歌を唄う

@rabbit090

第1話

 案外、諦めることって難しいと思う。

 俺は、だからこそやめた。というか全てを受け入れようと、思ったのだ。

 無理をしていることは自覚していた、だからこそ、だからこそ、

 「慣れた?」

 「えっと…はい、まあ。」

 「そう、よかったね。」

 目をらんらんとさせながらいつも、俺にそう尋ねてくるのはここの管理人だった。

 そう、諦めたのだ。

 ここに来て、全てを捨てることにした。そしてその代わりに、俺の人生は誰かの、掌の中に納まってしまったらしい。

 「君の体、またどこかへ行っちゃったね。」

 「そうですね、俺は寝ているだけなので、分からないんですけど。」

 「そうだよね、実は僕らにも、よく見えないんだ。ただ君は普通にこのベッドから起きて、外へ行く。行ってらっしゃいって声をかけると当たり前のような顔をして外へ出る。けど、中身は君じゃない、そうだろ?」

 「そうですね。」

 俺は苦笑いを浮かべた。

 でも、普通に生きていくことをあきらめた俺には、この方法しかなかった。なら死ねばいい、なんて思ったりもしたけれど、それは嫌だった。

 これは、仕事ではない。

 世界は、混乱していた。

 ちょっと前まで、すごく平和だと思っていたのに、今は見る影もなく荒れ荒んでいた。そして、その力が支配する世の中では、生きていくことは難しいのだと早々と悟った。

 俺は、昔から体が弱かったから、どうしてもだめだったのだ。ついていけなかった。そういう人間も、何人か見た。けれどついて行けないということは、それ相応の何かを見つけないといけないということで、普通から離れたそのルートは簡単に見つかるものなどではなかった。

 が、

 ある広告を見つけた。

 ”体を貸してください。幻でいいんです。ただ、その姿かたちを、私達に提供してください。” 

 という奇妙なものだった。

 でも、その頃の俺は疲れ果てていて、そして追い込まれていて、とりあえずの生活を保障するというその文言に魅かれて、このマンションへとやって来た。

 「ご飯食べる?」

 「はい。」

 そう言って、席に座った。ここの管理人を名乗るこの男性は、住人の管理を任されている。文字通り、管理だ。けれど束縛ではない、だからこそ俺は、大丈夫だった。

 「あの、俺がどっか向かう時って、話したりします?」

 「ああ、してる。普通に話しかければ返答するし、でも君じゃないんだよね。」

 「そうなんですよ。」

 「おかしな話だねえ、僕も詳しいことは分からないから、何とも言えないんだけど、さ。」

 「ですね。」

 そう言って、さっさと飯を済ませ、風呂へ入った。

 たまに、体中がとても嫌なにおいを放っていたり、使われた、という感覚がもろに残っているから、朝目覚めると風呂に入ること日課にしていた。

 

 どこに行っているのかは分からない。

 けれどあの広告に書いてある通り、俺の体は疲れも、傷も、何もない。

 ただ、感覚だけが残っていて、それを落とすのに苦労している。

 幻とは、何なのだろうか。

 外へ向かうと、いつも気味の悪いにおいが立ち込めている。

 戦いのにおいだった。

 俺は、それを感じるたびに、心が砕けそうな気持ちになってしまう。

 なぜ、こんなことになったのか、そんなことは分からない。

 物事に理由など無かった。

 ただ、起きた事象を捉えて、そこからどうするか、それしかなかった。

 奇妙なことが蔓延している。

 けれどその正体はつかめない。多分、掴む必要など無いのだ。

 「なあ、お前、ここにはいられないから。」

 「そんな…。」

 「俺も、そう思う。客観的な判断だ。このご時世で出て行け、というのは苦しいことだと分かっている。けれど、悪いな。」

 「僕も、こいつと同意見だ。ごめんな、でも理解してくれよ。切迫しているんだ、世界は、もう誰も、なす術がない。」

 「分かりました。」

 二人三人に詰め寄られ、そう言われたのなら仕方が無い。

 それに、俺ももう耐えられそうになかった。

 そういう人間は何人かいたはずなのに、次第に消えていた。そして自分がその番になった今、理由が判明した。

 みな、出て行くのだ。

 出て行かざる、を得なかったのだ。

 風を感じる、悲しみなんて無い。

 もう悲しいことなんて十分経験したように思う。

 何が正解なのか分からない、けれど今、俺は生きている。

 生きている、ただ生きている。

 それがとても、虚しく思えて仕方が無い。

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