第17話  【別視点】帝国の聖女

【マリア・フィオール・ベアトリス】


 離れた場所で怒りを露わにした声が響き渡る。絶え間なく地面から伝わる揺れはここが戦場なのだと教えてくれているようだった。


 周囲は白い壁に囲まれている。四方に置かれた魔鉱灯はオレンジ色の柔らかい光を放っており、室内を照らしていた。


 気がつけば、ヴェネト帝国の帝都から随分と遠くに来てしまった。


 香木が甘い香りを発している。豪華な白い長椅子は座面が柔らかく、近くにある丸テーブルには果実酒とパンが置かれていた。床に敷かれた白虎の毛皮をつかった絨毯も柔らかくて暖かい。


 まるで帝都の城にいるかのようにゆったりとした時間の中にいるが、ここは帝国の領地になったばかりのシュフール川のすぐ近くであり、川の向こう側は現在敵対しているエルテミス王国の領土だ。


 そして、今も昼夜問わず数万という兵が移動し、時に負傷者が運ばれてくることもある。癒しの魔術は万能ではないし、体力と気力に大きな負担を要する為、一日に五人程度までとお願いはしているが、たまに六人治療することもある。


 疲れはするが、それでも夜はゆっくり眠ることが出来るし、望めば果実酒でも菓子類でも手配はしてもらえた。そういった理由から、もちろん帝都にいる方が楽だし暇を潰すこともできるが、現状に大きな不満はない。


「マリア」


 不意に名を呼ばれて、顔を上げる。両開きの扉を開けて、大柄な浅黒い肌の男が室内に入ってきた。声もかけずに扉を開けて中に入って来れる者は、この戦場に一人だけだ。


 良く言えば野生的な雰囲気の大男だ。髪は銀色で目に掛かるほどの長さで、髪の隙間からは鋭い目が覗いている。


 赤色に銀の装飾が施された見事な鎧を着ているが、その表情や雰囲気は騎士というより傭兵団の団長といった風貌だ。


 この銀髪の男が帝国の第一王子、バルトル・バル・ディア・ハインリヒである。


「バルトル王子。いかがされましたか」


 そう尋ねると、バルトルは凶暴な笑みを浮かべてすぐ近くに座り込んだ。地べたにそのまま座って、面倒くさそうに口を開く。


「……聖女マリアよ。小さな国と侮っておったが、エルテミスは中々手強い。いや、大した力は無いのだ。必死に川を守っているだけだが、そのやり方が上手いのだろう。困ったことに、これだけの大軍がこの場から動けなくなってしまっている」


「……そうですか。では、私が帝国に戻るのもかなり時間が掛かるということですね」


 ため息混じりにそう答えると、バルトルは鼻を鳴らして笑った。


「ふん。そんなに帝都に戻りたいか? 次々に他国を呑み込み、領土を広げるのも面白いとは思わんか。圧倒的に有利な状況で戦い、勝てば財宝から奴隷まで持ち帰り放題よ。これほど面白いことはあるまい?」


 こちらの顔を観察するように見ながらそんなことを言うバルトルに、半ば呆れつつ口を開く。


「別に面白くありませんね。略奪など勝手にやっていてください。私は帝都で歌劇でも観ていた方がよっぽど面白いですよ」


 そう答えると、バルトルは再び鼻を鳴らしてこちらから視線を外した。


「ふん、つまらんな。その略奪とやらで得た贅沢品で不自由ない生活をしているのだぞ? まぁ、望んだものではないかもしれんがな……さて、そろそろ本題に戻ろう。今日は悪いが、六人の治療を頼みたい。例の船が燃やされてな」


「……別にどうでも良いですが、人数はこっちの方が多い筈でしょう? 何故そうも毎回負けるのでしょう」


 また仕事かと、不満混じりに疑問を呈する。それに笑い、バルトルは片手を振った。


「普通の国なら既に数で押し潰している。エルテミス王国は地形の使い方が圧倒的に上手いのだ。川を城壁に見立て、動きが遅くなった我が軍を矢や油を使って狙い撃ちしている。情報になかった砦や、最初から準備していたかのような大量の油といい、不思議な国だ」


 珍しく、敵国を手放しに称賛する。しかし、バルトルはすぐに笑みを深めた。


「だが、そろそろ限界だ。野良犬を飼っていてな。エルテミスの腹の中から食い破ってくれるだろうよ」


 その言葉に、溜め息で返事をする。バルトルは私の態度に何を思ったのか、噴き出すように笑った。


「ふ、ははは! 興味もないか? 安心しろ。この戦が終わったら後はすぐだ。二、三国を呑み込んだら帰れるだろう」


「本当ですね? 戦いがあっても私は帝都に残りますから。戦争は好きにしてください」


 そう告げると、バルトルはくつくつと笑って立ち上がる。


「それでは怪我人を連れてくる。治療を頼んだぞ」


「はぁ。分かりました……あ」


 返事をしてから、ふと気になることを思い出した。


「どうした?」


 バルトルはこちらを見下ろして聞き返してきた。それに曖昧に頷き、答える。


「いえ……大したことではありませんが、先ほどから変な頭痛がするのです。何かに反響しているかのように、外から圧力を感じて内側に浸透するような……」


「どういうことだ? 川になにかあるのか?」


 バルトルは首を捻って疑問を口にする。しかし、こちらも上手く言えそうにないので困っているのだ。


「……なんと言えば良いか。まるで、川の水に魔力を吸い取られているかのような……」


 そう告げたものの、バルトルもどうしたら良いか分からないことだろう。私自身も違和感程度しか分からないのだ。


 ただ、何か奇妙な不安を感じるのみである。


「……聖女として、何かに反応しているのかしら」


 私は小さく、そう呟いたのだった。

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