第5話 淀んだ時

 翌朝はよく晴れて、夏の太陽が照りつけていました。高原でも昼過ぎには気温が三十度に近づき、風がないため団扇を使います。叔母の姿はなく、農作業のノルマはありません。祖母に促されて東京から持ってきていた宿題を片付けました。数学のプリント、社会のリポート、英語の問題集。あらあら、と君江は呆れています。今の人はたいへんねえ、こんなにいろいろ勉強するの、と。

 昼食にも姿を見せないので叔母さんは? と尋ねるとさあね、と祖母は肩をすくめました。どこかほっつき歩いているんだよ、悪い癖が抜けないね、と。どうしてあんなふうになってしまったのか、あたしの育て方が間違ったのか、父さんかあたしの血が悪いのか、それとも学校で悪い仲間がいたからなのか、わからないのよねえ、と誰にともなく嘆くのです。祖母は決して運命論者ではありませんでした。しかし、どこかで仏教で言うところの業、人が逃れられないさまざまな行為の蓄積のようなものを感じていた節があります。

 夕方になるとさすがに君江も不安そうな様子を見せます。

 朝早く誰にも気づかれずに愛車のベレットで出かけた模様でした。君江が夜の間、食器棚の最下段に並べられている古い急須にキーを隠しているのを知っていたのです。遠くに行くのならせめてメモでも残せばいいのに、と思うのですがそうした神経が行き届かないのが加奈でした。

 夕食のテーブルは君江によって三人分用意されましたが、テレビで七時のニュースが始まっても戻らないので二人で食べました。君江が黙り込んでいるのでアナウンサーの声だけが部屋に響き渡っていました。

 霧だわ、

 茶碗を手にしたまま祖母はそう呟きました。瞳を見開いて、窓の外を凝視します。カーテンも開け放たれており、網戸越しに藍色に暮れていく薄闇がうかがえました。ちなみは身を乗り出しましたが、室内の灯りに照らし出された花壇がはっきり見えて霧が出ているようには見えませんでした。

 霧なんて見えないよ、と言うと君江は茶碗を置いて立ち上がりそろりそろりと玄関へ向かいました。そして扉の前に立ち尽くしています。どうしたの、おばあちゃん、と尋ねると、あの人が戻ってくる、というではないですか。

 あの人?

 そう、お父さんよ。

 ちなみはぞっとしました。亡くなった達郎がやってくるというのでしょうか。祖母が動こうとしないのでちなみは扉の前へ立ちます。

 開けて。

 やっぱりダメ。

 いえ、開けてあげて。

 君江は相反する指示を繰り返します。ちなみは思い切ってノブを押し開きました。門灯の黄色い光が目に飛び込んできます。同時に木々の合間の湿った土から立ち昇る香りが身の回りを包みました。

 門灯のあたりは次第にぼんやりとかすみ、光の輪がにじんだように重なり始めます。

 確かに霧が出ていたのです。

 白い塊はあっという間に足元にも迫り、ひんやりとした空気が頬を撫でるのを感じました。

 誰もいないよ、とちなみがふり返ると君江はじっと遠くを見すえています。ちなみも闇に視線を戻しました。寒気に身体を震わせていると、門の脇から犬が飛び出してきました。よくしつけられた犬らしく、ワン、と一声吠えるだけです。マルクスでした。やがてそれに続いて白い人型が現れるのでした。

 均君! ちなみは背が高く細い彼の身体をすぐに見分けました。

 均はゆっくりとすべるように近づいてきます。こんな夜中にどうしたの、と尋ねても答えません。ちなみの脇を通り抜けて玄関の階段を上ると、開いたままの扉の前で立ち止まり君江に話しかけるのです。

 マルクスが、

 と口ごもります。これをマルクスがスカイパークで見つけました、宮原さんちの叔母さんのものではないかと、と帽子を差し出します。スカイパーク? そうです、うちの近くにあるつぶれてしまったドライブインです。

 あなた、これを届けにわざわざ来てくれたの?

