五十二 仮王宮(二)

「なんだ。お前もいたのか」


 りょうとの会話の最中に挨拶もなくぬっとれんの部屋に入ってきたのはばくだった。

 廊下側の障子は開け放ってあったので、長年の習慣で博は妹の部屋に勝手に入ってしまうらしい。

 その博の背後にはごうことゆうかいけいが従者のごとく立っている。彼はしばらく博の従者という形で働くことにしたらしい。給金を貯めてかく国へ渡るための旅費にする、と言っていた。


「おかえりなさい、博兄様」

「おかえりなさいませ。博様」

「おかえり。早かったな」


 まだ日没前だというのに帰ってきた博は、現在も朝からとくがくかん前で署名集めをしている。

 普段なら日没まで帰ってくることはない。

 博は地震の際は篤学館前で座り込んでいたが、王宮の被害が酷いと聞いて慌ててこう殿でんまで駆けつけた際に転んで擦り傷を負っている。「どこでそんな怪我をしたのですか」と目くじらを立てたきんに黙って手当をしてもらっていたが、翌日からはまた篤学館前で署名集めを始めた。


まんとうで市中が賑わっていたから」


 ぼそぼそと博は答える。


「あぁ、今日は萬灯会だったわね」


 萬灯会は城下のあちらこちらの軒下に朱色の提灯を提げ、無病息災を祈るものだ。

 じゅんおうの治世では催されなかったが、今日は新王即位祝いもかねておこなわれることになった。


「お父様がたくさんの提灯と蝋燭を寄進したって言ってたわ」


 宰相として、かんきょうは祭りへの寄進を欠かさない。


「俺もすこしだけ寄進したぞ。享ほどではないが」

「わたしの名前でもお父様が寄進してくれたと聞いたわ。王妃ってそういうこともしなければならないのね」


 ゆう王家にはたいした資産はない。

 桓邸を出て王と王妃が借家住まいというだけでも前代未聞だろうが、これからどうやって暮らしていけばよいのか蓮花には想像がつかなかった。

 とはいえ、あれこれ考えても仕方がない。


「あら、博兄様。その袋はなぁに?」


 蓮花は轟の手元にある麻袋に視線を向けた。

 普段は博の荷物にはないものだ。


「あぁ、忘れていた。これは土産だ」


 博が言うと、轟が麻袋の口を開けた。


「まぁ! ねいねい! おかえりなさい!」


 麻袋の中から転げ出てきたのは化け猫姿の甯々だった。

 地震の後、甯々は王宮から姿を消した。

 稜雅が衛士たちに命じて王宮内のあちらこちらを探してくれたが、殿舎が倒壊している場所が多いことと余震が一日に二、三回は起きていたこともあって、見つけられずにいたそうだ。


「どこにいたの?」

「篤学館の前で野良犬に追いかけられていたから、捕まえた」


 多分、捕まえたのは轟だろう。

 博はすばしっこく走る甯々を捕まえられるほど俊敏な動きはできない。

 甯々は数日宿無し生活をしていたのか、全身の毛が土や草などで汚れている。


「お、か、え、り、な、さ、い」


 芹那が目をつり上げて甯々を締め上げるように抱きかかえる。

 震え上がった甯々は必死で逃げようとするが、芹那は説教でもしそうな顔で睨み付けていた。


「甯々を見つけてくれてありがとう、博兄様」


 蓮花が礼を言うと、「うん」とだけ答えて博は自分の部屋へと向かった。

 轟は慌てて博の荷物を抱えて後を追う。

 屋敷の外では、太鼓やかねの音が賑やかに響いている。

 萬灯会では霊獣の山車だしが城下を練り歩くのだが、さすがに今回は山車の準備まではできていないということで、鳴り物だけが練り歩いている。

 人々の明るい声が、新しい王の治世への期待を反映しているようだ。


「見に行ってみるか?」


 蓮花が外の音に耳を澄ませていることに気づいた稜雅が誘う。


「え? でも、護衛が」

「この格好なら、誰も俺が王だなんて思わないだろうし、誰も王や王妃の顔なんて知らないから大丈夫だろう」


 稜雅は軽い口調で言う。

 芹那は顔を顰めたが、すぐさま蓮花のために落ち着いた色のじゅくんを用意してくれた。

 蓮花は先日の入宮の際は馬車に乗っていたのでほとんど人前で顔をさらしていないし、かなり念入りに化粧をしていたので気づかれないから大丈夫だろう、と母も送り出してくれた。

