角砂糖売り

肥後妙子

第1話 ふざけ小悪魔と気弱そうな悪魔

 悪魔が出没するようになって数年たちますが、人々はそれほど絶望を感じていませんでした。対抗策が意外に早々と見つかったからです。

 

 それは角砂糖でした。人を惑わす悪魔や小悪魔に角砂糖を投げつけると奴らは満足そうに崩れて消えてしまうのです。悪魔が消えた後には砕けた角砂糖が残り、蟻が列を作って砂糖の結晶を運んでいるのが見られました。そんな光景を見た人は、ああ、ここに悪魔が出たんだな、と察し、数秒それに見入ってすぐに立ち去るのでした。


 角砂糖売りという職業も生まれました。その名の通り角砂糖を売り歩く行商人で、主に珈琲や紅茶を出す店にやってきます。緊急事態には、誰にでも角砂糖を後払いで売ってくれます。だから道行く人々は角砂糖売りの姿を見かけると、それだけでなんだか安心するのでした。

 

 今もこちらの珈琲店にやってきました。今日の曇り空のような淡い灰色の長い口髭を生やし、角砂糖の袋がいくつも入った大袋を背負っています。珈琲店の扉を開けるとドアの上部につるされたベルがカランと軽やかに乾いた音で来客を知らせました。お店の中は淡いオレンジ色の灯りがともっています。


「やあ、こんにちは。そろそろ角砂糖の補充が必要な頃だったんです」

 黒髪をワックスで撫でつけた若いマスターがにこやかに挨拶しました。チェックのネクタイに雪のように白いシャツ、黒いジレと黒いズボン姿です。

「こんにちは。品物はこっちに置いておきますよ」

「お世話様です。さあ、一服していってください」

「ありがとう。いただきます」

 

 角砂糖売りは手近なカウンター席に座りました。カウンターはカフェオレのような白茶色でつやつやしていました。椅子の背もたれも同じです。このカウンターに座る人の多くがこの色を見てお菓子のコーヒーキャラメルを思い浮かべるのでした。


 お店はさほど大きくなく、窓ガラスは白とオレンジ色の市松模様のステンドグラスでした。テーブル席は椅子も併せてブラックコーヒーのような色です。一見、黒に見えますが光の加減で茶色を帯びているようにも見えるのでした。床はベージュ色のタイルです。カウンター席より白色が強いそのタイルもミルクたっぷりのカフェオレの色に見えました。


 角砂糖売りに出したコーヒーの上にマスターがスプーンを出し、角砂糖をひとつ乗せてブランデーをかけると火を付けました。そしてコーヒーの液体に落とします。昔からある飲み方ですが、悪魔が現れるようになってから縁起の良い飲み方だと大流行したのです。

 角砂糖売りもマスターも縁起を担ぐのが好きでしたから、この飲み方を大いに好みました。で、マスターは角砂糖売りがやってくるとこのコーヒーを一杯おごることにしているのです。


 お客さんの姿がまばらな時間でしたが、テーブル席の三人組の女性が話しているのが聴こえました。正確には、三人のうちの一人です。


「全く身に覚えがないのに苦情が来るから嫌になっちゃう。でも、その人って見た目がすごく可哀そうな感じがするのよ。髪の毛は寝起きみたいでボサボサ、実際パジャマ姿の時が多いし、目は赤くてショボショボしてる。寝不足というより花粉症みたいな目よ。その人が上の階の貴女の部屋の騒音でなかなか眠れない。対策をとってくれませんかって言うの。でも変なのよ。私の家は一階で下に家なんかないの」


 聞いていた女性の一人が言いました。

「なにそれ?悪魔じゃないその人。そんな人に家に来られて怖いじゃない」


「怖くないわよ。だって悪魔は私だもの」


 その声が店に響き渡ると一瞬の間の後、マスターも角砂糖売りも、他のお客さんも全員が立ち上がり悪魔に向かって身構えました。悪魔と名乗った女性はゆっくりと立ち上がると角砂糖売りの方を向いて薄笑いをしました。


 角砂糖はカウンター席のシュガーポットから角砂糖をひとつ取ると悪魔の女性に向かって投げつけました。角砂糖は女性の眉間に当たって砕けました。悪魔の女性はペロリと舌で唇をなめると微笑みながらこう言いました。

「天国の味!」

 その言葉を言い終わったとたん悪魔は琥珀色の砂のかたまりとなって崩れていきました。


「ふざけ小悪魔ですね。大した悪ふざけはしなかったようだが……」

 マスターが緊張の面持ちで琥珀色の小さな砂山を見ています。その砂山は溶ける粉雪のように徐々に消えていきました。残ったのは砕けた角砂糖だけ。


 ふざけ小悪魔と一緒に居た残りの女性二人は、お勘定を済ませると店を出ました。

 出る時にマスターと角砂糖売りにきちんとお礼を言いました。


「さて、角砂糖を店の外に出しますか」

「砂糖は蟻か地面へ、の作法ですね」


 お店は再び静かにコーヒーを飲む人たち数人になりました。マスターがほうきで砂糖をはく音が響きます。砕けた角砂糖を店の外に出そうと扉を開けると再びカランとベルの音がしました。

 ドアのすぐ外にはパジャマ姿の寝起きのような男性が立っていました。目は赤くショボショボしています。

「下の階に住むものですがこちらの騒音が気になって眠れません。対策をお願いしたいのですが」

 マスターは困惑の表情を見せました。何故ならマスターのこの店は半地下で、この店より下の階というものが存在しないからです。


 マスターの困惑を引き受けるように彼の後ろに立った角砂糖売りは、気の毒そうな外見の寝起きの男性を見つめて言いました。

「貴方も悪魔なのではないですか?」


 目をショボショボさせた男性は言いました。

「そうかもしれません」

 そういってパチパチと瞬きをしました。


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