シャドウハットマン

@hoikeru

第1話

ある天気のいい日、とあるカフェでタクヤは、以前から気になっていた店員に声を掛けようと意気込んでいた。離れた席では友人のダイゴが見守ってくれていたが、その目が余計にタクヤを緊張させた。誤魔化すようにチラリと店員へ視線を向ける。注文したドリンクを作っている最中の自然な表情に胸が高鳴り、思わず大きく息を吸い込んだ。セミロングほどの黒髪を後ろでシンプルに束ね、これまたシンプルな黒縁メガネを掛けている彼女。そこから覗く切れ長の目も好みだった。オシャレなカフェで働く派手な女性店員と比べると、彼女は地味に見えるかもしれない。けれど、仕事に真剣に取り組む眼差しや、たまに見せる穏やかな笑顔にはいつも安心感を覚えていた。

「お待たせしました」

注文していたドリンクが完成し、彼女から声を掛けられる。先程までのフワフワした思考は弾け飛び、心臓は体ごとビクンと跳ねた。ドリンクを受け取る一瞬、話し掛ける絶好のチャンスに口を開くだけで精一杯のタクヤは、ため息をつくダイゴと共に今日も店を後にするのだった。その夜タクヤは父、母と家族3人揃って夕食を口にしていた。リビングの隅の方には父親が時々趣味で絵を描くときに使っているイーゼルが置いてあった。

「そう言えば友達のダイゴ君は進学するの?」母親がタクヤに聞いた。

「ダイゴは進学じゃなくて就職だし、念願の鉄道会社から内定も貰ってるよ」

「本当?しっかりしてて偉いわねぇ」

「タクヤ、大学受験の勉強の方はどうだ?」

父親が風呂上がりのキンキンに冷えたビールをグラスでグビっと飲み干してから聞いた。

「問題ないよ」

「あら、えらい余裕なこと」母親が割って入った。

「母さん、タクヤは昔からやらないといけないことは分かっているから何でもそれなりにこなしてきた。今回だって上手くやるさ」

父親が言うこととは裏腹にタクヤはどこか浮かない表情をした。母親が「本当かしら?」と言いたげな顔をしたそんな時、タクヤはふと隣のテーブルに置いているものに気がつく。

「母さんあのノートは?」

「あーあれね、さっき押入れを整理していた時に出てきたのよ。「シャドウハットマン」ってあんたが昔よく描いていたキャラクターよね。懐かしくて思わず涙が出そうになっちゃったわ」

「お願いだから閉まっといてよ」タクヤは口をモグモグさせながら言った。

「いいじゃない案外面白かったわよ」

「どれ、父さんにも見せてくれ」

タクヤはため息をついた。父親が手に取ったノートはB5サイズほどの大きさで、表紙には母親が言った通り、油性ペンで大きく「シャドウハットマン」と書いてあった。

「どれどれ?」

そう言いながら父親がページを捲っていく。まずおもて表紙の裏っ側に何やら人物らしきイラストが描いてあった。上下に黒いスーツを身に纏った男が、黒いハットを手で頭に押さえながら深くかぶり、表情が見えないようにしてこちらに向いていた。父親は一目でこいつがシャドウハットマンなんだと理解した。その隣に書かれた「前書き」にはこう書いてある。


【これはシャドウハットマンが困っている人を助けるお話】


とてもシンプルな前書きだったが更に次のページを捲ると、地面の影から頭だけひょこっと出したシャドウハットマンが女性の頭上に降ってくる雨に強烈な息を吹きかけて濡れさせないようにするだとか、迷子になっている子どもの母親に、地面に影の矢印を作って案内するだとか子どもらしい可愛い内容のものがある一方、悪党が飲み物を飲むコップに毒の粉を入れて殺害すると言う容赦ない一面もあった。

「これを描いた子はきっと天才だな」

父親がニヤリとした顔でそう言うと、タクヤは昔自分が絵を描いていたことを思い返して少し懐かしく感じていた。

「最近はもう絵は描かないのか?」

「絵なんて小学生の時以来描いてないよ」

家族での食卓は時折、時計の針の音が聞こえた。タクヤは眉間にシワを寄せて父親に何か言いたそうな顔をしている。

「と‥父さんは仕事で設計図を描いてるのに、建築家はみんな家でも絵を描くのが好きなの?」

「んー皆んなって訳じゃないが家で絵を描くと仕事で設計図を描くのが楽になるし、その逆も同じでお互いいい息抜きになるんだ。絵を描くのが嫌いになったって訳じゃないんだろ?」

