あなたとぼくのクリスマス
水神鈴衣菜
恋は盲目と言うけれど
朝起きて、目の前がぼんやりとしていた。天井がかすんで見えて、突然目が悪くなったのかと思った──というのも、僕は生まれてこの方目がずっと良いのだ。眼鏡を掛けたことはおろか、視力検査でA以下が出たことすらない。寝ぼけているだけかと思ったのだが、ぼやけた視界に難儀しながら洗面台まで行って、顔を洗っても、そのぼやけは取れなかった。
このまま外に出るのは危険だ。僕はそう判断した。けれど今日はクリスマス。恋人がいるのだが、もちろん出かける約束をしている。彼女と出かけられないのは嫌だし、こんな理由で断っては、納得してくれないかもしれない。
ひとまず彼女に連絡をしてみる。
『おはよう』
『今日なんだけど、ちょっと視界が変で』
『ん、おはよう。』
『視界が変ってどういうこと?』
『なんか、何してもぼやけてるんだよ』
『普通に寝起きだからとかじゃなくて?』
『そう思って顔洗ったけど変わらず』
『ふうん』
『今から行くよ、ハルんち』
『今から?』
『部屋汚いよ』
『いいよ、様子見たいし』
『じゃあ、二十分で行く』
それから通知は途切れた。本気で来る気なのか、あの子。こんな視界じゃ、綺麗にできるものもできない。
結局なんの足掻きもできずに、二十分が経過してしまった。家のインターホンが鳴る。
「はあい」
ぼやける視界に再び邪魔されながら、僕は玄関まで彼女を迎えに行く。ガチャ、と扉を開けると、いつも通りの彼女がいた。
「遅くなった、ごめん」
「大丈夫だよ」
「マジでなんの片付けもできてないから、覚悟しといて」
「いつもわりと散らかってるじゃん、ハルの部屋」
「うーん、否定できない」
苦笑しながら、扉をぐっと大きく開く。
「どうぞ」
「はーい」
その時、ふと違和感に気づいた。いや、これがいつもの景色なのだから「違和感」と言うのは変な気がするけれど。
彼女は、いつも通り見えるのだ。はっきりと、まつ毛が肌に落とす影すら。けれどその後ろ、背景は全くぼんやりとしている。
「……、ね、サキ」
「なに?」
振り向いた顔が怪訝そうであることも、しっかり僕には見えている。
「サキのことは、ちゃんと見える」
「……ん?」
「あ、ごめん。とりあえず、こたつ入ろう」
「うん」
* * *
「えーっと、つまり、ハルは世界がぼやけて見えてて。でも私のことはちゃんとはっきり見えてるってこと?」
「うん」
「……へぇ、不思議だね」
長いまつ毛が少し伏せられる。小さい唇がきゅっとなって、うーん、と小さな唸り声が聞こえた。
「他にちゃんと見えるものって、なにかあった?」
「いや……どうだろう、わかんないな」
「さっきスマホで連絡してる時はどうだったの?」
「……あれ、たしかに不自由しなかったかも」
そう言いながら、僕はスマホを取り出してLINEの画面を開く。サキとのLINEの画面は、はっきりと見えている。
「普通のことだから、なにも思わずに連絡してた」
「なるほどねぇ」
「不思議」
「なんとなく分かった気もするけどね」
「ほんと?」
細くて白い指が、僕を指す。少し小首を傾げて、サキは軽い笑みを浮かべた。
「私に関係することじゃん、全部」
「……たしかに」
「なんだあ、ほんとに『恋は盲目』になっちゃったってこと?」
「そんなことあるかなぁ」
「でも実際起きてるじゃん」
「まあね……」
苦笑いして言う僕を見て、サキは少しおかしそうに笑う。それから上着を脱いで、ぱたんと寝転がった。
「この感じじゃお出かけできなさそうだねー、けどお家にいればのーぷろぶれむ」
「一緒にいてくれるの?」
「そりゃそうでしょ、そのために今日一日おやすみにしてるんだから。家でも外でも、一緒にいられたらいいんじゃない」
