きみへのハビトゥス

武田ウグイ

第1話 日常のおわり

「義兄ちゃん! あれなに?」


アヤが指をさすほうには、リュウスケの見慣れたものがあった。飛行船は夕陽が黒く際立たせた山並みの影からあらわれた。都市の空には必ずひとつ以上の行政船が飛んでいるが、この田舎で見れることは今までないことだった。


「アヤちゃん、あれが飛行船だよ。大きいだろ?」 


「あれが!? 見てくる!」


アヤは歩いてきた道を戻ってそれを確かめた。かなり遠くへ行ってしまったようだ。


「クジラみたい」 そのように聞こえた気がする。


リュウスケも視線は中空を見据えたまま、言葉をなくしていた。飛行船は山から盆地へとおりると、かなり高度を下げた。山に囲まれた田畑には遮るものがないため、もしかしたら都会よりも低く飛んでいるのかもしれなかった。リュウスケは近づいてやっとわかったのが、腹の半分が黒いことから保安船のようだった。アヤが薄暗いなかを戻ってきた。そしてリュウスケの外套にぴたりとついた。


「なんかこわいね、あれ」 そうくぐもった声が聞こえた。夜闇の空に映える50米の白鯨に見つからないように、しだいにリュウスケの身体の陰へ隠れるようにつとめていた。


「大丈夫だよ。あれは保安船で、悪い人をつかまえてくれるために飛んでいるんだから」


アヤは返事をしなかった。そして思い出したことがあった。


「アヤちゃん。飛行船からライトを当てられても、絶対に船にむけて文句をいったり、にらんだり、挑発するようなことしちゃダメだよ」


「じゃどうすればいいの?」 ふり絞った声だった。


「顔は下を向けててもいいから、ただじっとしてればいいんだよ。これは都会でもみんなやっていることなんだ」


そのうち、飛行船から地上へ5つの強烈なライトが降り注いだ。夜のとばりが下りはじめたばかりの田畑や家々、山、水路や池など、地表を円の形をした光であちこち嘗めまわした。そのうちのひとつがリュウスケとアヤを捉えた。アヤはキャッと高い声をだすと、下のほうから外套のなかにもぐりこんだ。それでも彼女を隠すほどの充分な余裕はリュウスケの知的労働者用のスマートな外套にはなかった。8歳の女の子が入ればパツパツだった。


なに、たぶん向こうさんも今までのおれらを見てるはずさ。リュウスケはまさか呼びかけ(・・・・)られはしないだろうと思っていた。


決められている所作があるとはいえ、侵害的ともいえるライトの照射を受けるのは、リュウスケにもあまりいい気分ではない。飛行船は空を滑るように動いているにも関わらず、彼ら二人への照射はしばらく続いた。リュウスケも中核市で教わったことにのっとり、照射を受けているあいだは反抗的な態度をとらずにただ光から顔を伏せているようにした。もし向こうが地上にいる人間に命令する必要があれば、備えつけの電気拡声器のいかめしい声が響きわたる。それに従わずに逃げた場合は、それ自体が罪になっているし、付随する犯罪があればどのような罪であれ通常よりも量刑は加算される。


保安船は山の際にあるかすかな氏家の灯りも照らしだしたが、なによりもリュウスケとアヤに興味があるらしく二人への照射の時間はわりあいかなり長くつづいた。コンパスの軸のように彼らをライトで監視し続けた。その真上を横切り、船がリュウスケたちの氏家の上を通過してようやく二人への照射をやめた。山あいにある村のすみずみをライトで空から暴いて ――まさしくリュウスケの地元を嘗めまわして―― 高度を上げてまた山の向こうへと消えていった。そしてまた街灯もない田舎にもどったのだった。空には三日月が浮かんでいた。


「ライトのせいでまた見えなくなっちゃったね」 ここではまずお目にかかれない強いライトが、一度暗闇に慣れた目を昼のそれに戻してしまった。アヤは応えずにただ片手で外套を掴んでいる。


「まっすぐ歩くだけだけど、足元に気をつけてね」 リュウスケはぴったりくっつくアヤをそのままに夜道を歩きだした。今朝はこの道に凸凹や水たまりはなかった。それから雨も降っていない。毎日歩く慣れた道をほぼまっすぐ行けばよかった。