「別に嫌いになんてなってないけど‥」

父親がもう一度シャドウハットマンのノートを手に取った。

「いつかお前もこのシャドウハットマンみたいに誰かの人助けを出来たらいいんだ。その為にはまず、進学なり就職なり自分のやりたい事を見つけないとな」

タクヤはただ黙って父親の言ったことを聞いていた。時計がもうすぐ10時になりそうな頃、机に向かって勉強していた手を止めて、リビングから持ってきた「シャドウハットマン」のノートを取り出した。外の綺麗な満月と10月の心地よい気温の中のひんやりとした風、そして今日も勉強をしたと言う充実感で思わず顔がニヤけるほどだった。もう一度シャーペンを握り、ノートの空いているページにシャドウハットマンを描いてみる。机のスタンドライトを頼りに静かな部屋で筆記音だけが黙々と音を立てている。ものの5分程で絵が完成し、ペンを置く。描き上げたシャドウハットマンは見事で、特にブランクを感じさせないものだった。意外と描けるものだなと少し浮かれていたのも束の間、先程リビングで父親が言っていたことを思い出す。

『それと後は女っ気だな。女の子の1人でも家に連れて来るようになったら大したもんだ』

ノートを閉じて部屋の明かりを消し、一日を終えた。次の日、昨夜父親に言われたせいでか、前日に引き続き今回はタクヤ1人でまたあのカフェに来ていた。店のドアを開け、入るや否やあのメガネの店員が働いているのをさっそく確認した。メガネの店員の格好は昨日とほとんど変わっていなかったが、毎度見るだけで腕から肩にかけて電気が走るかのように見慣れることはなかった。レジに向かう途中、席の方を見渡すが勿論ダイゴの姿はなかった。自分の心臓の音は確かに生々しく大きく鳴っている。だが昨日みたいに緊張でカチコチになっている訳ではなく、むしろいい考えばかりが浮かんでくる自分に、体の中の心臓の辺りから太鼓で鼓舞しているかのようだった。(‥今朝も絵を描いてきたのがよかったのかな)。そんな事を思っている最中にもすぐ側でメガネの店員は黙々とドリンクを作っている。(だとしたら、今日の夜もまた描きたいな‥)。そう思った次の瞬間タクヤは突然口を開いた。

「あの‥め、メガネが似合ってると思って‥‥その‥あまりにも似合いすぎてるから」

一瞬で頭が真っ白になったが心の中では(はい、言った‥言ってやった)と冷静に興奮していた。

「あ、ありがとうございます。‥最近よく来てくれますよね」

「!?!?」

店員が少しびっくりしながらそう言うと、何故かタクヤの方がびっくり驚いてしまった。

「ぼ、僕のこと覚えてくれていたの?」

「よく来てくれているし、その‥いつも真剣な顔で注文していたから」

「あ、あははっ‥」

それは緊張で顔がこわばっていたせいですとは言えなかった。しかし、タクヤは今だと思い、意を決してポケットから予め用意していた自分の電話番号が書かれた紙を取り出した。

「あ、あのこれ‥」

店員は突然のことで驚いてしまい、作業をする手が止まった。紙を取り出した当の本人は緊張で顔が茹でダコみたいに真っ赤になりそうになっていた。

「ほ、本当に全然捨ててくれて構わないし、お、お店にももう来ないから‥そのだから‥も、もし気が向いたら連絡してよ」

タクヤは紙を持った手を震わせながら言った。店内にこだまする客の声や、オシャレな曲とは別に2人の間で沈黙の時間が続いた。

「‥‥あ、ありがとうございます」

店員がタクヤからゆっくりと紙を受け取った。

「‥じゃあ僕は、あっ‥」

タクヤはすぐ店を出ようとしたが、ドリンクを受け取るのを忘れていたことに気づき、店員に分かるようにチラリとドリンクに視線を送った。

「あ、はい」慌てて店員がタクヤにドリンクを渡す。

「本当に‥捨ててくれていいから」

タクヤは目も合わさないままそう言い残して足早に店を出て行った。店を出た後のタクヤの歩く後ろ姿からは恥ずかしさもありつつ、一方でこれまでにないくらいの喜びを噛み締めているかのようだった。しかし、一週間が経った頃‥‥タクヤは死んだような目でゲームセンターにいた。カフェで話した感触といい、自分的には連絡が来てもおかしくないと思っていたのだが、三日過ぎたあたりくらいからそれは気のせいだと言うことに気がついた。気を利かせてゲームセンターに連れてきてくれたダイゴが、タクヤに格闘ゲームの対戦を挑むと、タクヤはさっきまでのシクシクしていた自分を忘れてやると言うように勢いよく受けてたった。一方、一週間前にタクヤから連絡先を貰った店員はと言うと、いつものカフェのアルバイトを終えて休憩室で帰り支度をしていた。そのすぐ側で他の女性店員たちが、何やら客の男から貰ったであろう連絡先の書かれた紙をヒラヒラさせながら楽しげに会話をしていた。

