第27話

 「おはよ……」

「おっはよ、おおとり……ってなにあんた、元気ないわね?」

ことりはげっそりした様子で教室のクラスメートに挨拶したが、もはや疲労感を取り繕う気力もないほど憔悴していた。

「なんかあった?」

心配してのぞき込む佳子に疲れた笑顔を返し、ことりは「うちでちょっとね」とだけ言って席に着く。まさか好奇心の塊と、絶望感の権化と、猜疑心の化身から揃って長時間の尋問を受けた、とは明かせない。そんなことを言えば、次にはいったい何について尋問されたのか、と重ねて訊かれることになるからだ。

 ふと窓際の席を見ると、いつもどおり太郎の方が登校は早く、今朝も一人で文庫本を読んでいたが、その横顔には妙に疲れが目立つ気がした。

(ん? なんだろう。ゆうべの帰りが遅かったから、叱られたりしちゃったのかな? やっぱり武雄伯父さんに挨拶してもらった方が良かったかしら)

 太郎のほうは、自分と違って家族全員から責め立てられるような羽目にはなっていないはずと考えていたが、何かそうでもない理由があったのだろうか、とことりは首をかしげる。太郎が朝からシャツの穴についての釈明を求められ、しどろもどろに言い訳し、着るものを雑に扱うことは許さんと母親にきつく叱責されてから学校に来たなどとは、さすがに想像がつかなかった。さらに言えば、穴の原因にはとっさに亜佳音のいたずらをほのめかして説明し、幼児に悪役を押し付けてしまったことへの後ろめたさ、自責の念も太郎を落ち込ませていたのだが、これもことりにはわからない話である。

 じっと見ているうちに、太郎が自分の視線に気づいて、ふとこちらへ目を向ける。が、目を合わせることができたのはほんの一瞬だけで、気恥ずかしさにことりはすぐさま視線を逸らしてしまった。

(やだ。なんかこんなの、前にもあったっけ)

 ことり自身はといえば、関心の方向の異なる家族三人を同時に相手取るのはきわめて難しく、気疲れすることこの上ない苦悶の時間を強いられた。何しろ、母の紗英は好奇心全開で容赦のない追求をしてくるし、父の幸夫は自分からはとても質問できず、なのにちょっとでもことりの相手の具体的な情報が出てくるだけで、信じたくないといわんばかりに勝手に絶望を深めていく。弟の海里は、女らしさのかけらもないと思っている姉の戯言など信じられるかと、端からボーイフレンドとは誤解か作り話だろうと決めつけてかかってきていた。攻め手が厳しいのは紗英だったが、それにまともに答えると今度は幸夫がこの世の終わりのような顔になっていくので、とても見ていられなくて、つい安心させるようなニュアンスで話をぼやけさせてしまう。するとそれを聞いた海里が「ほらやっぱり」といった勝ち誇った様子になり、それはそれでなんだか悔しくて、いやいや実はちゃんと相手がいて……というふうに少しは話を盛りたくなる。と、得たりとばかり紗英はますます調子にのって質問を繰り返し、ごまかすことりから答えを引き出そうとあの手この手を重ねてくる。そして幸夫はことりが何か答えるたびに、どんどん憔悴していく。

(こんなの、やってられないわ!)

 正直なところ、ことりは叫んで逃げ出したかったが、そこでほんとうに逃げないのがことりの良さであり、また難儀さでもあった。ところが、とうとう一緒に誕生会へ行った相手の名前が「穂村太郎」であることを白状させられたとき、幸夫の顔色が変わった。

