ヤミオチ・エクリプス

御伽草子

プロローグ

出会い①

 黄昏時のことだった。フィオは一人淋しく薄暗い森の中を歩いていた。広大な森林は、まるで天然の迷路であるように入り組んでおり、訪れたものを迷わせる。彼はその迷い子の一人だった。


 彼の目は病人のように力が入っておらず、唇は青くなり震えている。呼吸は荒く、傍から見れば大げさに聞こえるほどだ。


 片腕は胸を大きく縦断した切り傷を力なく押さえていて、風が吹く度に傷口から痛みが走った。衣服は大半が血で赤く滲んでいた。彼は苦々しい表情を浮かべながら、ゆっくりとした足取りで森の中を進む。


 上を覆う木々の合間からは、森の上を屹立している魔王城が垣間見える。それは幾何学的な、角張った形状の建物で、太陽の残光が壁面を照らして輝いていた。この建物は古代から存在する独特の建築様式で建設された建物であるようだが、細かいことは誰も知らない。なぜならばそこは、人類が足を踏み入れたことのない場所だからだ。


 彼は今、人類史上最も魔王城に近づいた人間だろう。しかしながら、彼の深い傷を見てわかるように、それが歴史に残ることは叶わなかった。


                  ◇


 人類の野望は魔王城を陥落させることだった。


 この世界では西部では人間が、東部では悪魔がそれぞれ支配していた。


 二種の間では何度も戦争が行われた。人類が勇者一行を送り込み、それが悪魔の軍団と衝突した。


 勇者一行というのは魔王討伐のために組織された一団のことで、王に認められた一流の戦士や剣士、魔法使いなどで構成されている。勇者というのはそのメンバーに与えられる称号のようなものだった。人類は東部世界を支配する悪魔の王、「魔王」を討伐するために、千年もの間、勇者一行を組織して立ち向かっていた。そして、魔王討伐に成功したのは、誰一人、いない。


 そんな中で剣士フィオは勇者に選ばれた一人だった。


 しかしながら、彼は他の勇者たちと同じように、魔王討伐を成し遂げることができなかった。魔王討伐を人類が未だかつて成し遂げたことがないのは、それが不可能に近いからだ。当然、奇跡は彼にもやってこなかった。仲間だった魔法使いや戦士、魔物使いとともに魔王城を取り囲む森林まで辿り着いたものの、そこで出会った魔物に致命的な被害を与えられて、旅を続けることができなくなった。それで魔王討伐を失敗した。


 フィオは自分が身代わりになり、他の三人の仲間をこの森から逃がした。敵はアンデッド三体。それも自分たちと同じ勇者の死体を使ったアンデッドだった。彼らには勇者の紋章が記された防具や装飾品がつけてあった。フィオは三人の攻撃を防ぎきれず、一体に胸を切りつけられた。


 あの時ほど戦っていて虚しい気持ちになったことはなかった。次世代の勇者に自分も刃を向けるのだろうか。


 フィオは剣で切られた時に一瞬の隙をついて、逃げた。仲間がいたらすることなどできない敗走行為だった。今思えば、あの場で切り殺されていようが、どのみち死ぬのだから結果は変わらなかっただろうに。


                  ◇


 実際の魔王城は美しかった。噂好きの人々から語られる禍々しいイメージの魔王城が、いかに人間のプライドで描かれたものであるかを彼に理解させた。死ぬ前にこれを見られたことがフィオは嬉しかった。一人で致命傷を負いながらも魔物から逃げた中で魔王城を見た人間、それもこんな間近で見た人間は誰一人いなかった。彼の目にも輝きが一瞬戻っていた。


 しかしフィオは自分の生命力が次第に減少していることもわかっていた。傷口から血液が流れ出る度に、彼の気力も体力も消えていった。何があろうともこの傷では長くは持たなかった。フィオの体は数時間後に動かなくなるのだ。


 風が木々の間を吹き荒ぶ。梢が揺れて、ざわめいている。どこからともなく動物の雄叫びが聞こえてくる。ただ、そこに人の声はなかった。


 フィオは言い様もない感情が熱い感情がこみあげてきて泣き始めた。泣こうと思っていたわけではなかったが、我慢できずに涙が溢れてきた。反射的に鼻もすするし、片腕で涙を拭いた。歩きながら、血とともに涙が滴った。彼の泣き声が虚しく森の中に広がる。


 「クソがッ」


 フィオは隣に生えていた木を足の裏で蹴りつけた。


 彼は孤独だった。仲間を庇って逃がし、そして敵に切りつけられた傷で死にきれなかったフィオは、いつ来るかわからない死が怖かった。頭の中に不安が充満していて、自分が一体何処を歩いているかもわからなかった。


 なぜ自分はこんな目に合わなければならなかったんだ。たまたま勇者として選ばれたせいで、こんな決死行に身を委ねなければならなかったのか。フィオはこの世の不条理さを呪った。別に自分ではなくても魔王討伐の結果は同じだったのに、どうして自分だったのか。傷ついた体を引きずりながら、彼は世界への憎しみと怒りを増幅させた。


 「俺は最初から生きる価値なんてない人間だったってことかよ!」

 むせびながら、彼は森の中で吠えた。

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