彼女はヤンチャだが知りたがりなのは、氏家の子どもたちのなかでも特に自分に似てきたかもしれないと、近頃のリュウスケは思うようになっていた。しかし、アヤは妻の妹なので血の面では他人であることを思いだして苦笑した。


「ねえ義兄ちゃん」 アヤがおそるおそるいった。少々の沈黙のあと、やっとふりしぼるような声だった。


「どうしたい?」


「さっきの飛行船、また戻ってきてわたしたちのことをさらったりしない?」


ははあ、なるほど。リュウスケは子どもらしい純粋な想像に合点がいった。


「そんなことはしないよ。あれは上から命令するだけで、怪しいやつを捕まえるのは下にいる警官の役目さ。警官は都会だけにいるし、そもそもぼくらに声はかからなかっただろう」


「そうだったんだ…。あの時はあのままさらわれるかと思ってた」 


「そう思うのもあるだろう。でも怖そうなもんばかりじゃないよ。あれは保安船だったけど、広報船というのもあってそれは船の腹に行政府の決めた政策や標語がでかでかと書かれて飛び回っている。そうしてみんなに知らせるんだよ」 


アヤは首をうんうんと振って納得していた。


「あの…保安船は義兄ちゃんみたいな頭のいい人にもあんなことするの?」


「ああ、都会だとだいたいスラムや工業地帯とか、港湾の船員街の上を飛んでいてにらみを利かせてるんだ。たまに知的労働者のいるビルディング通りにきたりするけど、たぶんそこに逃げこんだ犯罪者をおっかけてきたんだと思う。飛行船と警察隊との連携で拳銃やサーベルをもった強盗を捕らえる場面をみたこと、ちょっと前に話したろ?」


「うん。やっぱり都会ってこわそうだね…。あそこにいる人たちは氏家に住んでないんでしょ?」


「そうだね。都会に住んでいる知的労働者はアパートメントで父親、母親、それから子どもたち。お金に余裕があれば女中さんを雇ったりして生活してる。けど、さっき言った飛行船によく照らされる人たちはいろいろ。一人で路上生活したり、アベックで狭い部屋を借りたり、大勢の労働者は一夜限りの宿屋に毎日泊まったり泊まれなかったりするんだけど、たいがいは床に雑魚寝だね」


その様子はとても子どもに詳述できるものではない。性病と薬物、盗みや売春に同性愛に殺人と強姦。都会はこわいというアヤの発言にはとても同意する。少なくとも貧民街はそうだ。氏家からあぶれた人間はそこに行きつくしかないのだ。愛や思いやりを断たれた精神の荒廃を、リュウスケは都会へ働きにでた初日の午前から目撃したのだった。


「あ、義兄ちゃん」 アヤはいままでの話を振り払うように、自分が気づいたものに反応した。


「なんかくるよ」 


うしろの道から光が見えた。二つの狭い間隔のライトだ。それはエンジンの音をともなって、道をがたごと鳴らしながら二人のところへたどり着いた。車は村営駐車場の幌のないもので、運転手はそこの管理人、ナカノの氏家、五男のユウジロウだった。彼は夜型の生活が自分に合っていたため、弟といっしょにこの村の人間がつかう車の駐車場を管理している。


「こんばんは、というかさっき言いましたね」 車の運転席で彼は笑った。リュウスケは笑い返す。


「やあ。ぼくはカギでも落としたのかな?」 リュウスケは外套のポケットをさぐる。金属の音がした。


「それとも別の何かかな」


「いや、落し物じゃありません」 彼はかぶりをふった。


「さっきのあれ見ましたか? あれは飛行船っていうんですよね? お上の飛ばしてる」 


「そうだよ。いつも街でみてる。あ、なんとなく察しがついたぞ」


「そうです。いやたまげた! ぼくも都会に行ったことがないわけではないですが、あの時の船がこんなところにくるなんて…まるでクジラみたいでした。あいつ(・・・)は駐車場の詰所のすぐ上を通って、脅かすみたいにこっちにジロジロと光を向けてきて…詰所の外にエサをねだってた里犬はみんな逃げちゃいましたよ」 


