第16話 あなたにわかりますか?
気になる男子や彼氏、美味しいスイーツ、オシャレ。女子が数人集まればだいたいこれらの話題で盛りあがる。樹里は自身の経験からそれをよく理解していた。
自分もそういう話題は嫌いではない。むしろオシャレの話などは大好物だ。
「はぁ……」
冷たい机の天板に突っ伏した樹里が、顔だけ横へ向けてスマホの画面を凝視する。
昨夜、陽奈に電話をしたが出てもらえなかった。LIMEでメッセージも送ったものの、一向に返信がない。
再度大きくため息をついた樹里は、LIMEのトーク画面を閉じるとスマホを机の上に伏せた。
やはり陽奈は怒っているのだろうか。いや、怒るというよりは本当にがっかりしたのかもしれない。
昨夜からずっと胸の奥がざわつく。大切なものをなくしてしまったときのような、落ち着かない感じ。
ふと机の天板に目をやる。先輩たちがつけたのだろうか、コンパスの針か何かで抉られた傷がいくつも刻まれている。今まであまり気に留めなかったが、今はやたらと気になった。
と、そこへ──
教室の引き戸がバンッ、と乱暴に開け放たれ、ドタバタと誰かが入ってきた。
「樹里!!」
いきなり名前を呼ばれた樹里が、驚いた様子で顔をあげる。教室へ入ってきたのは葉月と晶だった。二人とも走ってきたのか肩で息をしている。
「ど、どうしたん?」
「た、大変だよ! 早くこっち!!」
一瞬眉を
──駆けつけたとき、すでに職員室の入り口付近には生徒たちの人だかりができていた。
ざわつく野次馬たちの声とは別に、大人の女性がヒステリックに怒鳴るような声が聞こえる。
「ごめん! ちょっとあけて……!」
樹里が人だかりをかき分けて前に進む。開けた視界に飛び込んできたのは、椅子に座る数学教師、伊達晴美に紙のようなものを突きつけている陽奈の姿だった。
「もう一度聞きます。あなたは本当にこの解答を誤りとするんですか?」
いつもと変わらぬ無表情な顔で、陽奈が伊達の目をじっと見やる。
「だから、何度も言わせないで! そんな解き方は教科書にも載っていないし教師の私も教えていないの!」
「あなたが教えていないから誤り? それはずいぶんと傲慢ですね。それは単純にあなたの数字への理解度が低いだけでしょう? その程度の頭脳でよく数学教師が務まりますね」
ヒステリックに叫ぶ伊達に対し淡々と言葉を紡ぐ陽奈。会話の内容から、伊達に突きつけている紙は陽奈に送ったテストのデータをプリントアウトしたものだと樹里は気づいた。
「あなたねぇ……! 大人をバカにするのもいい加減にして! だいたいあなた小学生でしょう? それなのに──」
「伊達先生。その子、神木陽奈ちゃんですよ」
ことの成り行きをオロオロと見守っていた教師たちの一人が、伊達の背後からそっと声をかける。
「……神木、陽奈?」
誰よそれ、と言わんばかりの訝しげな表情で声をかけてきた教師を見やる伊達。
陽奈のことを、おそらくそうではないかと見ていた教師たちがにわかにざわつき始めた。
「神木陽奈って、あのギフテッドの天才少女って言われてる子か?」
「たしか、七歳でアメリカのハイスクールに飛び級したっていう……」
「テレビで大学教授とも対談してたよね……」
陽奈のことを知らなかった伊達だが、教師たちの会話から目の前にいる少女がただの小学生ではないことに気づいたようだ。
「……私は小学生ですが、少なくともあなたよりは優れた頭脳をもっています。その私が、この採点はどう考えてもおかしいと言っているんです」
伊達の顔が悔しげに歪む。同僚の教師や教え子たちが大勢見ている前で「あなたは私より頭が悪い」と言われたに等しいのだ。おそらくこれまでの人生でトップスリーに入る屈辱だろう。
「あ……あなたが誰だろうと関係ないわ……! テスト問題の正否や採点も、私の教育方針のもとやってるんです!」
「教育方針? 本来自由なはずの数学の解き方を限定することがあなたの教育方針なんですか? ずいぶんご立派な教育方針ですね」
