第19話  もう止められない

 最も重要な地となるシュフール川の防衛に失敗してから、僅か四週間後のことだ。ビザンへの恨み、怒りを晴らすこともできないまま、伯爵領に戻って傭兵を雇う為に資金集めに奔走していた時、その報せがきた。


 王都での戦いである。


「……戦いが始まりました。帝国軍はシュフール川の渡河用浮桟橋を完成させたので、一気に五万以上の兵が渡河に成功したとのことです。その内、三万が王都へ現れました」


「残りの二万は?」


「ここ、シンクレア伯爵領です」


 半ば予想していた回答を耳にして、短く息を吐く。執務室でともに聞いていたヘレナは厳しい表情で頷き、報告にきたギゼルは私を見た。


「ソフィアーナ様が懸念していた通り、僅かな期間では王国軍の再建は難しく、王都には千五百ほどの兵しかおりません。また、陛下は包囲を受ける前に女子供の退避を決めました。向かう先はバルド皇国東部です。王国領地の東部を移動しつつ、そちらへ避難します」


 ギゼルの報告に、ヘレナは深く、長い溜め息を吐いた。


「……王国はもう滅亡するしか道はないのですね」


 声は震えていたが、その表情は毅然としたものだった。ヘレナは普段はおっとりとしていて優しい女性だが、決して折れない芯の強さがある。それは、この王国の危機の中で何度も確認してきた。


「やはり、父と兄は王都に?」


 そう尋ねると、ギゼルは首を左右に振る。


「……いえ、まだ消息不明です。同じく、ベルタン公爵家の方々も同様となっています」


 ギゼルの報告に、ヘレナは肩を震わせて押し黙る。父や兄、エランジェの顔が何度も頭の中に浮かんだ。


「母上、あの戦いからまだ一か月も経たないのだからまだまだ分かりません。むしろ、こちらの状況を好転させない為に驚くほどの速度で攻めてきた帝国軍に意識を向けなければならないでしょう」


 残酷だが、伯爵領の領主代行として決断をしなくてはならない。ヘレナの心情を慮りつつ、そう尋ねた。すると、ヘレナは静かに目を瞑り、十秒ほど考え込む。状況が状況だ。選べる手段も何もないだろう。唯々、この現状を認めて一歩踏み出す為の時間が必要に違いない。


 無言で待っていると、ヘレナは再び口を開いた。


「……王家が撤退を決めたのならば、我らは王家に仕える伯爵家として王の再起を補助しなくてはなりません。この伯爵領にはいまだ千三百人ほどの領民と五十三名の騎士団がいます。少しでも可能性があるならば、我々もバルド皇国に向かいましょう」


 ヘレナのその言葉に同意しつつも、気になる点があった。


「もしかしたら、父と兄もベルタン公爵領から真っ直ぐ北に逃げているのかもしれません。これほど早く公爵領から王都まで辿り着いたなら、僅か一週間かそこらで公爵家を制圧し、すぐに王都に向かったはずです。見つからないように、街道を使わずに逃げている可能性もあります」


「……森林地帯を抜けて、ですか? しかし、それではもう……」


 ヘレナは辛そうに言いかけるが、それに首を左右に振って答える。


「いえ、今は聖女が渡ってきている筈ですから、森の中はむしろ安全地帯になっているでしょう。それならば、これだけ時間が掛かっている理由にもなります」


「……そうか、そうよね。確かに、あの人ならそう考えて行動しているかもしれない」


 ヘレナは自らを納得させるようにそう呟いた。


「なので、我々も最善を尽くしましょう。王都は人数も多く、そこに我が伯爵領の領民も向かうと、バルド皇国とて全員の保護は難しいかもしれません」


「そうね。今の状況だと帝国との戦いが早まるだけとも受け取られてしまうわ。バルド皇国の力でも、帝国を相手にしたら負けしまう可能性が高いもの」


「はっきり言って、バルド皇国であっても帝国を止めることは出来ません。本来ならシュフール川を防壁代わりにして東部の国々で大連合を作る予定でした。しかし、今となってはどうしようもありません。バルド皇国には使いをおくりましたが、近隣諸国との同盟など絶対に間に合いません」


 そう告げると、ヘレナは目を鋭く細める。


「……それもこれも、ビザンのせいなのね」


 腹の底から出たような低い声だった。そんなヘレナの姿を見たのは初めてなのか、ギゼルが驚いている。


「ビザンには後で報復するとして、今はどうすべきか決める時です。王都から移動すると帝国から離れるようにして移動しないといけないので、必然的にバルド皇国東部に向かうことになります。しかし、この伯爵領は一度南に下ってから北東に向かう必要があるので、間違いなく帝国軍二万人と激突してしまいます」


「……そうね。でも、そうするとシュフール川の上流に向かって北部へ移動するしかないってことかしら?」


 ヘレナにそう尋ねられて、執務室の壁に貼ってある地図を見る。


「いえ、それは危険です。私が帝国軍の指揮官なら、バルド皇国と戦った時に備えてシュフール川の上流まで制圧するでしょう。上流にあるルーゼン公国も同様の危険があります。なので、こちら側から北上するべきでしょう」


 そう言って、地図を指差す。


 シンクレア伯爵家は南、東、西に街道が繋がっているが、南と西は選択肢から外れる。後は東に続く街道だが、王都に向かう為途中から南東へと進行方向が変わってしまう。


 その為、途中から街道を外れる必要があった。


「……ここから、北上します」


 そう言ってから、地図上の一点で人差し指の先を止める。地図上からでも、その先には深い森しかないと分かる。


「それは、魔の森を抜ける、ということ?」


 驚愕するヘレナに頷き、そこから指し示す先を地図の上へと移動させる。場所は、バルド皇国の領地よりも北部だ


「向かう先は、失われた国、リミアです」

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