彼は昂奮していた。ここの者ならそういう気持ちになるのもわかる。いまごろはここから見える灯りのしたで、つまりあちこちの氏家のなかで同じ種類の昂奮が湧きあがっているのだろう。


「で、心配でぼくらのこと見にきてくれたのかな?」 


リュウスケは年上だが格下のユウジロウに余裕をもって訊いた。ここらへんでは都会に働きにでているリュウスケは、氏家の別なく敬意を払われていた。羽織っているブラウンの外套は知的労働者が着用することが儀礼的になかば義務付けられているものだった。それ以上の意味はないのだが、村人たちにはそれがそのままリュウスケのようなインテリの地位の対外的な証明であると思っている節があった。


「ええそうです。なにせあんなんはじめてここらへんで見ましたし、もしかしたらリュウスケさんに用があったんじゃないかなと思ってました」


「そんなことはありえないよ」 リュウスケはさすがに笑いをこぼした。


「ぼくの仕事は行政府とはなんの関係もないんだよ。貿易会社の事務員でしかない」


「そうでしたか…。いやね、ここらあたりじゃ都会に関係しているのはリュウスケさんくらいなもんでしょ? あとはカワカミの旦那があっちのほうに町工場を持っているなんて話もあったけどなぁ…。まあともかく、お宅まで送りましょう」


「え! うれしいありがとう!」 アヤはお礼も早々に、一目散にドアをあけて助手席に乗った。リュウスケは後部座席に乗りこんだ。




屋敷のなかは飛行船の話題でもちきりかとリュウスケは思っていた。あるいはてんやわんやしてるかもしれないとも想像していた。


だが、玄関のガラス戸を開けても屋敷のなかからは喧騒が聞こえない。どころか夕げの時間だというのに、そう遠くない大座敷と炊事場からは人の声もしない。大人数の人間が出入りする玄関周りは、それなりに広い空間を擁していて、それだけに普段と違う事態の異質さを、居住者がいちはやく感じとれるところでもあった。


「ただいまー!」 


リュウスケが声を張り上げた。だれもこない。マツイの氏家は子どもも含めれば二十数人いる。屋敷は広いほうだがだれも反応しないことは今までなかった。もう二度叫んだが、子どもたちの一人もきやしない。


「どうしたのかな」 リュウスケはアヤをみると、彼女は自分にピタリと寄り添っていた。


「アヤ、さっきまでお姉ちゃんとかいたんだよね?」


「わからない」 


「え?」


「だってお昼食べたあとにハルちゃんのとこに遊びに行って、夕方まで遊んでから義兄ちゃんを迎えにいったんよ」


「だから灯りも持ってきてなかったのか」


リュウスケは、また自分を掴みはじめたアヤとともに家人を探すあいだ、今日は何の日か思いだそうとした。氏家と国の、どちらの記念も祝いの日もだ。しかし思い当たることはない。そもそもこの村においては、どの田舎においても「国家」の果たす役割などほとんどないに等しい。現実の生活感や生業を形づくっている氏家という共同体以上に人々の統合や結束を惹き起こすものは巷では考えられない。行政府の影響が比較的強い都会の肌感覚を知らないかぎり、それこそが人間の一生と世界とを形作るべてだった。


大座敷、祖父母の部屋、大広間、布団部屋、炊事場、中庭、急な階段…。二階のすべて、「天守」と呼ばれている三階の小さな畳間。電灯をつけたり消したりしながら、だだっ広い家を残らず探しても家人はどこにもいなかった。リュウスケは鳥肌がたち、恐怖の次には極度の不安におそわれた。不安は自分の妻子についてだった。悪いことが心中に湧きあがっているなかで三階から階段を下りていたら、二階をすぎたところで段を踏み外して盛大に転がっていった。大きな音の割りには彼自身はなんのケガもなかった。あとから下りてきたアヤは最初は身を案じてくれていたが、堰の際へどんどん水位が高まっていくように様子がおかしくなりはじめ、すぐに泣き出してしまった。大粒の涙をたえまなくまき散らしながらうわんうわんと泣いた。それは氏家中に反響したように思われた。