 均はちらり、とちなみのほうを振り返りました。ともあれ様子を見に行かなければ、と君江は家の脇に止めてあった軽トラックの鍵を取りに自分の部屋に戻ります。

 またあそこに行ったのね。

 うん、と均は素直に答えます。お母さんの声は? 

 しないよ、と彼は否定します。そのとき初めて悄然として元気のない様子なのに気がつきました。

 均によると、午後の遅い時間にマルクスの姿が見えないと思っていると、部屋に走りこんで吠え立てたのだということです。なにごとか、とついていくとドライブイン「スカイパーク」に向かうのです。例の声がする部屋の扉は開いており内部の事務室には誰もいませんでした。椅子やテーブルが倒れ、すっかり荒らされた様子で、裏口のドアも開いていたということです。そのまま裏から出ると、足元に花飾りのついたつばの大きな帽子が落ちていたというのです。マルクスはそこで吠えていたのです。よく見ると見覚えがあり、加奈のものだと思い出したそうです。明日にでも届けようと帽子を拾い、一旦は家に帰ったものの、考えているうちにおかしい、と思えてきました。父親は夕食前に秘書の日下部さんが運転する車で東京へ帰ってしまい相談も出来ません。日下部さんが用意してくれたポタージュスープとハンバーグはすっかり冷めていましたが、それを一人で食べているうちに、いてもたってもいられなくなったということです。

 玄関に備え付けてある懐中電灯をつけると、彼は再びマルクスを連れてドライブインに向かいました。真っ暗な中、侵入してみると状況は昼間と変わっていなかったということです。そして加奈の身に何かあったかもしれないと心配してわざわざ宮原家まで伝えにきてくれたというわけです。

 祖母の君江はトラックのエンジンをかけると、ちなみにあんたは留守番していなさい、と申し渡しました。しかし均が反対するのです。みんなで一緒にいたほうがいいと思います、と。君江は少し思案しましたが、そうね、と同意して三人で出発します。マルクスも均が抱えて乗り込みました。

 自動車ならば五分とかからない距離なのですが、森の道はとても長く感じました。ヘッドライトに煤けた建物が照らし出されると、いかにも幽霊屋敷といった風情でした。

 祖母はトラックを道の傍らに止めると、家から持って来た大きな懐中電灯をつけて均の後に従います。ちなみは二人に遅れないように必至についていくのですが、どうしても背後に誰かがいるような気配を感じてふり返るのでした。決してふり返ってはいけない、という伝説は世界中にあります。見てはいけないものが見えてしまい、それまで積み上げてきたものが無に帰してしまう。そうした危険は承知でも、人間は好奇心に打ち克てない。実は恐怖を求めているのは自分の心の奥に棲んでいる欲望なのだ、ということに気がつかない。だから前方の花柄模様のプリントを施した君江のドレスを見失わないように努めながらも何回も背後を確認してしまうのでした。

 もちろん、そこにあるのはぼんやりとした夏の夜にすぎません。

 記憶の彼方で、押し殺されたひそひそ声と共によみがえってきます。あのとき、本当はなにが起こっていたのか。

 道は巡っているような気がします。

 自分の進んでいる場所は以前、来たことがあるという強烈な感覚が沸き起こります。元々、こうなるとわかっていたのだ。祖母と均と宵闇に踏み込んでいく。ずいぶん前にこの同じ時間があったのだ、と。既視感覚、いわゆるデジャヴュという体験だったのかもしれません。

 均は裏口に回り、ここに落ちていました、と廃車の脇の地面を指し示しました。よく見るとタイヤの跡があるようです。叔母のベレットのものかはっきりしません。どうして廃墟のドライブインに帽子が落ちていたのか、ここにどんな用事があったのか。あたりは森で、橋の下からは別荘分譲地ですが建物はなく、一番近い建物は均の家なのです。どこにも行くところがありません。春ならば山菜、秋ならキノコ取りということもありえなくはないですが、夏場に森に入る理由はないのよねえ、と君江は呟きます。建物の内部も探すのですが、暗くて思うようにはかどらず、加奈の手がかりになるものもありません。二人の懐中電灯が交差しながら闇を切り裂いていく様をちなみは呆然と見ていました。

