第3話 夕暉のホットミルクと雪どけフォンダンショコラ(3)
つるっとしたカップの縁に唇を当てると、湯気にまぎれて蜂蜜の香りが鼻孔をくすぐる。口の中いっぱいに広がる優しい味に、思わず欲張ってごくり、と喉を鳴らす。
絹を飲んでいるような口当たり、そしてじわじわと体に染み渡っていく甘みがたまらない。お腹がふんわりとあったかくなって、自然に肩が下がっていく。
私が長い溜め息をついた頃、夕陽が去った庭に青い夜の予感が満ちたかと思うと、瞬く間に暗くなった。気づけば、テーブルの上でキャンドルが燃えていた。
「お口に合ったご様子、何よりです」
「口に合ったどころか、生き返りました。あの、それで……さっきは食べられないかもなんて言っちゃったんですけど」
気まずそうな表情をした私に、デュボワさんがお見通しと言わんばかりに頷く。ふいに持ち上げられた彼の左手には、大きなお皿に載ったデザートがあった。
「生田様には、バニラアイスクリームを添えた、あつあつのフォンダンショコラをご用意いたしました。
ミルクポットには、ミルキーウェイソースが入っております。お好みで、フォンダンショコラやイチゴにかけてお楽しみください。また、こちらのコーヒーはカフェインレスですが、しっかりと飲みごたえがありますよ」
デュボワさんの落ち着いた青の瞳が、優しく緩むのを見てほっとする。なんでもわかってくれているみたいな気がするのに、不思議と見透かされる恐怖はない。
あらためて、目の前の芸術作品をまじまじと見つめる。
フォンダンショコラの隣には、バニラビーンズが覗くアイス、そして贅沢な量の生クリーム。付け合せのイチゴは飴がけされてつやつやと光っている。
気づかれないように
いつも斜に構えている私が言うのもなんだけど、フォンダンショコラにナイフを入れる瞬間って特別だ。みるみる溢れてくるチョコレートを見てまったく平静でいられる人なんて、いないんじゃないかと思う。
温かな生地を口に含むや否や、日々の雑事が濃厚なチョコレートの海にさらわれていく。大人っぽい、高級な甘さだ。
続けてバニラアイスを頬張ると、チョコの中でもバニラビーンズがふわっと香ることに驚いた。
「幸せそうなお顔、何よりです。当店のパティシエの頑張りを思うと、私も喜びひとしおで。
次はどうぞミルキーウェイソースもお試しください。ミルクを煮詰めて作った練乳に、生クリームを溶いて作ったものです」
促されるまま、乳色のソースをフォンダンショコラの上に垂らしていく。そして、ソースを拭った生地を口に入れた瞬間、笑みが漏れた。
少しビターなチョコレートソースも魅力的だったけど、こんなとろけるようなミルキーな甘さに追いかけられてきてしまったら、笑顔になるほかないだろう。
なんだかんだと人生を憂いておきながら、おいしいものにこうもあっさり
ひと息ついて、薄氷でできたような月に照らされている百合園を眺めた。気づけば、私は自然にデュボワさんに問いかけていた。
「人間ってなんて欲深いんだろうって、思いません? 自分の人生の充足のために、まだ見ぬ命まで欲しがるなんて、それは罪ではないんですか?」
初対面の人に絶対にすべきでない質問のはずなのに、デュボワさんは温和に応えてくれた。
「どうして罪だとお思いになるんです?」
「だって、同意のない性行為がダメってのは常識のはずなのに、なんで赤ん坊の同意なく産むの? 皆が皆、生まれてきたいはずだと思っているなんて、そんな傲慢ってあります?
私なら、そうだな。ときどきこうして、背徳感を覚えるくらいおいしいものを食べる程度の罪でどうか、打ち止めにしておきたい」
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