「さっきの飛行船が連れてっちゃったんだ」 


「そんなはずないよ」


「義兄ちゃんは心配じゃないの? お姉ちゃんとショウタがいないのに」


「そんなことはないよ」 


おれだって泣き出してしまいそうなんだ。こんなことは今まで一度もなかった。きみを慰める義務がなければ狼狽して世にも見苦しいさまになるにちがいない。


リュウスケは中核市の図書館から借りてきた育児の本のとおりに、膝をまげて子どもと同じ目線になって必死にあやした。8歳の子には言葉を使ってだ。


「大丈夫だよ」 「みんなすぐに帰ってくるよ」 「不安や心配はほとんどが起こらない」


と、あてもないことを言うしかなかった。彼の奮闘もむなしく泣きつづけるアヤの声はたえまない。リュウスケは転落した痛みもわすれ、大人としての振る舞いが困難になりかけた。彼は苛まれながら少し考え、まだ捜索していない場所を思い出した。


「あ! 庭を見てなかったね! そこにみんないるかもしれない!」


反射で放った言葉を発条に、アヤの手をひいて炊事場にむかった。


どこかにいるだろう誰かいるだろう、そんな楽観的な観測は歩を進めるたびに現実は反比例してゆく。最悪の光景が、この世の悲劇が煮詰まった悪い空想はなんどか脳裏にちらついた。その描写は東西の奇妙奇天烈な話をのせたエロ・グロ・ナンセンス本からの引用だ。あるときには――これは充分にありえる現実的な部類では――西洋の氏家がオオカミの血が混じった野犬の群れの襲撃を受けて全滅、その惨いさまをいやらしく、くどい文章で描写されていた。別の話には、これは怪異の部類だが、南の土人の集落である少年が村近くの森で食用ネズミを狩ったのちに帰宅したところ、50人はいたはずの氏家にはだれひとりなくなっていた、とのことだった。怪奇主義者で残酷な結末が好きらしい著者は、これを土着の妖怪の仕業だと断じていた。


リュウスケは不安で胸と腹がきゅうきゅうとなくのを抑えながら、アヤとともに再び炊事場ののれんをくぐった。かまちを下りて、またそこにあった下駄をはいた。電灯のスイッチをいれても薄暗いなかで戸棚をあさってカンテラを探す。うしろにいるアヤのぐずり声に心乱だされないために、なによりも余裕をもちたいがために、探す動作もあえてごくゆっくりにした。大海の底のような深呼吸をしながら行動のみに務めた。こうすることで身体のなかの鎮静の神経がはたらき、休まるのだと中核市の労働者同好会で学んでいた。その種の情報の収集と実践は、リュウスケの趣味でもあった。


思いのほかおちついた。リュウスケは直近でどうするのかを考える余裕ができた。そうさ、たとえ庭にいなくてもそのまま家を出て、大豆畑を隔てたとなりのヨシダの氏家に駆け込もう。あそこはなかなか騒ぎやすい家風だから、そのまま家人が伝令になってマツイ家の不思議な失踪事件を村の氏家に伝えてくれるだろう。いまの時間はどこの家も夕食で集っていて欠けは少ない。そのまま公然の事態 ――あくまで村の中で―― になれば、もう自分とアヤだけの問題じゃない。負担は軽いほうがいいし、なにより行方不明者の捜索には足も目も多いほうがいいのだ。今回は規模がけたちがいではあるが…。


カンテラとマッチ、それから油をしみこませた綿糸をみつけ、窓辺の台にもっていき、ばか丁寧な作業をして灯をともした。ガラスのなかでささやかな火が燃えつづけていた。


リュウスケは顔をあげた。炊事場からながめれば父兄の趣味で彩られた庭がみえる。三日月くらいではその手入れされた松も、踏まないようにときつく言われていたミズゴケも見えない。彼らはしばしば炊事場にイスをおいて、そこからの景観について議論していた。