 その晩は引き上げて、三人で宮原の家に戻りました。

 均の父親がいないと聞いて君江は彼を自宅に泊めることにしました。均はちなみの部屋の向かい側の空き部屋をあてがわれました。ベッドに入ったちなみは興奮の余りなかなか寝付けず、夜中にいろいろな夢を見て何度も目を覚ましました。

 空が雲に覆われてどんよりした天気の翌朝、君江は警察に電話していました。

 しばらくしてパトカーがやってきて、警官が君江と均から事情を聞いていました。二人はパトカーに乗せられて現場に向かい、その間、ちなみは置いていかれたマルクスと留守番します。寝不足でうとうとすると、真っ白な霧の彼方で加奈がおいでおいでの仕草を繰り返しています。

 だめよ、とちなみは呼び止めます。

 すると叔母は大きく口を開けてゲラゲラ笑うのです。あなた、臆病なのね、大丈夫だからいらっしゃい、と言い捨てさっさと行ってしまうのです。霧の流れは次第に激しくなり、加奈の後ろ姿はあっという間に見えなくなるのでした。ちなみはなんとかついていこうとするのですが、下半身に痺れたような感覚があり身動きが取れません。

 うめいているうちにペロリ、とマルクスの冷たい舌に頬を舐められて目が覚めるのでした。

 戻ってきた君江によると、失踪事件として警察に届け出たということでした。犯罪に巻き込まれた可能性は低いと言われたそうです。どうしてそんなことわかるのですか、と反論しましたが警察の担当者によると家出人の届出は日本国内で年間数十万人もあり、大多数は家出なのだと。いずれにしてもすべてを完璧に捜査することはできない、と答えたそうです。とりわけ加奈は前回、野菜泥棒の件で警察の検問にかかったこともあり、不審人物なのです。どうせ深夜のお散歩でしょう、そのうちひょっこり帰ってきますよ、と笑われたとのことでした。


 警察官の言ったことは当たりませんでした。加奈は自動車事故を起こし群馬県の下仁田市の病院に入院しているとの連絡が昼前に入りました。意識不明の重態とのことで君江とちなみは軽トラックに乗って出かけました。エンジンブレーキをかけながらきついカーブが続く碓氷峠にさしかかると、口をへの字に結んだ君江は骨ばった細い腕でハンドルをさばき、周囲の車をあおるくらいの勢いで下っていきます。危険を感じても口に出せません。

 病院に着くと、緊急治療室から出たばかりの叔母は一人部屋に寝かされているとのことで面会謝絶でした。県道を走行中、カーブでハンドルを切り損ねて田んぼに転落し、叔母の愛車は大破したそうです。かなり速度を超過していた模様とのことでした。単独事故で同乗者もありません。医師によると、外傷は大きくないが胸と頭を強打しており、予断を許さないとのことでした。芳郎にも連絡がつき、夜までに来ると約束してくれました。

 重苦しい雰囲気が立ち込めています。

 あなたはここにいなさい、とちなみは一人で一階のロビーに残されました。青白い蛍光灯が照らし出す病院の長椅子に座っていると、看護師たちが足早に通り過ぎていきます。すべては極めて事務的に処理されているのですが、はみ出てしまった感情がときおりあちこちでこだましているのが感じられました。突然、沸き起こる嗚咽、暴かれた恐怖、苦痛のうめき、そして空回りする笑い声。得体の知れないものたちが通り過ぎていきます。

 父親の芳郎が弁当を下げて現れた時、ちなみは初めて空腹であることを思い出したのです。売店でお茶を買い、芳郎と一緒に待合室で弁当を食べた後はそのまま隅に据えられていたテレビを漫然と見ていました。動物を取材したドキュメンタリーや歌謡番組などを半ば上の空になって眺めます。夜になっても芳郎も君江も病室に付きっ切りでちなみの存在など忘れられてしまったかのようです。

 君江が降りてきたのはニュースが終わって、深夜ドラマが始まったころだったでしょうか。憔悴しきった様子で、顔全体が縮んでしまったように見えました。

 もう大丈夫だから、

 と小さな声で告げる祖母自身が死を刻印された骸骨のように見えたものです。聞けば短い間だったが意識が戻り、会話もできたということでした。

 叔母さん、どうしたの?