その言葉に、僕は少し救われた。
そうして、一日ふたりで家でごろごろのんびりと過ごした。冷蔵庫の中身がぼんやりしてよく見えなかったので、サキに頼んで料理は任せることになった。申し訳ない。
こたつで寝転んで、うとうとする彼女の顔をほんの少し、眺めた。白い肌に、少しだけ化粧をしている。薄いオレンジ。色素の薄い茶っぽい髪によく合っている。緑とかも合いそうだけど、ちょっと奇抜になってしまうのかな、なんて思ったりしながら。少し唸って、サキは薄く目を開く。
「……、ハル?」
「ん、いるよ」
「手」
「はい」
こたつに入っていなかった手は、冷たい。やわく包んで、温まるようにときゅっと結ぶ。サキは満足げに笑って、再び目を閉じた。
あたたかなクリスマスも、悪くないと思った。
しばらくして、サキが起き出す。その間に僕も少しだけ寝てしまったのだけれど、サキが起きる前に目を覚ますことができた。
「おはよう」
「ん、おはよう……」
目をぱちぱちとしながら、サキは上体を起こす。
「……ねえ、やっぱりイルミ、見に行こうよ」
「え、でも」
「いいよ。私が写真撮るし、一緒に行きたいだけだから、私が」
「……そっか、わかった」
ということで、洋服をサキに選んでもらい、ぼやけた視界のまま頑張って着替え、渡してもらったカバンにスマホと財布を入れ、そのまま外へ出る。
「サキちゃんセレクション」
「お手数お掛けしました」
「楽しかったよ」
「それなら良かった」
「じゃ、行こうか。どのくらいのぼやけなのかわかんないけど、手繋いでれば大丈夫かな」
「転ばないように気をつけます」
「うん」
手袋をした手を繋がれて、少し引っ張ってもらいながら、冬の夜を歩いていく。少し左側に目を落とすと、サキの瞳に夜のきらめきが映り込んでいた。
「あ」
「え、なに?」
「サキの目に、光が映ってるなって、思った」
「なあんだ……怖いことしないでよ」
「ごめんって」
「でも、これで見れるね、イルミ」
僕は少し目を見張って、うん、と頷いた。
そうして、元々見ようとしていたイルミネーションがある場所に到着する。……とは言ったが、曲がり角を曲がった先なので、もう少しだ。
「ちゃんと見えるといいね」
「……うん」
そうして角を曲がって、光が溢れる。
きらめく金色は、しっかりと僕の視界を満たした。はっきりと、通りの奥の奥まで、美しい色が満ちている。
「……綺麗」
「ん、見えた?」
「うん、見えた」
「そっか。じゃああれだね。はっきり見えるもの、わかったよ」
「……なに?」
「ハルが見たいと思うもの、なんじゃない?」
「……でも、転ばないように見たかった床とかは、全然見えなかったよ?」
「そういうのじゃなくて、心から見たいと思ってるもの、いつも見たいと思ってるもの」
「……なるほど」
それだけがはっきりと見える、なんておかしな話だけれど、なんとなくすとんと腑に落ちた。だって、彼女と見る世界は、たしかにひとりで見る世界よりも、鮮やかだったから。
「……けど生活に不自由するのはいやだから、治っては欲しいかなあ」
「はは、そうだね」
ふたりでゆっくりと通りを歩いた。直接はっきりと見るイルミネーションも綺麗だけれど、彼女の瞳を通して見るイルミネーションも、とても綺麗だった。
次の日の朝。天井はぼやけていなかった。ほっとする。アラームを鳴らし続けるスマホの画面を見ると、日付は「12/25」となっていた。
「……、夢、か?」
僕は少し笑った。これはこれで、いいかもしれない。幸せな時間を、もう一度繰り返せるのだから。
あなたとぼくのクリスマス 水神鈴衣菜 @riina
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