その庭が急に光に照らされた。暮れた夜をつんざく閃光はもろにリュウスケの目に入った。


「うわっ」 


リュウスケは堪えきれずに防衛的にしゃがんだ。目をしばたたいたあと、下からその光を見上げた。強い光りで、なにかのライトのようだ。さきほどまで照らされていた飛行船のライトを思わせるほどの灯りだった。しかしそれよりも無論小さい。しかも色合いは今まで見たことがないくらい白い。快晴の雪原の大気を切りとってこの夜闇に置けば、まさしくこのようになる。リュウスケにとって、というよりもこの世の人間には見たことのないであろう光景だった。


カンテラに灯る火は窓のほうを向いていたが、白い光りにのまれて役立たず同然に目立たなくなっていた。真上をうかがっていたら、アヤが縮こまりながらリュウスケの隣にやってきた。


「しずかに」 リュウスケはアヤに小声でいった。光の軌道は障りなく動いた。火の灯るカンテラはもちろん、炊事場の電灯、流し、竈、漬物樽をそれぞれ窺うように照らしていった。ライトはしだいに、その照らしつける円が大きくなっていった。持ち主が近づいてくるようだ。もう怪異だと認めよう。リュウスケはそう思った。いったんは目の前のことがなんであろうと、バカになってオカルトに追いやってしまえばいい。そうすれば取るべき行動はすぐわかる。あの鋭い光から逃げなければいけない。他の氏家に救けを求めるのだ。わけのわからない状況に第三者をいれなければ、二人は永遠にこの幻想か恐怖の世界をさまようことになってしまう。さいわい、廊下に出ればすぐに玄関だった。


「アヤちゃん。おれにも何がなんだかわからないけれど、普通じゃないことが起こっているのはきみもわかるだろう。玄関まで走るよ」 耳にささやくとアヤは首がもげそうなほどにうなずいた。


「わたし、走るの義兄ちゃんより遅いだろうから、手を繋いでほしいな。転んだらごめんなさい」


「もちろん。あのライトに捉つかまらないように廊下までいくよ」


彼らは土間を這った。固めた土がリュウスケの外套とアヤのもっぺを汚した。リュウスケの服はたかだか見栄のために値段が張り、見た目にもわかる上等さから祖母など古い世代は天の羽衣のように扱っていた。怪異に際してはどうでもいいことだった。彼らはかまちをあがり廊下に達した。ライトから逃れたと思っていた。


「すみませーん!」 


外から、ライトの方角から声がした。つまりあの持ち主だ。アヤは聞こえた瞬間にビクッと固まった。


「このお宅の方ですよねー!!」


炊事場の建築のすきまからよく響き渡った。声はそれっきりしなくなった。しばしして、庭砂利を踏む音がした。鳴り方からして走っているようで、玄関の方角へむかっている。つまりこちらに来ようとしているらしい。


リュウスケは身を起こした。アヤを連れてそいつから遠ざかろうと瞬間に反応したのだ。


「アヤ! 行くよ!」


そう呼びかけてもアヤは動かなかった。


「アヤ! なにをしている!」


炊事場のわずかな電灯の明かりからわかるその顔は、口をすこし開けた無表情にみえたが、その実は緊張で固まって動けないに違いなかった。リュウスケは以前に退勤のときにみたタヌキのことが脳裏に浮かんだ。そいつは車のヘッドライトに目を見張らせ、そのうちどこかへ消えた。生物に詳しい同僚によると、タヌキは自動車に轢かれて死ぬ割合がほかの獣より多いらしい。一世紀前に自動車が天下に普及したときにその傾向が発見され、有志の動物好事家の研究でわかったそうだ。それ以前にも、擬死という行動があることは猟師には知られていたらしい。今のアヤも以前にみたタヌキといっしょで、未知に際しての驚愕から動けなくなっているらしい。今日一日の体験を考えればそれもありえた。


未知がなんにせよ、われわれは怖い。かつぎあげて彼女を退避させることも考えたが、リュウスケは固まった10歳の女の子を持ちあげて移動できるほど、自分に力がないことは自覚していた。この氏家の家人のように百姓仕事をやっているわけではないので、力を使うことを身体が忘れている。そのときに玄関の横戸が引かれるガラガラという音がした。