 と問うと君江はため息をつきます。重態なので今のところ会うことはまかりならない、とのことでした。不穏な空気が漂います。

 あんた、明日にでもお父さんのところに帰りなさい、と君江は唐突に宣言するのでした。

 どうして? と反発しましたがすでに芳郎と帰宅の段取りを決めていました。ちょうど取りかかっていた番組の制作がひと段落したとかで芳郎は快諾したということです。


 お父さんと会った、

 意識が戻った瞬間、そう加奈は話したそうです。病気で亡くなった自分の父親、達郎に再会したというのです。

 気がつくと暗がりに立っており、目の前にはどこまでも続いているかに見える階段がある。大勢の人間が黙ったまま登っているのです。ところどころに足の絵が掲げられていて、立ち止まってはいけないということを示しているようでした。一生懸命、歩くのですが、思うようには動かない。もどかしくて辛いのです。ふと下を見るとはてしなく深い闇に沈んでおり、階段だけが緩やかなカーブを描きながら陰気な行列を導いています。あまりの高さにめまいを覚えそうになっていると、きらり、と青い炎が輝くのが見えました。なんだろう、と注目すると、再び光ります。

 危ないぞ、

 と後ろに続く男の人に注意されました。下を見ないほうがいい、階段を踏み外すから、と。ほら、とその人が前方を指差すので、顔を上げるとずっと先でやはり稲妻のような光がひらめきました。

 それは人間でした。

 階段の端を踏み外したのか、誰かがもんどりうって宙を舞い、たちまちマッチのようにぼう、っと炎を発して燃え盛る人型となります。そのまま流星のように光の尻尾を引きながら青白く輝いて闇の底へと飛んでいくのです。

 青から紫へと変遷するこの世ならぬ諧調にぞっとしました。

 魂が燃えているのです。一つ一つかけがえのない人の心そのものが発する光だから言葉に尽くしがたい美しさを見せるのでした。怖いからこそきれいだと感じるのか、それともあくどいまでの美しさだからおののきを覚えるのか。

 さらにおぞましいことには、一緒にそれを見ていた後ろの人が、ははは、っとおかしな笑い声をたてたことです。どうせ無理だ。みんないつかは落ちる。これ以上はもう耐えられないよ。そうでしょう? と誰にともなく呟いています。待ってください、と加奈は話しかけましたが相手は、

 あなただって見たでしょう。なんてきれいなんだろう。今すぐ目の前で見せてあげますよ!

 と叫ぶなり暗がりに身を躍らせたというのです。

 とたんに青い光が目の前に閃きました。男の笑い声が途中で悲鳴になり、断続的に響いています。大きな炎がめらめらと燃え上がり、青い光に包まれた人体が反り返り、もがきながら飛んでいくのが見えました。

 絶叫が繰り返し耳朶を執拗に打ち、加奈は恐怖のあまり階段の上に転んでしまうのでした。なんとか縁にしがみつこうして震えてしまいます。足ががくがくして立つことすら覚束ない。とてもこれ以上、登り続けることはできそうもありません。自分が悪かったのだ、とやっと悟りました。ここにいる人たちはみんな罪人なのだ。助かることはできない。階段を上りきることはできずに転落する運命なのだ、と。すると肩を叩く人がいました。大丈夫だ、あと少しだから、と手を差し伸べているのです。ふり煽ぐと、影になって顔は見えず誰だかわかりません。親切な人もいるものだ、と思いながらも断ります。あたしはもうだめですから先に行ってください、と。

 それでも相手はじっと腕を差し出しています。

 誰か知っている人かもしれない、と気がつきました。がっしりとした体つきの男で大きな手をしています。優しい口調にほっとして向き直ります。

 あと少しですか?