「ホムラって……稲穂の穂に、村役場の村、か?」

「うん、そうだけど……え、お父さん知ってるの?」

「……おまえの学校の三年生に、ほかに穂村姓の男子はいるのか?」

「うーん? わたしの知る限りでは、一人だけだったと思う。それがなに?」

「ああ、穂村さん……鉄壁の穂村さんの、息子さんだ……なんてことだ」

幸夫はそう呟くと、ゾンビめいた動きでよろよろと立ち上がり、居間から出て行ってしまった。

「なにいまの? お父さんどうしたの?」

ことりが紗英に訊く。

「さあ? なにかしら……鉄壁? ん? そういえば、まえにお父さんが会社の経理のリーダーの話をしてたんだけど、その人のことかな?」

「経理? 鉄壁? 意味わかんない」

「なんでも、お父さんの会社で、初めて女の人で経理部門のリーダーになった人がいるんだって」

「うん」

「その人がものすごく優秀でね、就任してから三年っていったかな、いちども不正経理を許したことがないそうなのよ」

「フセイケイリってなに?」

海里が尋ねるが、ことりにもわかってはいない。

「うーん、お母さんもお勤めしてたの、あんたたちが生まれる前だから、あんまりうまく説明できないかもだけど。まあ、経理ってのは大雑把に言えば会社の中のお財布みたいなもので、会社の人が使うお金の管理をお仕事にしてるところかな。社員からこういう支払いするからお金をください、と依頼される部署なんだけど、そのお金の使い方に不正なものや法律違反のもの、会社じゃなく自分のことに使ってしまおうとするなんてケースがあったりするの。で、それが度を超すと、会社が傾くようなお金を失ったり、法を犯すようなことをして、会社の経営そのものを危うくしてしまうことだってあるわけ」

「へえ? フセイケイリってたいへんなんだ?」

「そうね。で、その……穂村さんだっけ? 経理部門のリーダーになった人が、怪しい経費……会社で使うお金のことね、その申請やごまかしなんかを、とにかく一切許したことがないんだって。以前なら受け付けてもらえたいい加減な接待費とか、ルールにそぐわない経費申請とかを、どんなにうまく潜り込ませても、ことごとく見抜いてはねつけるんだそうよ。だから」

「鉄壁、か」

「そういうことみたいよ」

なんかちょっとかっこいい、と海里はゲームのキャラクターでも思い浮かべたようだった。

「……それってすごいことなのかしら?」

「うーん、お金を正しく使うというのは、これでなかなか簡単じゃないからね。自分のお小遣いなら何に使っても自分の自由だけど、会社のお金は、使うためのルールがちゃんとあるの。みんなが好きなように使ったら、いくらあってもすぐになくなっちゃうでしょ」

「お小遣いだって、なくなっちゃうよ?」

海里が口を尖らせる。

「それはあなたがゲームに使いすぎるからでしょうが。計画的に使うことを覚えなさい」

「ちぇ」

「……ああ、わかった」

ことりがふと声を上げた。

「わかったって、なに?」

「そういう、お小遣いがなくなったときに、それでも海里がゲームを買いたくなって、お母さんに参考書買うからお金ちょうだいって、嘘つくのが不正経理なんでしょ?」

「ぼくそんなことしてないよ?」

海里が慌てて首をぶんぶん振って否定する。最近は好んで「おれ」と言いたがるようになった海里だが、慌てるとまだ「ぼく」の方が先に出てくるのだ。

「例えばの話よ」

「例えだってひどいよ、姉ちゃん」

「あはは。そうね、ちゃんと見張ってないと、たくさんの社員の中には、サボったりルールを守らなかったり、もっと積極的に悪さする人がどうしても出てくるものなの」

「で、そのリーダーさんは、それを許したことがない、と」

「らしいわよ。でもその人がすごいのは、ただルールどおりでないと許さないってだけじゃなくて、ほんとうに困っていたり、ルールどおりに進めていたら間に合わないけど絶対に必要なお金については、ちゃんと見分けて使わせてくれるんだって」

「へえ、そうなんだ」

「あとからすごく叱られたり、きっちり手続きはさせられるみたいだけどね。だから、ただ厳しいってだけじゃなくて、優秀って思われているんだそうよ」

「なるほど」

「あのショックの受け方……まさか、お父さんもフセイケイリ使おうとして怒られたりしたのかな?」

「うーん、お父さんの場合は、悪さしようとしたってより、うっかり期限を過ぎたとか、なんかハンコ忘れてたとかで叱られたって感じじゃない?」

「あはは、そっちのほうがありそう!」

「で、その鉄壁さんが何なのさ?」

「さっきのお父さんの様子だと……東部中の三年に息子さんがいるってことなんじゃないかしらね」

紗英はことりの顔を見返す。

(ん? てことは、そうか。太郎ちゃんのお母さんが、鉄壁さん……)