「今日も2人から貰っちゃった」

「またー?あんた最近貰いすぎじゃない?」

「へっへー」

「ハルカもこの前ナンパされてたよね」

自慢げに紙をヒラヒラさせていた方の女性店員が、メガネの店員にそう聞くと「ん?」と反応した。どうやらタクヤから連絡先を貰ったメガネの店員は『ハルカ』と言う名前らしい。

「あー、うん」ハルカが思い出すように答えた。

「で、連絡はしたの?それともこの子みたいにイケメン待ち?」

「ちょっとどーゆう意味よ」

もう1人の店員が戯れ合うように怒っていた側で、ハルカが片方の眉を意味ありげに黒縁メガネの淵よりも高く上げていた。

「あーその‥貰った紙をどこかになくしちゃって‥」

「ダァ〜」

他の店員2人が同時にため息をついた。

「まっ、いいんじゃない?」そう言ったのは先程怒っていた方の女性店員だった。「私、その人の顔覚えてるけどあんまりパッとしなかったもん」

「ハルカもさぁ、気楽に男の誘いに乗ったらいいんだよ。今まで連絡先を渡されても返事なんて返したことないでしょ?」

紙をヒラヒラさせていた方の女性店員にそう言われ、ハルカは「‥まぁ」と小さく頷いた。

「何も知らない人にどう話せばいいのか分からなくて‥」

「そんなのは向こうから話題でも振ってくるから大丈夫なの!」

「‥‥そうだよね」ハルカがフーっと息を吐きながら言うのを見て、他の女性店員2人も満足気な様子だった。

「紙を無くしてしまったなら仕方がない‥良かったらコレあげてもいいんだよ?」紙をヒラヒラさせていた方の女性店員がふざけながら再び今度は、ハルカに向けて紙をヒラヒラさせる。

「それは自分のなんだからしっかりしまっておいて」ハルカが言った。すっかり遅い時間まで遊び疲れたタクヤとダイゴは帰りの電車に乗っていた。二人の最寄駅は一つ離れており、電車が先にダイゴの家の最寄駅にもうじき到着するとアナウンスが流れた。昼間のゲームセンターにいた時のしょぼくれた顔はどこへ行ったのやら、タクヤの顔はスッキリしていた。

「僕、色々考えたんだけど美大に行くことにしたよ」

「え、美大?いきなり‥ほんとに?」

突然タクヤが言い出したものだからダイゴはビックリして目を見開いた。ダイゴの言葉にタクヤも頷き返した。

「最近、昔みたいに絵を描くことにハマっちゃってさ。とは言ってもブランクがあるから入試までは毎日でも絵の練習をしないといけないし、学費も元々行こうとしてた大学よりも更にかかるから父さんには土下座してでも頼み込むつもりでさ‥」

タクヤはつい話しすぎたと思った。ダイゴを見るとニヤリとしながら何かを言いたそうな顔をしていた。

「恋愛じゃいつも臆病なくせに、今はいい感じだな」

ダイゴにそう言われ、タクヤは少し照れくさそうにした。電車が駅に到着しダイゴが降りると、タクヤを乗せてまたゆっくりと走り出した。向かいの席には仕事帰りのサラリーマンが座っている。疲れが溜まっていたのだろうか目を瞑って腕を組みながら頭をコックリコックリさせている。窓の外を見ると灯りに照らされた街が綺麗だった。タクヤも自然とあくびが出る。そんな時それは突然起こった。貫通扉が開き、隣の車両から中年くらいの男性が小走りでタクヤの前を通り過ぎて後方の車両へと行ったかと思えば、その後ろを乗客たちが次々に悲鳴をあげながら慌てた様子で追いかけて行く。

「早く行って!刃物を持ったやつがいるからぁ!」

車内に大きな声が響き渡り、タクヤは向かいのサラリーマンと一緒に一瞬で眠気が吹き飛んだ。座席から立ち上がると慌てながらも強引に人の流れに入って後方の車両へと向かう。さらに向こうの貫通扉に乗客が一斉に向かっているので、上手く身動きが取りづらかった。次から次に車両を跨ぐタクヤの頭は、突然訪れた訳も分からない恐怖で逃げることしか考えられないでいる。