「……!」
「そもそも、この問題では解法を指定していません。特定の解き方を否定するのならその旨を問題に記載しておくべきでしょう」
陽奈の言っていることは正論である。野次馬の生徒数名からも「そうだそうだ」と声があがった。
「ぐ……! だいたい……どうしてあなたが佐々本さんのテスト結果をそこまで気にするのよ……!」
「樹里さんは私の友達です。それに、樹里さんに勉強を教えているのも私です」
「は……?」
「大事な友達が無能な教師にこんな理不尽な目に遭わされてるんです。抗議するのは当然のことです」
野次馬たちに混じって立ち尽くしていた樹里の目頭が熱を帯びた。
陽奈は私に怒ってるものだと、呆れているものとばかり思っていた。
でもそうじゃなかった。陽奈は私以上に憤りを感じていたのだ。樹里の頬を熱いものが伝った。
「む、無能な教師……ですって……!?」
「理不尽な採点で生徒のモチベーションを下げるような教師が無能以外の何だと言うのですか?」
伊達の顔がみるみる赤くなり、怒りに満ちた目で陽奈を睨みつけた。
「……! こ、このことはあなたの学校へ抗議させてもらいます! もちろん保護者へも」
「どうぞご自由に。では私も文科省の知り合いにあなたのことを伝えておきます」
「も、文科省ですって……!?」
「ええ。このようなことはあまり言いたくありませんが、文科省の官僚や教育に熱心な国会議員さんから、困ったことがあれば何でも言ってほしいとありがたい言葉をいただいていますので」
愕然としながらも、いまだ伊達は陽奈へ憎々しげな視線を投げつけていた。
「な、何でよ……! たかが期末テストの十点程度のことで、どうしてそこまで……!」
「たかが……十点?」
陽奈の瞳がぎらりと鈍い光を帯びた。
「あなたは……樹里さんがその「たかが十点」のためにどれだけ努力したのかわかりますか……?」
「は……?」
陽奈の全身がワナワナと震え始める。目には明らかな怒りの色が滲んでいた。
「樹里さんは……勉強が嫌いだと言っていました。バカだから先生に質問しても嫌そうな顔をされる、とも。でも、私と一緒に勉強し始めてからは、勉強が楽しくなってきたと言っていました」
やや俯き加減で、絞り出すように言葉を紡ぐ様子に、野次馬も教師たちも黙り込んだ。
「テストの前日、樹里さんは必ず七十点とると、私の期待に応えると言いました。でも、それは叶わなかった。どこかの無能な教師の理不尽な採点のせいで」
顔をあげ、キッと睨みつけてくる陽奈に伊達が思わず怯む。
「あなたに……あなたにわかりますか? 樹里さんがどれほど努力したのか……あなたが言う「たかが十点」のために、どれだけ時間を費やしたのか……!」
少しずつ陽奈の声が大きくなる。珍しく感情が昂っているのか、言葉も震えている。
「昨日、樹里さんは私に謝っていました……本当にごめん、と。自分が誰よりも悔しかったはずなのに、憤っていたはずなのに……!」
陽奈の瞳からこぼれた涙が頬を伝い職員室の床に落ちた。
「樹里さんの……樹里の努力を踏みにじるようなあなたの行為を私は絶対に許しません! 生徒の可能性を潰すような人は教師として最低です!」
陽奈の悲痛な絶叫が職員室にこだまする。成り行きを見守っていた教師たちも一様に目を伏せた。
初めて感情を露わにした陽奈を目の当たりにし、樹里のなかから熱いものが込み上げてくる。瞳からは大粒の涙がとめどなくこぼれた。
「ひ、陽奈……もう……もういいよ……」
声にならない声。樹里は陽奈のもとへ駆け寄ろうとした。今すぐそばに駆け寄り、その小さな体を抱きしめたかった。と、そのとき──
「そろそろ昼休みも終わってしまいますよ?」
場の空気を読まないような、のんびりとした声が職員室のなかに響き、全員が一斉に声の主へ目を向けた。
職員室の奥にある部屋から出てきた初老の男性は手を後ろで組み、柔和な笑みを浮かべている。
「こ、校長先生……!」
