スクール・ホワイトクリスマス

雨足怜

第1話 ファースト・スクール・ホワイトクリスマス1

 雪が降るクリスマスは、ホワイトクリスマスというの。その雪は、恋人たちへの神様からの祝福なのよ――

 それは、祝福の言葉であり、呪いの言葉。

 幼い頃に聞いたお母さんの話を、私はぼんやりと思い出していた。

 今では顔も声もはっきりとは思い出せない、遠く、星のかなたにいるお母さん。

 物知りな人だったと思う。幼少期の私の「なぜ」「何」攻撃にひるむことなく、むしろ楽しそうに話をしてくれた。

 お母さんのたくさんの言葉も、今ではもうほとんど覚えていない。それはお母さんとの会話の記憶が風化していっているからで、あるいは、会話の内容が私の血肉として定着し、わざわざお母さんとの会話だと思い出せないだけなのかもしれない。

 後者であればいいな、と思いながら私は真っ白な息を吐く。

 冷たい風が吹きつける冬の空の下、歩道には同じ方向に進む青帽子がひょこひょこと揺れている。その列の中にいながら、私はもう一度、ため息をつくように肺から熱い空気を吐き出す。

「サンタさんに何をおねがいしたの?」

「ゲーム機!」

「わたしはあたらしいバスケシューズ」

 聞こえてくる話が、哀愁めいた感情を私の中に生む。

 久しぶりにお母さんのことを思い出したのだって、今日がクリスマスイブで、そして朝から曇天だった空から、淡い雪が舞い落ちるのを見たからだった。

 見上げる先、のっぺりとした灰色の雲が空を覆いつくしている。

 その濃い灰色は今にも落ちてきそうで、私の心を不安にさせる。

 楽し気な声が響く中、私はちっとも楽しくない。むしろ憂鬱な気持ちが膨らんでいくばかり。

 こんなことなら学校なんて休んでしまえばよかったと思う反面、こんな日に休むなんて耐えられないという気持ちもある。

 小学校五年生のクリスマスイブ。

 今日、朝から緩やかな坂道をえっちらおっちら登るのは、当然学校があるから。

 吹きすさぶ北風がマフラーに隠されていない目元周りをひどく冷やす。

 風が運んできた横のパン屋さんの匂いが空腹を刺激する。小さくお腹が鳴った音は、無数の声にかき消された、と思う。

「さむーい」

「だって雪が降るくらいだもんね!」

 前を歩く分団の少女たちから歓声のような悲鳴が響く。

 心から嬉しそうに、彼女たちは語る。クリスマスというイベントごとに浮足立っている彼女たちの心が、空気を震わせて私のところにまで届く。

 その波は、けれど私の心のほんの表層だけを揺らして流れていく。冬の寒さを包み込んだ風に押し流されるようにして。

 どうしてクリスマスイブなのに学校になんて行かないといけないのだろうと思いながら、私はあきらめ半分で道を行く。

 今日のランドセルはとても軽くて、それだけが救いだった。

 今日が終われば、明日からは冬休み。12月の学校が遅くまであったおかげで、1月は9日まで学校が休みになる。正月ボケからの回復期間があるのはありがたかったけれど、もう少し休みが長くてもいいのにと思った。学校なんて大して面白くもない。家にいるよりは有意義かもしれないけれど、それだけ。仲のいい友人とだって、別に学校に行かなくても遊べるし、話もできる。

 ただ、今日だけはあまり友人と話す気分にはなれない。

 12月24日。クリスマスイブ。

 周りが浮足立っているから、集団のただなかにいる私もまた、せかされるように少しばかり早歩きになる。

 今日が年内最後の学校だから、ほんの少しだけうれしい。去年はもっと心が重たかった。

 このうれしさは、クリスマスだからじゃない。私には恋人はいないし、好きな男の子だっていない。絶対に、そうだ。

 私にとって、クリスマスは呪われた日なのだから。

 ほかの家がパーティー気分で騒ぐ中、私の家はお通夜のような雰囲気となる。

 お通夜という表現で、大体あっている。

 だって、今日はお母さんの命日だから。お父さんはこの日だけお酒を飲み、会社を休んでじっとお母さんの遺影と向き合っている。

 お父さんには、何か見えているのだろうか。遺影の向こうに、お母さんの幽霊がいるのだろうか。幽霊のお母さんと、話をしているのだろうか。

 私は、幽霊のお母さんを見たことはない。昔は違ったのかもしれないけれど、お母さんを夢に見ることもない。

 お母さん。顔も思い出せない、遺影の中だけの存在になってしまったお母さん。

 お母さんに、私は、会いたいのだろうか。

 この胸の冷たさは、会いたい人に会えない悲しさなのか。それとも、陰鬱な気配を振りまくお父さんへの嫌悪なのか。あるいは、クリスマスを楽しめない自分への怒りか虚しさなのか。

 死んだ人の魂は、お盆に帰ってくるのだという。だから、夏のお盆から遠く離れたクリスマスイブの日に、お母さんはきっと帰ってきていない。

 それでも、お父さんはいつだって、24日はお母さんと一緒にいた。一日中お母さんの遺影の前で、ぼそぼそと話をするのだ。一年のこと。私のこと。自分自身のこと。お母さんと一緒にいた過去のこと。

 そして、恨み言。

 早くに死んでしまったお母さんに対しての。

 お母さんの死に方に対しての。

 そして、私に対しての、呪いの言葉。

 その言葉を聞かないように、私はクリスマスの日には父のそばから逃げる。食事すらしようとしないお父さんに近づくことはなく、顔を合わせることもなく、一日を過ごす。

 そういう意味ではやっぱり、今日のクリスマスイブに学校があるのは幸いだった。

 そして、明日、お父さんと二人きりで家で過ごすことを考えると憂鬱で仕方なくなる。

 ああ、こんなことなら真帆が誘ってくれたクリスマス会に行くべきだった。クリスマスに暗い空気を放つ自分が参加するのは申し訳ないと思って断ってしまったけれど、今からでも参加しようか。

 ううん、やっぱりやめよう。

 私にとって、クリスマスはお母さんの命日。なら、そういう風に過ごすべきだ。

 私にとってクリスマスは他の人のクリスマスとは違うもの。

 近づいてくる校門を見ながら、私はまた一つ、重たいため息を漏らした。

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