第13話食べられたいので好みを知りたい5


 あまりにも平然と当たり前のようにそうされて、千代は動けない。


 そうこうしていると、銀嶺が千代から顔を離した。どうやら涙を舐め取り終わったらしい。にこりと笑った。


「千代は相変わらず、泣き虫なのだな」


 しみじみと親しみを込めたようにそう言われて、千代はやっと我に返った。


「な、泣き虫ではないです……!」


 他にいろいろ言わなくてはいけないことがあったような気がするのに、咄嗟に出た言葉がそれだったのは千代自身も驚いた。


 だが、冷静に言葉を紡げるわけがない。なにせ先ほど、銀嶺は涙を舐めた。つまりは頬に接吻をしたのだ。

 先程の出来事を改めて思い返して顔に熱が集まっていく。


 そういえば、銀嶺に早く食べられたいという思いが強過ぎてうっかりしていたが、千代はこうやって男性と連れ立ってどこかに出かけたり、一緒に食事をしたりと親密なやりとりをするのは初めてだった。


(なんだかまるで、夫婦みたい……)


 そう思った瞬間に気恥ずかしさで、また体温が上がって目が潤んできた。


 これでは本当に泣き虫ではないか。


 確かに、千代は生贄花嫁として銀嶺のもとにきた。だが、花嫁というのは形式上の名前で、荒御魂の神の生贄花嫁というのは詰まるところ単なる餌だ。そのはずだ。


(さ、先程のはきっと、味見だわ! ちょっと味見で、涙をぺろっとしただけ。きっとそうだわ!)


 千代は心の中でそう言い聞かす。味見だとしたら、銀嶺に食べられたい千代にとっては喜ばしいはずだ。何故か頑なに千代を食べようとしない銀嶺が、少しだけ千代という餌に興味を持ったということなのだから。


「どうした、千代。また泣きそうになっている。先程観た劇の話がそれほどに恐ろしかったのか? 大丈夫だ。千代を狙って数多の妖が襲い掛かろうとも、私が必ず守る。怖がることはない」


 千代が泣きそうになっている理由を盛大に勘違いしている銀嶺がそう語りかける。千代を安心させるためなのか、表情はとても穏やかだった。


「えっと……その、怖がっているわけでは……」


 などと千代がもごもごと答えている途中で、銀嶺は訳知り顔で頷いた。


「それほど恐ろしい思いをしたとは……。よし、千代を怖がらせたこの劇場、潰そう」


 銀嶺がそう言って立ち上がった。千代が、「え……」と戸惑っている間に、何やら手をかざして今にも本当にこの劇場の建物を壊してしまいそうだったので、千代はぴょんと飛び跳ねるように立ち上がって銀嶺に言い募った。


「潰さなくて大丈夫です! むしろ潰さないでください!」

「だが、千代を怖がらせて泣かせた罪は重いと思う」


 銀嶺は真面目な顔で重々しくそう言った。


「いえいえ全然重くない上に、怖くて泣いたわけではないので大丈夫です!」


 むしろ後半涙が滲んだのは、銀嶺のせいである。


 銀嶺の勘違いで罪のない劇場関係者の方に迷惑をかけてしまう。


 千代が必死になって声を張り上げたのが功を奏したのか、銀嶺は「そうか?」と言って渋々といった形で矛を収めてくれた。


 たまに銀嶺は軽やかに潰したり滅ぼしたりしようとするので油断ならない。

 千代はほっと胸を撫で下ろした。


「潰すだなんて、とんでもありません。とても素晴らしい演劇でした」

「そうか。楽しめたか?」

「ええ……はい」


 千代が楽しめたかどうかなど、何故聞くのだろう。不思議に思いながらも頷くと、銀嶺は本当に嬉しそうに笑った。


「良かった。よし、他も回ってみよう」


 そうして銀嶺は歩き出した。


(どうして銀嶺様は私に、あんな風に笑いかけてくださるのだろう……)


 千代はふわふわとした心地のままその背中を追いかける。



 劇場を出るとすっかり陽が落ちていた。帳が落ちたような夜空には、星が輝いていた。


「もう夜だったか。……今日は一日が早いな」


 夜空を見上げながら、銀嶺が少し寂しそうにこぼした。劇場の中にいるときは他も回ろうと言っていたので、まさか日の沈むような時間になっていたとは思っていなかったのだろう。千代も同じ気持ちだった。


 あっという間だった。千代にも、そう感じられた。


 夜風が吹いた。その風に乗って白いものがひらひらと舞う。桜の花びらだ。

 劇場の周りに植えられた桜の花が、夜風に吹かれて散っていく。都会の夜は、街灯のお陰で明るくて、舞う花びらの一枚一枚が幻想的に夜を彩っている。


 物悲しさを感じて夜桜を見ていると、銀嶺がすっと腕を伸ばした。

 大きな手が、千代の頭の左側を撫でる。


 千代は誰かに頭を触れられるのが苦手、のはずだった。自分の頭の方に他人の手が上がるのを見ると、それが誰の手であれ体が萎縮してしまう。何かあるごとに叔父に叩かれていた経験が、千代をそうさせていた。


 それなのに、銀嶺が頭に触れても少しも恐ろしいと思わなかった。身体が萎縮するどころか、心地よいとすら思えてくる。


 何故なのだろう。銀嶺の優しい手つきのせいだろうか。それとも、愛しそうに千代を見つめるその黄緑の瞳のせいなのだろうか。


 呆然としていると、銀嶺が千代から手を離した。


「桜の花びらがついていた」


 そう言って、小さな白い花びらを摘んで千代に見せてきた。

 先程頭に触れたのは、どうやらこの花びらを取るためらしい。


 千代は、気づいてはいけない何かに気づきかけていて、時が止まったかのように何も言えない。

 そんな千代の様子に気づかず、銀嶺が楽しそうに口を開く。


「千代、どうする? 夕餉はここで食べるか? それとも屋敷に戻ろうか?」


 銀嶺に問われて、千代はハッと肩を揺らして正気を取り戻した。


「え、えっと……あまり、お腹が空いていないのでこのまま、帰りたい、です」


 昼に餡蜜などの甘いものをちょこちょこ食べていたせいか、食欲がない。それにもうこれ以上、銀嶺と一緒にいてはいけない気がした。取り返しのつかないことになりそうな気がする。


「そうか、ならこのまま今日は帰ろう」


 銀嶺が穏やかに応じる。千代は、あ、と思って口を開いた。


「あの、すみません。私なんぞが意見を言うなんて……銀嶺様が召し上がりたいのでしたらこちらで」

「いや、千代が帰りたいのなら私も帰りたい」


 当然のことをだとでもいうかのように銀嶺が平然と答えると、そのまま銀嶺は千代の背中に腕を回す。


 千代が、「え、え……?」と戸惑う間に、銀嶺は千代を横にして抱いた。ここまで飛んでくる時と同じ格好だ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る