あの太郎の顔と姿から、鉄壁の名で呼ばれそうな母親の姿を思い描くのは難しく、ことりは顔をしかめた。

「じゃ、そういうことで。お父さんいなくなったし、落ち着いて鉄壁さんの息子さんの話を聞きましょうか」

紗英は再開宣言とともに、しっかりとことりの手を握って捕まえたのだった。


 思い出すのもげんなりしそうな昨夜のことを頭から追い出しながら、ことりはずっと多佳子に言われた「自分の気持ち」を探っていた。ほんとうにしたいこと、それはなに? 自分自身の深いところに尋ねてみるうちに、浮かび上がってきたのはふたつ。

 太郎にきちんとお礼を言いたい。そして、太郎の工場跡での活躍を詳しく知りたい、ということだった。

 お礼の方は、太郎が身体を張って危険から自分を守ってくれたにもかかわらず、まだ一度も本人に感謝の言葉を伝えていない、ということにことりが気づいたからだった。なにせ顔をまともに見られなくなっては、お礼も何もあったものではない。いくら羞恥の念に苛まれようとも、人としてこれではいけない、とことりは反省していた。

 そして、太郎が伯父さんたちの前で淡々と話した工場跡での誘拐犯との格闘は、間違いなく重要なところを端折ったダイジェスト版であると、ことりは確信していた。ことりが太郎の戦うところを見たのは、亜佳音の家の玄関で、偽ピザ屋を一蹴したときだけだ。しかもあのとき、ことりの視界は太郎自身の身体で塞がれていて、ほとんど何も見えてはいなかった。だから、太郎がどれほど圧倒的な強さを持っているのかを実感したことはないのである。

 そうであっても、ただ格闘して勝った、という単純なものではなかったはずだ、と信じて疑わない思いがことりの中にあり、そしてどのように戦ったのかを微に入り細を穿って聞いてみたい、という強い願いも、また同じほどあった。はばかりながら、ヒーローのいまのところたった一人のパートナーポジションにいる自分だけは、太郎の活躍を正しく把握し、理解する義務がある、とさえ考えていたのだった。

 ただ、どちらの気持ちも、太郎と話ができなければ何も始まらない。

(とはいえ、また体育館裏っていうのもなぁ。お昼休みだけじゃ時間ぜんぜん足りないよね、きっと)

それに、昨日からずっと太郎の視線を避け続け、さすがに相手を不愉快にさせているのでは、という心配もあった。

(学校で話すのは難しいか……)

 ことりはため息を吐いた。


 ことりの弟、海里はいまも姉の話を信じられなかった。

(あの姉ちゃんにボーイフレンド? 彼氏だって? 見栄張るのもたいがいにしろよな)

二歳の違いながら、体格で大きく姉に遅れをとっている海里は、いまだ単純に力で姉に勝てたことがなかった。男女の違いがあるのだから、いずれ成長期になったら自分が追い越すと信じてやまないものの、その兆しはまだ見えない。あいにく志向が体育会系とは言いがたい海里では、身体の鍛え方も大きく劣り、姉弟喧嘩でなお姉に手加減される屈辱の日々は終わる気配がない。そんな思いも積み重なり、姉を女として見てくれる相手がいるなどとは、とうてい信じられない……信じたくないのであった。

 しかし、昨夜ことりはついに、相手の名前が「穂村太郎」であると白状した。まさか実名が出てくるとは思わず、ほんとうにそんな名前の人物が三年生にいるのか? と彼は姉の虚言を疑っていた。