初老の男性の正体は、校長の東郷勇人であった。
「一通り話は聞かせていただきました」
陽奈と伊達のもとへゆっくりと歩み寄った東郷は、糸のような細い目をスッと開く。
「こ、校長先生! よかった……校長先生からもこの子に言ってやってください! 先ほどから私に対して暴言や言いがかりを──」
「お黙りなさい」
ピシャリと言葉を遮られた伊達の顔が驚愕に染まる。強力な援軍の登場に内心喜んだ伊達だが、東郷に冷たい視線を向けられそれが誤りであることに気づいた。
「伊達先生。神木さんが言ったことはすべて正論です。私からも採点のやり直しを求めます」
「な……!」
「それと、以前からあなたには生徒を選り好みし、特定の生徒へ理不尽な扱いをするなど問題行動も指摘されています。改めないようなら処分を検討するよう教育委員会へ報告しなくてはなりません」
「そんな……!」
伊達の顔色がまたたく間に悪くなり、やがて呆然とした表情を浮かべた。俯いた伊達を一瞥した東郷が陽奈へと向き直る。
「神木さん。このたびは当校の教師がご迷惑をおかけしました」
東郷が陽奈に頭を下げる。
「……私に謝る必要はありません」
いつもの表情に戻った陽奈がそっけなく言う。
「ふふ、そうですね。佐々本さんには私からも謝罪しておきましょう」
「……」
「それにしても……まさか佐々本さんに神木さんのようなお友達がいたとは……。これからも彼女をよろしくお願いします」
そう口にした東郷が、入り口付近で固まっていた樹里へと目を向け軽く微笑んだ。つられて目を向けた陽奈の目に樹里の姿が映り込む。
一瞬驚いた様子を見せた陽奈だが、スタスタと樹里のもとへ歩み寄った。
「陽奈ぁ……!」
いまだ涙が止まない樹里を陽奈は黙ったまま見上げる。
「……何、泣いてるんですか」
「陽奈だって……泣いてたじゃん……!」
その言葉に陽奈がぷいっと顔を背ける。これが照れ隠しの行動であることを、樹里はすでにわかっていた。
「気のせいです。それより樹里。これで目標の七十点クリアしましたね」
「……うん」
「では、私は帰ります」
ちょうど昼休み終了五分前のチャイムが鳴り、野次馬たちものろのろと立ち去り始めた。
「あ、陽奈!」
足早に立ち去ろうとする陽奈の背後から声をかける。振り向いた陽奈に何と言うべきか樹里が悩んでいると──
「樹里」
「な、何?」
「……また夜に」
それだけ言うと、陽奈はくるりと踵を返しスタスタとその場から離れていった。樹里が手の甲で涙を拭う。
「……うん。また夜に」
どんどん小さくなる陽奈の背中を、樹里は静かに見送り続けた。
──校長の意向もあり、樹里のテストは採点がやり直され六十一点から七十点へと変更された。
騒ぎの原因を作った数学教師の伊達晴美は、今学期限りで退職することになった。
陽奈との一件以降、これまでのテストの採点も見直すべきと多くの生徒から糾弾されたうえに、陽奈から無能呼ばわりされたことで教師としての威厳も失ったためだ。
別の学校へ移ることも考えたようだが、教師としてのプライドも粉々に打ち砕かれ、完全に自信を喪失してしまったらしい。
少しだけかわいそうな気はするものの、まあ本人がそう決めたのなら仕方がないと樹里は考えることにした。
陽奈が嵐を巻き起こして帰ったあと、ぼーっと午後の授業を受けながら樹里はあることに気づいた。
そう言えば……陽奈、私のこと「樹里」って呼び捨てにしてた。
また一つ、距離が縮まった気がする。樹里の頬が思わず緩んだ。
授業終了のチャイムが鳴り、クラスメイトが思い思いに会話を始める。
さっきまであれほど耳障りなノイズだと感じた姦しい女子たちの声が、今はオシャレなカフェで流れるジャズミュージックのように心地いい。樹里はかすかな笑みを浮かべると、本日最後の授業に向けてテキパキと準備を始めた。
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