二十 桓邸-回顧(三)

 それは、れんが七つになった頃のことだった。

 方士であるねいねいとその相棒のところに、秘密裏に大きな仕事が持ち込まれた。

 そくにある方士の組織に所属せず、顧客の情報を漏らさないことで貴族たちから大きな信頼を得ていた甯々と相棒にしかできない仕事、という触れ込みで甯々とその相棒は周旋人から顧客を紹介されたらしい。

 甯々が城下で暮らす或る公子の屋敷へ呼ばれたことは、蓮花ときんには知らされていた。

 ある公子の屋敷に憑いている精魅を祓って欲しいと依頼を受けたことや、かなりの額の報酬がもらえそうなのでこの仕事が終わったらしばらくはのんびりとかん邸で居候をしたいだのと言っていた。


「いつかえってくるの?」


 蓮花が尋ねると、甯々は近所に買い物でも行くような口調で答えた。


「目と鼻の先の屋敷で仕事をするので、半日か一日で終わらせる予定です。すぐ帰ってきますよ」


 客である某公子が誰であるか、どのような精魅を祓うかなどは守秘義務があるからと言ってもちろん教えてくれなかったが、蓮花も芹那も、甯々が精魅を祓い損ねることになるなど、つゆほども考えていなかった。

 だから、五日経っても甯々が桓邸に顔を出さず、代わりに見知らぬ成人の男が芹那に血で汚れた手拭いと小さな守り袋を届けに来た際、なにが起きたのかふたりともまったく理解ができなかった。

 男が芹那に渡した守り袋の中には、ふた房の髪が入っていた。

 彼はそれを、芹那自身の髪と芹那の母の髪であると告げた。

 べっとりと血が染み込んだ手拭いは、数日前に蓮花が甯々にあげた物だった。

 芹那が泣くことはなく、ただ黙って手拭いと守り袋を握りしめていた。

 男は甯々の身に起きたことは一切説明せず、そのまま姿を消した。


 甯々が帰らぬ人となり、一年ほど経って桓邸にゆうりょうがやってきた。

 父である游碇仆ていふ公子を不慮の事故で亡くし、母親は実家へ戻り、稜雅だけが桓邸に匿われることとなったのだと蓮花は父から聞かされた。

 二年ほど稜雅は桓邸で隠れ暮らしていたが、やがて稜雅の父の部下だったという男が迎えに来て、彼はどこかへ旅立ってしまった。

 その頃には、芹那は蓮花の侍女として桓邸で働くようになっていた。

 両親を亡くした芹那は、やはり父親のような方士になることは考えず、貴族令嬢の侍女になることを選んだ。

 蓮花と芹那は、甯々や方士を話題にすることを意識的に止めていた。

 当時、束慧では王族が次々と謎の死を遂げていることについて、様々な臆測が流れていた。游一族は呪われている、幽鬼に憑かれている、精魅が王宮に巣くっているなどと言われていた。游一族を滅ぼす精魅を退治できる方士はおらず、このままでは游王家の血は途絶えるのではないかと貴族の間で不安視されていた。

 いまや束慧で生き残っている王位継承者はゆうじゅんとその息子の游かいけいのみだと言う。

 蓮花はそんな世間には興味を示さず、たまに訪ねる母の実家で暮らしている大叔母の後宮での女官生活についての昔話を聞くことを楽しみとしていた。

 蓮花が十二歳になる直前の初春、庭で咲いていた梅の花が散り始めた頃、桓邸の塀の外で野犬が激しく吠え立てる声が響いた。

 小糠雨が降る夕刻のことだった。

 縁側で書物を読んでいた蓮花が土塀に視線を向けると、物凄い勢いで塀の上を駆け回るずぶ濡れの動物がいた。

 猫だろうか、と蓮花が首を傾げた瞬間だった。

 その動物の視線が、ぱっと蓮花に向いた。


「――――甯々?」


 なぜその名が口から突いて出たのかはわからない。

 ただ、その動物の名が甯々だとしか思えなかった。

 甯々と呼ばれた獣は、一目散で蓮花の元へと走ってきた。

 そして、勝手知ったる部屋だと言わんばかりに蓮花の部屋の中に飛び込むと、文机の下に隠れた。

 縁側や床板には獣が泥のついた足で走った跡が付いた。

 高い土塀を越えられない野犬は、しばらくの間は塀の外で吠え続けていたが、日が沈むと諦めたように去って行った。


「これ、甯々よ」


 部屋の灯明台に火を点けに来た芹那に、蓮花は四つ足のまだ濡れそぼっている獣を抱き上げて見せた。


「…………精魅じゃないですか?」

「甯々よ。猫、かしら」

「精魅だと思います」

「猫よね」

「ほぼ間違いなく精魅です」

「猫の甯々よ」

「もうちょっと猫らしい姿に化けるとかできないんでしょうかね、この精魅のなり損ないは」

「可愛いじゃないの」

「ずうずうしくお嬢様に媚を売って気に入られようとするところは、ちっとも変わっていませんね」


 おとなしく蓮花に抱かれている甯々を見ながら、芹那はため息をついた。

 確かに芹那の父は、桓邸では芹那よりも蓮花とよく話をしていた。それは、芹那がすこしでも蓮花に気に入られるよう、蓮花の求めに応じて精魅の話をしたり奇術を見せたりするからだったが、芹那は以前からそんな父の態度を良く思っていなかった。


「しかも、すぐ帰ってくるとか言っていたのに、目と鼻の先の屋敷から帰ってくるのに何年かかってるんですか」

「五年くらいかしらね」

「かかりすぎですよ」

「でもちゃんと約束通り帰ってきたんだからいいじゃない」


 ぶっきらぼうに言い放つ芹那を、蓮花がなだめる。


「遅すぎです」


 目を潤ませながら芹那が文句を垂れた。

 それを見た甯々がぐるるっと喉を鳴らす。


「芹那が立派な侍女になっているか気になって仕方がなかったのね、きっと」

「あたしはいま、方士の勉強もしておくべきだったって思ってます。方士になっていたら、すぐさまこの獣だか精魅だかわからないものを退治してやっていましたよ」


 ぐるぅ、と甯々が蓮花に助けを求めるように鳴く。


「帰るのが遅くなってごめんなさいって言ってるわ。あと、芹那が侍女を続けてくれていて嬉しいっても言ってるわよ」

「あたしが方士になってなくて命拾いしたって言ってるんですよ」


 蓮花と甯々に背を向けて、芹那は声を震わせながら答えた。


「大丈夫よ、甯々。芹那は方士の勉強をしていないから、侍女としてあなたの世話をしてくれるわ」


 泣きたいのか笑いたいのかわからないまま甯々を抱きしめて蓮花は告げた。

 甯々は申し訳なさそうな目をしながら、ぐるるっと奇妙な鳴き声を上げた。


 芹那の父の最後の依頼人が游隼暉であったことを蓮花たちが知ったのは、それから三年後、游隼暉が王位に就いてすぐのことだった。

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