 日没を迎えた城下は朱色の提灯と人で溢れている。

 大通りも路地も提灯で明るく照らされ、まるで夕刻のようだ。

 あちらこちらに屋台が建ち並び、食べ物の美味しそうな匂いがあちらこちらから漂ってくる。

 大道芸をする者の周囲に子供から大人まで大勢の人が集まり、囃し声や笑い声、はしゃいだ声が響く。無礼講であるため、しょうに座って酒を酌み交わす人々、立ち食いをする人々、走り回る子供たち、鳴り物に合わせて踊る人もいる。

 稜雅と手を繋いで歩きながら、蓮花は久しぶりの城下に目を輝かせた。

 人々は反乱軍を束慧に迎え入れた際は悲壮な様子だったが、いまはただただ愉快に笑っている。

 いまこのときも悲しみに耽っている人はいるだろうが、それでも朱色の提灯が町中に吊り下げられているのを見て多少は気持ちが穏やかになってくれれば良い、と蓮花は願った。

 ふと視線を感じて蓮花が隣に目を向けると、稜雅がこちらを見ていた。


「なぁに?」

「いや……君が無事で良かったと思って」


 朱色の提灯の明かりに照らされて赤く染まった通りにたたずむ稜雅は、すこし感傷的な表情をしているように見えた。


「心配かけてごめんなさい。でも、かすり傷ていどだから」

「地震に巻き込まれたことだけではなく、俺が君のそばにいられなかったこれまでずっと、君が無事で良かったとしみじみ思ってるところだ。ようやく再会できたのに、なかなか一緒に過ごせなくて、君が危険な目に遭っていてもすぐに助けに行けなくて……なんのために戻ってきたんだろうな、俺は」


 うなだれる稜雅の手を強く握り返すと、蓮花は腕を引っ張って「歩きましょう」とうながす。


「わたし、後宮が当分の間は再建できないって聞いて残念に思っていたけれど、こんな風にあなたと城下を歩けるならしばらく後宮はなくてもいいかしらって思えてきたわ。これからは時々、こうやって一緒に出歩きましょうよ」


 ねっ、と蓮花が稜雅の顔を覗き込むと、ようやく相手はかすかに笑みを浮かべた。


「そうだな」


 ふたりで人混みの中を歩いていると、熱気で全身が汗ばんでくる。

 夜風に吹かれても熱は冷めない。

 そろそろ初夏が近づいているような気配が漂っている。

 束慧はこんなに華やかで賑やかな都だったのか、と蓮花は初めて知った気分だ。


「ひとまず引っ越し先の屋敷で、君の部屋を『後宮』にすればいいんじゃないか? まずは、また張り紙を貼っておいて」

「そうね。でも、きっと新しい後宮では三食昼寝付きでのんびりとできそうにないわ」


 せきぐうで数日暮らしている間、ゆっくりと昼寝をする暇などなかった。

 多分、新居となる屋敷でも、部屋に籠もって好きなことだけをして暮らすことは難しいだろう。


「うん。それは確かに難しいだろうな」


 稜雅は蓮花の手を強く握りしめながら答えた。


「――――妃を辞めたくなったか?」


 周囲の喧噪にかき消されそうな小さな声で稜雅は尋ねた。

 隣を歩く相手の顔を見上げた蓮花は、しばらく黙り込んでから微笑む。


「後宮で三食昼寝付きの自堕落な有閑夫人生活を達成するまで頑張るわ」

「それは多分、達成まで一生かかるだろうな」


 朗らかな笑い声を上げて、稜雅は蓮花の手を引いた。


「王も妃も貧乏暇なし、らしいからな」

「清貧に甘んじていると言ってくれないかしら」


 唇をとがらせて蓮花が反論すると、爆笑した稜雅によって人の流れに逆らうようにして路地に連れ込まれ、どうしたのかと尋ねる暇もなく強く抱きしめられた。

 萬灯会の賑わいは、翌日の夜明けまで続いた。

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