 そこで海里は、三年生に兄がいると聞いた、同級生の加藤かとう祐二ゆうじを捕まえて訊いてみることにした。

「加藤さぁ、ちょっと教えて欲しいんだけど」

「世羅? あらたまって、なんだよ?」

「おまえさ、三年にお兄さんいるんだよな?」

「ああ、いるぜ」

「ちょっと訊いてほしいことあんだけど、頼めるかな」

「兄貴にか? まあ内容によるな」

「あのさ……三年に穂村太郎って人がいるみたいなんだけど、どんなやつかな? 加藤のお兄さんなら知ってるんじゃないかと思ってさ」

「穂村……太郎?」

祐二は怪訝そうな顔になった。

「知ってるぜ、その人」

「えっ?」

海里は驚いて訊き返す。質問する前から知っていることがわかるというのは、どういうことか。

「いや兄貴もたぶん知ってるはずだけど、おれもその名前なら知ってるってこと。てか、おまえ知らないの? 穂村さんの話」

「……知らない。有名人なの? その人」

「うっそだろ、マジ知らない? ちょっと前にすげー話題になったんだけど」

祐二は海里の顔をまじまじと眺めて言った。海里はまったくわけがわからない。いったいどんなやつなんだ? 何をやったんだ、穂村太郎は。

「あのさ、入学してまもなく、三年の外山さんには気をつけろって話があっただろ」

「ああ、あの東部中最強っていう……気性が荒くて危ない人だし、喧嘩じゃ絶対勝てないから近寄るな、て話なら聞いたけど。その外山さんが何だってのさ。穂村太郎とどう関わるわけ?」

「いや、このあいだ、その外山さんが穂村さんにタイマンで負けたんだよ。しかもただ負けたんじゃなく、病院送りにされたんだって」

「……えっ?」

海里も回数は少ないが、外山の姿を校内で目にしたことはあった。あれがそうか、とクラスメートに教えてもらって、見かけたら極力近寄らないようにしよう、としっかり顔を覚えたものだ。かなり遠目であったにもかかわらず、大柄な体躯は目立ったし、剣呑な雰囲気もよく伝わってきた。あれに勝った? しかも病院送りにして? 三年生とはいえ、同じ中学生にそんなことのできるやつがいるなどと、海里にはにわかに信じられなかった。

「それだけじゃない」

え。まだあるのか穂村太郎。

「そのあとで、東部中の先輩の、伝説の喧嘩屋と言われた三宮さんにも、穂村さんは勝ったらしい」

伝説の喧嘩屋? そんな先輩がいるなどということも、海里には初耳だったが、それに勝った?

「そっちはなんとワンパンで勝負が付いて、さらに三宮さんも病院送りにされたそうだ」

「……うそだぁ」

「嘘じゃねぇよ!」

祐二がむっとして声を荒げる。

「人がせっかく教えてやってんのに、嘘とはなんだ。知りもしねーくせに疑うのかよ?」

「あ、ごめん、そういう意味じゃないんだ」

海里は慌てて祐二を宥めにかかった。

「いや、そんな伝説の喧嘩屋とか言われる先輩がさ、どんな喧嘩にせよワンパンで病院送りって、話が大げさ過ぎないか?」

逆ならまだわかる。既に伝説とまで言われるようになった人なら、喧嘩の相手を一発で病院送りにしても、そうおかしな話ではないだろう。しかしそれほどの喧嘩強者を、中学生があっさり倒すなど、話に信憑性がないのでは、と感じられたのだ。海里がそう説明すると、やっと祐二も機嫌を直した。

「うん、まあおれもそう思ったんだけど。でもまさに兄貴が友達とそう話してたんだよな。兄貴も本気で信じていいのかわからない感じではあったっけ。でも見ていた人もけっこうな数がいたんだってよ。だからって、それが事実かどうかはおれにもわかんないよ。ただそう聞いたってだけの話だからな」

 海里は唸った。

 外山に三宮。どちらのほうが強いのか海里にはわからなかったが、いずれも相当な喧嘩の達人であろう。それを立て続けに病院送りにしたのがほんとうだとしたら、穂村太郎はどれだけのバケモノだというのか。海里の頭には、盛り上がる筋肉とゴリラのような巨体をもつ、喧嘩狂のとんでもない不良中学生のイメージが湧き上がってくる。

「そんなのが、姉ちゃんの相手……?」

これはたいへんなことになったと、海里がぶるっと身を震わせた。すぐにも家族に伝えねばならない。実在を確かめるだけのつもりが、とんだやぶ蛇になってしまった。いや、これではやぶを突いて出てきたのが蛇どころではなく、凶悪なゴリラだ。

「加藤、ありがとう」

「ん? いいのか、こんな話で。まだ兄貴に訊いてもいないけど」

「ああ。十分だ……」

十分すぎる。なんということだろう。海里は青ざめた顔で、祐二のそばからふらふらと離れた。急に病人のような足取りになって去って行く海里を、祐二は不思議そうに見送った。


 * * * * *


 お読みいただきありがとうございます。

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