第4話 桜雨の紅茶とイチゴのフレジエ~祝福の花びらを添えて(3)

 やがてティーカップが脇によけられ、代わりに大きな丸皿が給仕された。華やかな色合いが目に飛び込んでくる。


「お待ちかねのスイーツは、イチゴのフレジエ~祝福の花びらを添えて、でございます。言うなれば、フランス版イチゴのショートケーキですね」


 三角ではなく、大人っぽい感じの長方形をしているけれど、桜色のつやつやでコーティングされたトップには真っ赤なイチゴが乗っていて、ショートケーキと言われるとなるほどと思う。

 さらには、カットされたイチゴの断面がこちらを向くように生地の間に並んでいて、ものすごく華やかだ。


 しみじみと感激したところで、ぐうぅとお腹の音が鳴った。朝はいつもコーヒーだけだし、昼はくだんのニュースのせいで何も食べる気が起きなかった。

 ひとりの男に7年かけて2度目の失恋をし、こんなに静謐せいひつで美しい場所にあってさえ、食欲は湧く。なんだか力が抜けてしまった。


 絶対聞こえているはずなのに、セノイさんは澄ました顔をしている。本当はツッコんでくれたほうが気が楽だけど、レディの恥じらいに触れずにいてくれるというのなら、ありがたく乗っておこう。

 ということで、素知らぬ顔で「ショートケーキとどう違うんですか?」と聞いてみる。


「もっとも顕著な違いはクリームです。贅沢にアーモンドプードルを使用した生地に、バターとカスタードクリームを混ぜて作ったムースリーヌというクリームをサンドしています。

 さらに今回は佐倉様のための特別仕様ということで、生地に桜のシロップを染み込ませております。もちろん、ムースリーヌにも。

 桜風味のこっくり濃厚な甘さと、イチゴのフレッシュな酸味をお楽しみいただけますよ」


 セノイさんの説明が、ますますこの一切れを愛らしく、特別なものにしていく。


「イチゴと一緒に挟まれているクリームが、ほんわり桜色なのもかわいいですね」


「そうでしょう? 今夜の一皿は私にとっても創造的な冒険でした。過去を卒業し、この春に一歩踏み出す人を祝うための、特別な一品にしたかったので」


 ケーキの周りには、薄く削られたピンクのチョコレートが散らされている。「祝福の花びらを添えて」のフレーズそのままの景色は、春の喜びに満ちている。


 うやうやしく「いただきます」を言ってひと口頬張ると、満開の桜の芳香に思わず目をつぶった。ムースリーヌの豊かな甘味には、確かにカスタードのコクを感じる。

 シロップの染み込んだ生地の柔らかさまで完璧で、ひりひりする心に優しく綿花を当てられているみたいだ。

 

 おいしくて、甘くて、かわいくて、優しくて、全部が胸に沁みる。イルカの笑顔をしたスバルにも、いつもこんな想いを感じていた。

 じわりとした瞳の熱さを隠すように瞬きしたきり何も言えないでいると、思い出したようにセノイさんが言った。


「そうそう、失念しておりました。チョコレートでできた桜の花びらに、ところどころ雫のようにかかっているつやっとしたコーティングは、ナパージュと申します。

 春の雨のようで風情が出るかと思いまして。見る方によっては、別れの季節の涙と映るかもしれませんね」


 膝もとのナプキンで、口もとを拭うふりをして軽く鼻を押さえる。不思議だ。私の代わりにフレジエこの子が泣いてくれたみたいに、つんと痛かった鼻の奥が楽になった。


 フレジエは震えるほどおいしかった。桜の香りがしたかと思うとクリームのまろやかで深い甘みが広がり、じゅわっと溢れ出るイチゴの果汁が口の中をさらっていく。カロリー不足の体には、甘みが一番のごちそうだ。


 私はぺろりと平らげると、まるでラーメンを汁まで飲み干した人のように「ごちそうさまでした!」と言ってしまった。

 小声で「おいしかったです」と付け加えると、セノイさんは「光栄です」と大きな笑みを浮かべた。


 お口直しのコーヒーの用意を、とセノイさんが部屋を出ていったときだった。

 正面の窓の外、百合の庭で何かが動くのが目の端に映った。


 猫か何かかと思ったけど、ちゃんと見てみるとそれは人だった。グレーの安っぽいスウェットとパンツ姿の、若い男の子だ。途方に暮れたようにしゃがみ込んでいる背中を見た瞬間、急に涙が噴き出した。


 スバルだ。ぶかぶかのスウェットから覗く少年特有の細いうなじ、薄っぺらい体。

 私の恋人だった頃のスバルだ。


 思わず立ち上がった。窓に駆け寄って、ガラスを叩く。頬が涙で濡れているのなんて、どうだってよかった。


「スバル! ねえ、私だよ、ハルカだよ! スバル、好きだよ。今でも好きだよ。7年ずっと好きだったんだよ。ねえ——」


 ねえ、のあとは、なんと続ければいいのだろう。やりなおそう? そんなの無理だって知ってる。スバルはスターになる人間だ。

 同じ大学の同級生だったのに、同じ気持ちで結ばれた恋人だったのに、今や普通のOLと選ばれし人になってしまった。ライブハウスの階段の踊り場に置き去りにされたときの予感は、結局成就してしまったのだ。


 百合園にうずくまるスバルは相変わらず、暗闇のなかで顔を覆っていた。泣いている、というより泣きじゃくっているらしく、肩が震えている。


 ライブハウスの階段の踊り場が甦る。緑っぽい照明、タバコの臭い、ぬるいコロナビール、ライムの香り、スバル♥ハルカ、骨を軋ませるようなジャズベの重さ、緑の光、闇、ベースライン、ファミレスで向かい合うふたり、桜の並木と降り出した雨——ガラス窓に隔てられたまま、私もスバルもそれぞれひとりで泣いていた。


 相変わらず私の声は届かず、彼もこちらを振り返ってはくれなかったが、子どもみたいにしゃくりあげる背中を見つめるうちにわかったことがある。

 あの頃、彼は最後まで私を愛してくれていて、私と共に傷ついたのだ。「遠距離になるけど、それでもよかったら」と震える声を遮り、ファミレスを出ていったのは私だった。


 ここにたどり着くまでに長い時間がかかった。

 私が彼を失ったように、彼もまた私を失ったのだということを、私はようやく理解したのだった。


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