 ああ、ほんのちょっとだよ、

 と断定され、やっと彼女は立ち上がりました。背中を押され、歩き出すと男の人は後ろからついてきてくれるようです。立ち止まりそうになるとまたぐい、と押されるのです。おかげで挫けそうになりつつも少しずつ進むことができました。すると上方に白っぽい光が見えてきました。雲のように階段を取り囲んで輝いています。

 あれは!

 と叫ぶと、そうだよ、と後ろの男が答えました。あそこまでがんばれ、そうしたら帰れるぞ、と。お前はまだ早すぎる。下を見ないでどんどん行け、と。

 ありがとうございました、

 と礼を言ってふり返るとそこにいたのが達郎でした。上方の雲の輝きに照らし出されてくっきりと懐かしい顔が浮かび上がります。お父さん! と叫ぶとにこりと微笑むではありませんか。途端に両目から涙が噴き出しなにもかもが曖昧に曇ってしまいます。

 早く行け。君江によろしくな、

 達郎はそう告げたと言います。でも、と加奈がもたついていると達郎の顔は次第におぼろになり暗がりにまみれてしまいます。気を取り直して階段を登り始めると急に身体が軽くなり、ふわりと浮いて白い輝きに包まれました。その瞬間、病院のベッドで意識が戻ったと。

 いわゆる臨死体験と呼ばれるものだね、と芳郎は教えてくれました。世界中で似たような報告が多数あるのだ、と。川や橋、トンネルなどの境界を越えると亡くなった家族や友人らとの再会し、戻るように諭される。帰ろうと努力していると意識が戻った、という顛末で中には死者からの伝言を携えている場合すらある、と。

 加奈の場合は達郎の株券についてでした。

 別荘の床下、ワインが貯蔵してある棚に木の箱があり、そこに昔、達郎の取引先だった機械メーカーの株券が隠してあるから、とのことでした。これを聞いた君江はさっそく軽井沢の自宅の床下を探し、聞いた通り株券の入っている箱を見つけました。時価数百万円の価値があったそうです。

 ちなみの父の芳郎はこうした臨死体験も科学的に説明できると考えていました。

 死者に会うことなどできないのはもちろん、あの世があるわけではない。こうした体験は人が死ぬとき、身体が感じる苦痛を和らげるために脳が生み出す幻想である、という説です。夢の一種と言ってもいいかもしれません。

 体験者の中には、魂が死にかけた自分の身体から出て、医師や家族が取り囲んでいる場面を上方から見たと証言し、医師しか知りえない手術の様子を詳述する人もいます。また、加奈のように死者が隠していた事象をあばく伝言をもたらす者もあります。これをどう解釈するのか。

 手術の様子は目を閉じていても耳に入る音や言葉で想像できるし、故人の隠し事については当人が聞いたのを忘れていただけで、怪我のショックで思い出したのだ、と説明がつけられなくはありません。

 ちなみは芳郎が一々、もっともらしい講釈するので、なるほどと思いながらもどこか反発も覚えたのでした。

 なら加奈叔母さんは株券のことを知っていたってこと?

 そうさ。あいつはずほらだからな、父さんから託されていたのにほったらかしにしていたんだろう。だいたい金には興味の無い奴だ。どれくらいの価値があるのかも想像がつかないんだ。だけど内心、後ろめたかったんだろう。だから父さんの亡霊が出てきたってわけさ。

 おばあちゃんは驚いていたよ。叔母さんが知っていて黙っていたってことあるかな?