「え?痛っ!」

タクヤは突然転んで(何だ?)と言いような顔をした。何かに躓いたより、何かに足首を掴まれた気がした。転んだ拍子で床を見ると、黒く不気味なUの字型の矢印が描かれていた。これにはタクヤも目を疑った。恐る恐る矢印の方に振り返ってみると、なんとタクヤが一週間前に連絡先を渡したメガネの店員が貫通扉の側で、キョロキョロしながらどうしていいか分からないようすで座っていたのだ。しかしタクヤは(‥‥やっぱり可愛い)彼女を見てふとそう思った。こんな時に考えることではないのだが、確かにそう思った。一体どうしたんだろうか更には、昔の記憶が頭の中を駆け巡る。小学校高学年頃の昼休み、教室の奥の窓側の席で絵を描いているタクヤに、廊下から友達らしき男の子がサッカーをやろうと誘う。タクヤは描きかけのスケッチブックを少し見つめた後にペンを置き、閉じて行ってしまったのだった。何故急にこんな事を思い出したのか分からない‥‥がたしかにタクヤの顔つきが少し変わった。立ち上がるとバタバタと逃げる人たちの流れに逆らって彼女の元へ向かう。(あともう少し‥)もう少しで彼女に手が届きそうになった時、周りの音が消えた。

『いつかお前もこのシャドウハットマンみたいに誰かの人助けを出来たらいいんだ。』

父の言ったことを思い出した瞬間、横から彼女の手を握り立ち上がった。

「えっ!?ちょっ‥」

タクヤはハァハァと息を荒くしてハルカの顔も見ずに、手を強く握ってひたすらに奥の方へと進む。ハルカが自分の手を握っているのはあの時に連絡先を渡してきた人だと気づいた。一緒にさらに後方の車両に駆け込むと人がぎゅうぎゅう詰めになっていてこれ以上は進めそうになかった。誰かが緊急停止ボタンを押したのだろうか、突然電車が緊急停車しだした。

「ねぇ、開けてよぉ」

若い女性がそう言うがドアはまだ開かない。

「ぼ、僕がいるから大丈夫だよ、安心して」タクヤはハルカの手を握ったまま言った。

「‥ありがとう」ハルカが言った。

「早くあけろよぉ!!」

「おーいあけろ!!」

他の人の大声で二人は少しパニックになりかけたがタクヤが透かさず口を開いた。

「大丈夫だよ、きっとすぐ開くよ」

自分も怖いはずなのに、できる限り平然を装いながらこまめに気に掛けてくれるタクヤはとても男らしくて頼もしかった。そんなタクヤの手をハルカが強く握り返すと、タクヤは前を向きながらビクッとした。

「その‥どうしてさっきは座ったまま逃げなかったの?」

「わ、私もよく分からないんだけど、ずっと何かに掴まれてて‥」

タクヤはまさかと思った。そうしているとこの混乱の中で他の乗客たちが何やら話をしだした。

「誰か刺されたのか?」

「分からん」

「刃物を持った奴が暴れてるんだよ!!」

「あぁ、全身黒い服着てて顔も何だかよく分からんかった」

「え‥‥?」タクヤが呟いた。

「早く開けて‥」

そして次の瞬間ドアが一斉に開いた。他の乗客たちに押し出されるように二人は線路に飛び出した。誰もが逃げる中でタクヤはその場に立ち尽くして口をポカンと開いていた。

「私たちも早く逃げなきゃ」

ハルカにそう言われてタクヤはハッと我に返ったが、それでも凄く前の車両を覗きたかったのでゆっくり近づこうとする。

「‥大丈夫?」

タクヤの異様な行動にハルカは理解出来ないような顔をしていた。だが勿論タクヤもそんなことは分かっていた。

すると今度は突然足を止めて、ハルカの顔をじっと見つめる。

「‥‥」「‥‥僕は今、助けられたのか」

ハルカもずっとタクヤを見つめている。タクヤはゴクリと唾を飲み込んだ。

「そ、そう言えば君の名前は何て言うの?」

ハルカは何でこんな時にと思ったが「ハルカ」と答えた。

「は、ハルカちゃん、よかったら‥‥この後ご飯でもどう?」タクヤはわざとらしく咳払いをして言った。

「‥‥いいけどまず早く逃げないと」

「‥そ、そうだね。よし行こう。」

タクヤはハルカの手を再び握って線路の上を走り出した。

周りの人たちは皆んな恐怖で顔が引きつっていたが、タクヤの顔からは少し微笑みが溢れた。


完結

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