リュウスケの炊事場にもどった。立てかけてあったすりこぎ棒を握った。その隣にあるどっしりした備え付けの石臼で穀物をすりつぶすためのもので、短いが警官のもつ硬木の警棒よりも重く、頼りになりそうな得物だった。曲者が廊下を炊事場へ歩いてくる音がした。彼はアヤを羽交い絞めにすると(そこまでしなければ動かせなかった)なんとか引きずって炊事場の机のしたに隠した。彼女は同じ重さの針金の芯がはいった人形のようだった。リュウスケは電灯を消すと、真っ暗闇のなかでするこぎを構えて、炊事場の入り口に控えた。かまちとの段差で転んでくれれば簡単だが、と戦術的なことを考えた。


板間を蹴る足音が近づいてきたが、そこから遠ざかった。それはあらぬ方向へ向かっていた。この家の構造がわからないのだろう。しかし、向こうから呼びかける声などは聞こえない。侵入者の不躾な忌々しい音が遠く近く、響いてくるのみだった。


リュウスケはもはや苛立ってきた。人の氏家に勝手に侵入した曲者がいて、そいつは自分を名乗ることもなく家の人間に接近しようとしている。社会的にいえば棒でのした(・・・)ところで理はおれにあるんだ。あいつの声こそ若くて快活そうな、人懐っこさも感じる男の声だったが、都会ではニコニコしながら通行人に走ってきてぶん殴り金目のものを奪取したり、婦人だったら乱暴の憂き目にあうという路上犯罪があるらしいのだ。もしかしたら家人はみな殺されて庭に埋められているかもしれない。


一瞬のゾッとする光景に ―――まさにこの世における最大の理不尽――― に気分が悪くなった。どちらにしろぶちのめしてやる。仲間もいるかもしれない。そうだったら、祖父の部屋の床下に秘匿されている猟銃が助けになりそうだ。


リュウスケは全く自分にらしからぬことを考えていることに気づいた。エリカとショウタへの気持ちがそうさせるのだと思った。この長く続いた前後不明な不安に満ちた状況で、やっと能動的なことができる。空想が進むはずだ。


足音が近づいてきた。そしてリュウスケの控える入り口の陰から、対角線にみえる廊下の奥がうっすらとライトが照らされた。さきほどのものだった。そして足音とともに徐々にそのライトは大きくなっていく。照射しているやつは壁をへだててリュウスケの側から歩いてきているらしい。屋敷の構造に迷いながらも、方角の見当はついているらしい。リュウスケはアヤに手で指図した。手のひらで抑えるように。「そのままじっとしていて」


はたして彼女に見えたのかどうかはわからなかった。


リュウスケはヤモリのように身体を平たくして、身体を壁に貼りつけた。曲者の足音の振動を全身で感じとることができた。あまりがっちりしていない人間だと推測した。さきほどの声も言葉遣いや適度な高さからして年齢は18あたりのような気がした。


「すみません、そこにいますか?」


聞こえてきたのはまさにその声だった。ライトはもう炊事場ののれんをななめに照らしていた。アヤは変なことをする気配もない。このまま入ってきたやつを強襲してしまおう。


「棒を構えているようですけど、これじゃあちょっと怖くてそっちに行けません。大丈夫、ぼくはあなたを攻撃しませんから」


気配で感づかれてしまったらしい。心臓が今日いちばんに躍った。リュウスケはライトが照らされている方向をみたが鏡はなかった。ならば、おれのいまの状態がわかるのだろう? 


「あなたがでてくるまで待ちます。どうか殴ってこないでください」


侵入者は始終張りのない声だった。楽観的かあるいは物事の状況がわかっていない態度がそこからよみとれた。リュウスケはアヤのいるほうをみた。アヤは擬死状態がとけたようで、机の下から顔をだしてリュウスケをうかがってみたり、垂れ下がっているのれんをみたりときょろきょろして、とても迷っていた。呼びかけられたことに驚いていた。リュウスケはさきほどの手での指示をまた繰り返した。


「女の子もでてきてだいじょうぶだよ。ぼくはなにも害をあたえないよ」


リョウスケの驚愕をよそに、アヤは机の下から這いでてきた。まだ義兄の顔色をうかがいつつ、ここにきて女の子らしく控えめな動作でのれんのほうへ進んでいた。リュウスケは危険をおぼえてアヤの腕を捕まえようとしたが、その前にのれんを照らしていたライトが正面からアヤの顔を照らした。