 納得できずにそう反論すると、いいか、と芳郎は語勢を強めました。

 世の中、一見不可思議なことがたくさんある。腑に落ちないこともある。反対に常識、当たり前のできごともある。言いたいことはこうだ。当たり前に見えることこそ疑え、と。耳に心地のいい説明をすぐに信じてはいけない。騙されるな。他人を騙そうとしている奴はたくさんいる。騙すか、騙されるか。これが社会の真相だ。どうせなら騙すほうにまわれ。悪事を働けという意味ではない。自分で考えろ、ということだ。テレビで言っていることや本に書いてあることが全部真実とは限らない。他人の言いなりにならずに自分で考えなければだめだ。不思議な出来事には必ず裏がある。謎のままで放っておくのは不安だから人はすぐに説明を求める。幽霊とか、宇宙人とか、超常現象と呼ばれるものはほとんどがまやかしだ。見間違い、勘違い、夢や作り話。恐怖や希望、嫉妬や郷愁、そのほかいろんな感情に左右され騙される。こうあるはずだ、そうあるべきだ、という偏見もある。冷静になって一から理屈で突き詰めれば真相は究明できる。

 相手の意見も聞こうとせずに一人で断定し、悦に入っている父親の語り口にちなみは辟易としながら悟ったのです。母親の鈴代が耐えられなくなったのはこの態度ではないのか、と。反論しても火に油を注ぐ結果になり無駄なのです。母が逃げ出したので、矛先は娘である自分に回ってくるかもしれない、と。


 出発の日の朝、鈴木家に行き均に東京に戻る、と話しました。

 ふうん、

 と反応は軽いものでした。そして時計の部屋に行くと大理石でできた重たい置時計と金色の懐中時計を持ってきました。これをあげるよ、と。まさか、と断わりながらちなみは彼の額に痣があるのに気がつきました。父親に殴られたというのです。時計の管理を怠ったからでしょう。

 また、叱られるよ。

 いいんだ。暴力には従わない。それをあいつにもわからせてやる、そう答えながら彼は硬い表情になるのです。

 こっちに来いよ、と言われて時計の部屋に入ってみるとすでにコレクションは半分くらいになっていました。

 時間の淀んでいる場所なんて腐っているよ、だから壊してやったんだ、そう彼は主張するのです。父親は息子が言うことを聞かないのに苛立ちついに暴力をふるいました。そして金になりそうなめぼしい時計だけを東京に持ち去ったというのです。残された時計たちは時を刻むこともなく惨めな表情で棚に晒されています。

 なんだかかわいそう、

 と呟くと均はだからさ、とふり向きました。こんなところにたくさん時計を置いといても意味がないだろう。誰かに使ってもらったほうがいい。これじゃ牢屋だよ、と。彼の言うことにも一理あります。ちなみはリビングに戻ると均が選んでくれた置時計と懐中時計を受け取りました。家の前まで見送るよ、と均がマルクスも連れて一緒に歩き出します。その道すがら、

 宮原さんの叔母さんはなんだかおっかないよ、

 と呟くのです。

 おっかない?

 うん。やばいっていうかさ。危ないんだ。ぎりぎりのところを走っている。

 運転のこと?

 それだけじゃなくてさ。いつもだよ。スリルとサスペンスが好きなんだ、きっと。

 謎めいたことを言うな、と見返しましたが均は石ころを蹴りながら地面を見つめているのでした。どういう意味、と尋ねようとしていると門の前に着いています。軽トラックのエンジンをかけっぱなしにして君江が待っていました。

 じゃあね、

 とトラックの助手席に乗り込み窓を開けて顔を出すとマルクスが吠えました。均の瞳は虚ろで、仮面が剥げ落ちたような空虚な表情でした。燃え尽きようとしている夏の輝きの中で彼の双眸だけが暗黒を宿しています。不気味ですらありました。ちなみが手を振ると慌てて手を上げて返事をします。ロボットのようにぎこちない彼の挨拶がトラックの巻き上げる砂埃にまみれ、木々の間に小さくなって見えなくなるまでちなみはずっと見守り続けたのでした。マルクスの吠え声だけがいつまでも耳朶に木霊しています。いつものように一回だけではなく、繰り返し吠えていたのです。

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