──ナオくんは、わざとらしく肩をすくめるとケラケラ笑いながら謝る。男の子が「ったく」とつぶやいて、彼の口にタバコを放り込んだ。
「もーすわひゃいほ?(もう吸わないの?)」
「ん」
「じゃぁ、ごっくん」
ナオくんは放り込まれたタバコを飲み込み、舌をぺろっと突き出してまたケロリと笑う。
「あ、の、え?たばこ、飲ませた?」
ちょっとあんまりな光景に、思わず思考が頭から漏れてしまった。だいじょうぶなのかこれ?通報した方がいいやつ?
「あ、いーのいーの。おれはにーちゃんのハイザラですから」
「は、はぁ」
いっそ誇らしげですらある返答に、肩の力が抜ける。当のナオくんがヘラヘラしているせいで、心配しているこっちがバカみたいだ。
「話戻すわ。このバカの言ってた通り、さっきのは動物霊……ま、人間様より一段下の畜生の幽霊だな。タバコ吸っとくと寄り付かないからおすすめ」
男の子(いい加減この呼び方も座りが悪いが)は、乱暴に頭を掻きながらそう言った。細い指先が髪の毛の隙間を縫うように動く。何度も染めて傷んでいるのか、その髪は酷くキシキシとしていた。
「特にオレのタバコは特別製だからな」
「すごいんだよすごいんだよ!にいちゃんがブワーって吹くとああいう奴ら全部消えちゃうの!」
正直めちゃくちゃ胡散臭い。でも、事実目の前で化け物を消し去るのを見たら、信じざるを得なかった。
あ、ていうかお金貰ったり貰わなかったりって言ってたけど……。
「えっと、あっ、お金、お金払った方が良いですよね!その、助けられたし」
上着のポケットから財布を取り出そうとすると、無言で静止される。
「いらねーよ。勝手にやっただけだし。それに、雑魚だしな」
「はぁ、えと、雑魚なんですか?」
その雑魚に目玉抉りしゃぶられそうだったんだけど、私。
「ん。蝿だのウジだの、畜生以下のしょーもない霊だしな。それより……」
「人の死体に湧いたやつは、あんな風に人間っぽくなるんだよ!」
「だから遮るなっつの」
「んぎゃっ」
ごちん、と音がする。ナオくんの鼻先に思いっきりゲンコツが当たり鼻血が吹き出した。
「ごへんははい」
「わかればよろしい」
血のついた手をナオくんの髪に擦り付けながら、男の子が目を細める。
暴力こそ飛び交う、というか男の子の方から一方的に放たれているものの、二人の声色はじゃれあいめいていて、それこそコントのようだった。ずいぶんバイオレンスなじゃれあいではあるが。
私が他人事のように(実際、他人事だけど)眺めていると、男の子の視線がこちらに向いた。
「そんなことよりお前、なんか悩み事でもあんのか?」
「え?」
唐突な質問に困惑する。前後の文脈がよくわからない。
「雑魚っつったろ雑魚って。生きてる人間ってのは、それだけで霊に対して免疫みたいなものがあんだよ。蠅だのウジだの霊なんて、普通はそもそも生者に近づいたら霧散する。免疫が、弱ってなきゃな」
男の子は、少し音を区切るように言う。
「だから精神的にすり減ってるやつは、目をつけられやすい。なんかないのか?悩みじゃなきゃ、秘密とか罪悪感、みたいなの」
胸がドキリ、とした。
罪悪感。その心当たりなら、確かにある。
「いや、どうかな。自分だとわかんないけど」
でも、それは人を巻き込んでいいようなことではない。こうやって助けてもらったことさえ、本来は私には不相応なのだ
「わかんないってことはないだろ。自分のことなんだし」
「いや、自分のことほどわかんないっていうし」
「えー?でも流石に、自分でわかんないことでそんなにすり減らないよ〜!あれじゃない?かてーほーかい?とか、こいびとのうわき?とかさー」
「うるさい」
「うおっ、うおおおおおいだだだだっ」
今度は目にデコピン。はぁ、とため息が出た。
流石のナオくんも顔を抑えて悶えているが、正直もう突っ込む気にもならない。案の定しばらくしたら顔を上げて、平気な顔をしていた。腰に手を当てて、ふざけてするような怒ってますのポーズを取る。
「いたかったです!」
「痛くしてんだよバカ。オレがしゃべってる時は黙ってる、くらい学習しろ。お前は鳥か。せめて犬くらいの頭つけろ」
「わうう、ゔぁうっ、ゔぁうゔぁうっ、ううううう〜〜っ、ゔぉぁんっ、ゔぉんゔぉんっ!!」
「鳴き真似はしなくていい」
ごちん、とまたゲンコツ。
まぁ、仲は良いんだな。仲は。
とはいえ、正直これ以上関わりたくない。
「えと、すいません!ありがとうございました。私もう帰りますね!」
私は二人の会話に被せるように大きな声でお礼を言い、そそくさと距離をと……ろうとした。
「まってまって、お姉さん名前は?」
私の腕をぱっとナオくんが掴んでいる。
「え?あ、えと。仄見……夕雨」
思わず、本名を言ってしまった。
「なんか、夕雨お姉さんやばい匂いするよ?霊の匂い。それにちょっと、ケモノ臭い。悩みごと、本当にわからないの?」
失礼な、と言おうとして、言葉に詰まる。ナオくんの顔が、あまりにも真剣そのものだったから。
さっきまでのヘラヘラした顔とは全然違う、静かな表情。いつのまにか鼻血は止まっていた。
その後ろで、男の子が「霊絡みなら、手伝えるけど?」と掠れた声で言う。その後に、「ま、霊が関係ないならほっとくけどさ」と冗談めかして。
意外なほど、優しい声色だった。
少し、ほんの少しだけ、嬉しいと思ってしまった。それから、それ以上の自己嫌悪。
霊の匂い。なるほど、そういうの、わかるんだ。
うっかり話しそうになって、それを飲み込む。悩み事、その心当たり。
父の自殺。そして──
「い、や。大丈夫。ほんと、だいじょうぶだから」
少し強い力でナオくんの手を振り払うと、私は走り出した。ダメだ。その話は、しちゃ。
「ほんとに、ほんとありがとうございます。さようならっ」
後ろも見ずに、私は家の方に走り出した。ダメだ。ダメだ。これ以上聞かれたら、巻き込む。相談してしまう。
「おーい!」
背後から、男の子の声がした。
「オレは真上良太!こっちは弟の真上ナオ!こっからちょっと行ったタバコ屋の前のぼっろいアパート、あそこに住んでるから!」
やめてよ。そんなこと言われても、話になんていかない。そんな資格はない。ないんだ。
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