真上兄弟の除霊事情

弓長さよ李

キツネバカシ

仄見夕雨

 ぶぶっ。


 私──仄見夕雨は、耳元で厭な音がするのを聞いた。


 ぶぶっ、ぶぶぶっ。


 音が繰り返す。多分、雨が傘を打つ音ではない。惰性でさしつづけているけれど、雨はもう止んでいるのだ。もう、雲間に月が見えている。


 バイト先から徒歩15分の帰路は、土と水の匂いに包まれていた。進学とほぼ同時期に住み始めたこの町は、決して自然豊かとは言いがたい風情ではあったけれど、それでも雨上がりには生命が揮発したような空気が満ちる。特に、今日みたいな秋の夜には冷たい空気と混じって、肺を刺すようでさえあった。


 私は、その空気が少し苦手だった。なんだか自分の中に他の生き物が入り込んでくるような、そんな気がして。

 父は反対に、その空気がとても好きだったようで、雨が上がると深呼吸をよくしていた。


 父。その言葉を想起してすぐ、私はため息をついた。腹の底の、冷え切った空気を吐き出すようなため息。父のことを思い出すと、胸がキリキリと痛む。


 父は、少し前に死んだ。自殺だ。

 理由はわからない、というより、わかりたくなかった。自殺するような人じゃなかったと、死んだ後に言ってみたところでしょうがないけれど。


 我が家は早くに母が亡くなり、父は男手ひとつで私を育ててくれた。父は料理好きな人で、いつも家に帰るといつも暖かい食事があった。

 私は、そんな父のことが、とてもとても、好きだった。


 でも。


 死んでしまった。


 私が殺したようなもんなんじゃないかって、よく思う。ずっと、思っている。


 ぶぶ。

 また聞こえた。


 傘を下ろすと、雲の隙間からわずかに日の光が漏れているのを感じる。やはり、雨の音ではない。


 きっと幻聴、耳鳴りの類だ。父を亡くしてから、色々とおかしいんだ。

 頭を軽く振る。重い液体が頭蓋骨の中で揺れているような気がした。


 ぶぶ。

 音は、相変わらず耳元で聞こえる。

 なんなんだこれは、気持ち悪い。

 神経が逆撫でされ、嫌な汗が滲む。

 すぐそばに虫でもいるんだろうか?そんなものどこにも見えないけれど。それとも、やはり私の耳はおかしくて、病院に行った方がいいんだろうか。

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 ぶぶ、ぶぶぶぶ。

 そう思う間も、その音はずっとしつこく鳴っていて。鼓膜が震えるほどすぐそこで鳴っていて。


「ねぇ」


 ふと、声がした。

 いや、「ふと」という語が適切なのかはわからないが、連続した思考を無理やり閉ざすように、その声は聞こえた。すぐ隣、息がかかるほどの距離。


「ねえ、め、なめていい?」

 

 その言葉に、私の中で警戒度が一気に上がる。


 肩をすくめて横を向くと、そこに男が立っていた。


 見上げるほど背の高い、薄い髭を生やした男。


 服はなんだか、クシャクシャして、ビニール袋とボロ雑巾を繋いだみたいだ。ところどころから骨張った皮膚がのぞいているけれど、なんだかそれは、のぞいているというよりも癒着しているみたいな……。


 青ざめた顔の、皮膚のあちこちに白い斑点があった。それは皮膚が変色しているというより毛穴に何かが詰まっているようで、油のようにぬらぬらと光っている。

 

 細長い腕に、仔猫を一匹抱いていた。鳴き声を発することもなく、脱力した猫。


 目に入る情報の全てが、意味不明で不快だった。そして、耳に入る情報も同じくらいに。


「ね?め、なめていい?」


 同じ言葉を繰り返しながら、男は猫に頬擦りする。


 その声は、さっきから聞こえる「ぶぶっ」と、全く同じ音をしていた。人間の正体から発せられるものではないそれが、無理やり言葉に聞こえるように調整された、そんな印象を受ける。