「きゃっ」


アヤは顔をおさえた。


迷いもふくめてそれまで累積していたものが爆発し、リュウスケは棒を振りあげてかまちの縁をダンと踏んで躍りでた。侵入者はおのれの挑発行為に反して、高い悲鳴をあげてうしろに転んだ。ぶれぶれの視界のなか、打撃でそいつの膝を壊してやろうとした。


その瞬間、膝が崩れた。かまちはもう背後にあるので段差につまづいたわけではない。ただ脚がはたらかない。廊下の板間に身体の正面からたおれると、それっきり起き上がれなくなった。上半身すら意のままにならなかった。顔をあげることもできない。リュウスケの顔は左を向いていた。


「間に合った」


声はその反対のほう、屋敷の奥のほうから聞こえた。


そいつも若そうだが、殴ろうとしていたやつよりも心身ともに芯のありそうな声だった。近づいてくる足音からしてもかなり体重があり大柄なようだ。


「あ、マイクさん…」


「バッカ野郎」 頭上でなにかを殴る音がした。


「過去住民との接触は細心の注意をはらえと言っただろうが!」


「ご、ごめんなさい! マツイさんたちがもうこの人に電話してるかと思ったんです」 リュウスケが襲おうとした若い男はひどく怯え声だった。


「この時代に電話などない。まだ通信機は政府機関しかもってないんだ。それにしても襲われたらしいな」


「は、はい。女の子もいて、その子にライトが当たっちゃったんです。あ、ほらでてきた」


アヤがかまちをあがる音がした。なにを思っているのだろう。リュウスケにはなにもわからなかった。


「マツイアヤさんですね? ご家族はお庭の地下のシップにいらっしゃいます。一番大きな松の木のところの地面にハッチがあって、そこを持ちあげて階段を下れば…ああ、ちょっと」


アヤがどこかへ走ってゆく音と振動がした。


「だ、だいじょうぶですかね…。知られたらまずい…」 若い男は恐る恐るたずねた。


「屋敷の入口の門、それから通用口は閉じてある。期限がきてマツイさんたちが地下から出てくればいろいろあの子もわかるだろう」 マイクはふんと鼻を鳴らした。


「それより、お前とサーシャには始末書を書いてもらわなければならん」 


「え」


マイクという男はリュウスケの顔のまえに現れた。むろん手持ちの灯りをともなってである。そいつの歳はリュウスケよりすこし上で、顔からして外人とのあいのこであるようで、気配や声でわかるように非常に頑健な体つきと、短髪に険しい顔をしていた。端的に言うと有能で頼りがいがありそうな男だ。あいのこは優秀な人間が多いと聞いたことがあった。彼は丁寧で慇懃に話をした。


「大変申し訳ありませんでした。マツイリュウスケさん。こんな状況ではまさしく主客が入れ代わっていて、私どもとしても大変心苦しい。この賠償は念入りにさせていただきます。


それから数々の無礼をお詫び申し上げます。まず申し上げたいのは、あなたのご家族は無事です。われわれから何も危害を加えられていませんし、われわれと良好な関係にあります。さきほどの通り彼らはいま、庭の地下の施設にいます。あなたが動けないのは、ニューロ銃…つまり神経に影響を与えて、人畜を無力化する非殺傷武器です。後遺症は残らないように入念に設計されています。声が出せないのは誠にご勘弁いただきたい」


マイクはリュウスケを通り越して、軽薄な男にいった。


「おい、マカロフ。ご家族をシップからお連れしろ。われわれはリュウスケさんとアヤさんから信用を得ねばならん」


「はいっ」 


軽薄なマカロフはリュウスケの視界の隅を通った。おそらく玄関へだ。その髪の色はバカみたいな緋色だった。


「重ねてお詫びします。が、まだわれわれのことを名乗ってもいませんでした」 


重ねてマイクは顔をゆがめて詫びた。リュウスケの闘志は、そして怒りは、理知的そうなマイクをまえにして急速にしぼんでいった。


「われわれは…」

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