「え、あの」

「なめて、いい?め、がんきゅう、なめていい?」


 私が怯えていることを察したのか、男は言葉を区切って優しげなテンポで繰り返す。


 目、眼球を、舐めていいかと。


 殺される。そう思った。少なくともまともな人間ではない、と。


 後ずさるように男から距離を取る。でも、男は猫に頬を擦り付けながら、私が歩いた分と同じだけ歩を進める。また後ずさると、同じだけ。


「ね、め、なめていい?め、なめたい、な」


 そう言いながら、男は上半身を乗り出す。猫を挟んで、ほとんど密着しそうなほど顔が近づいた。私は反対にのけぞるが、首を捻りながら男がさらに顔を寄せてくる。


 熱く、臭い息が唇に当たった。男の唇の間から、真夏の公衆便所のようなひどい匂いがする。自分の意思と関係なく顔が歪み、涙が出た。


「なみ、だ。もったいない、ね。ね、はやく、なめていい?め、なめていい?」


 意味がわからない。私はひたすら頭をフルフルと横に振った。ぶぶ、ぶぶ、という音が男の声に重なって再び聞こえてくる。


 いやだ、怖い。気持ち悪い。


 近くで見ると男の顔は、斑点があるのではなくやはり皮膚に空いた穴に白っぽい油が詰まっているようだった。毛穴じゃない。毛穴よりもっと太い穴が顔中にぷつぷつと開いているのだ。


「なめ、たい。このこは、なめさせてくれたよ?」


 男はそう言いながらもう一度猫に頬擦りする。

 顔の穴に詰まった脂が、にゅるりと突き出す。

 いや、それは脂なんかじゃなく──


「虫?」

「あっ、ぶぶっ、むし?ちがう、にむげ、だよ?にむげむ、ね?だから、め、なめていい?」


 穴から、いくつもの穴から無数の白いものがにゅるにゅるとはみ出して、男の顔中を這い回る。ウジだ。ハエの幼虫。まっしろくてぶよぶよしていて、きもちのわるい。


 ウジが這い出た後にはポッカリと穴だけが残って、皮膚呼吸に合わせるようにくぱくぱと動く。そこに別の穴から出たウジが入り込んではまた出ていき、また別の穴に入ってを繰り返す。


「ね、ねこ、じゃなくて、にむげむが、いい、から。ね、め、なめていい?なみだ、なめていい?よだっ、よだれ、つけないから、ちゃんと、きれいになめる、から」


 ぶぶ、ぶぶぶ。音が響く。嫌な音。男の顔からしているのだ。咄嗟に突き飛ばすと、抱かれていた仔猫の首が、私の方にぐらりと傾く。


 猫は、痙攣しながら浅く呼吸をしていた。体毛にびっしりとウジが絡みつき、眼球が顔から飛び出て萎れている。


 男は猫を抱いていたんじゃない。目を、眼球を舐めるために手元に置いていたのだ。


 まともな人間じゃない、という感想は半分当たっていた。まともな人間以前に、この男は、人間じゃない。


「あっ、あっ、あっ。やだっ、やっ」


 喉の奥から、絞り出すような声が出る。助けて、だれかたす。


 そこまで言いかけて、私は口を閉じた。


「はっ、あはは」


 閉じた口が再び開いて、狂ったふりをするみたいな下手くそな笑い声が漏れる。息を吐き出すためだけに、笑っている。


 助けて?私が?

 父さんのこと、助けられなかったのに?


 目の前の緊急事態に似つかわしくない、自嘲的な感情が脳内を満たした。

 

 そうだ、助けを求める資格なんてない。バカバカしい。私は、それを求めていい人間じゃないんだ。


 父さんは、たしかに自殺するような人じゃなかった。


 でもそれは、はという枕詞付きで。


 死ぬ少し前から、父さんはずっとおかしかったのだ。

 

 おかしくておかしくて、おかしくなったまま──死んだ。


 ひどい、ひどい死に方だった。惨たらしい、吐きたくなるような遺体。


 私は、父さんがおかしかったことに気がついていたのに、なのに、それが嫌で。大好きな父さんが変になっちゃったって受け入れられなくて。


 見て見ぬふりを、したのだ。


 いくらでも助けを求められたはずなのに。


 いくらでも周りに相談できたはずなのに。


 そんな私が、自分がヤバくなった途端に助けて欲しいとか、そんなの許されるはずがない。


「わらてる。うれし?にむげむ、め、なめさせてくれる?うれし、うれし」


 ウジ虫男が笑っている。笑うのに合わせた顔中の穴がぐにゃりと歪む。笑ってるみたいに。


 ぶぶ。ぶぶぶ。


 顎が外れるように男の口が開くと、そこには歯も粘膜もない。ただ、無数の白いウジ虫が犇めいていて、その奥から細長い黒い舌が伸びていた。


 そういえばある種の蝿は人間の汗や涙を主食にするらしい。そっか、蝿なんだ、こいつ。


 目、舐めるね。

 男がそういうと、私はまた、息を吐くためだけに


「はははっ」


 と笑った。

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