范雎伝 ~『ざまぁ』の語源は、本当はこんな意味だったの知ってる?~

高坂シド

第1話『ざまぁ』の語源

 昔、中国の春秋しゅんじゅう時代に范雎ハンショという人物がいた。

 范雎はという国の人で才気にあふれていたが、家が貧しいため、魏の中大夫ちゅうたいふ須賈シュカに仕えることに甘んじていた。


 須賈は范雎をともなってせいの国におもむいた。斉の王は范雎が相当にすぐれた人物だと聴き、よしみを通じようとしておくものを送ろうとしたが、范雎はそれを断った。それを聴いた須賈は、『范雎は斉の間諜スパイである』と邪推じゃすいし、上司に報告した。


 結果として、范雎は拷問ごうもんを受け、歯と肋骨ろっこつを折り、簀巻すまきにされて便所に放り込まれ、宴席えんせきの客に小便をかけられるという屈辱くつじょくを味わうこととなる。


 范雎は看守かんしゅに『後でお礼をするから』と述べて、小便でおぼれ死んだということにしてもらい、張禄チョウロクと名を変え、友人にかくまわれることとなった。そして、魏に見切りをつけて、当時日の出の勢いであったしんの国へと渡ることにした。


 秦の昭襄王ショウジョウオウという人は非常に聡明そうめいであり、こころよく范雎を迎え入れ、その話を聴くことにした。

「秦は今、(近くの)かんと結んで(遠くの)せいを討とうとしているが、これは間違いです。それよりも遠く(ちょうせい)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て秦のものとなります」

 これを遠交近攻えんこうきんこうという。

 その范雎の進言を受け入れた昭襄王は、范雎を現代日本の総理大臣ともいえる相国しょうこくとしたのである。





 あるとき、魏は秦が自分達を討とうとしているという噂を聞きつけ、須賈を秦に停戦の使者として出した。

 須賈が秦に来ると聴いた范雎は、わざとみすぼらしい格好をして、須賈の前に現れた。


「生きておったのか、范雎よ。それにしても、そなたの才があったとして、なんとみすぼらしいことか」

 そう言ってあわれんだ須賈は、范雎に自分の絹の衣服を与えた。


「ところで、私は秦の相国の張禄さまに話がある。何とかツテはないものか」

「私の主人は張禄さまと仲良くさせて頂いております。私が言えば、何とかなりましょう」

 ふたりは馬車で席を同じくして、談笑だんしょうしながら、張禄の屋敷やしきに辿りついた。


「少しお待ちくださいませ。取り次いできます」

 そう言って范雎は、自分の屋敷・・・・・へと帰っていった。


 しかし、須賈が待てども暮らせども、屋敷に入って良いという合図はいつまで経っても来ない。

 業を煮やした須賈は門番にいた。

「おい、范雎は何をしておる!?」

「『ハンショ』とはだれだ?」

「先ほど、私の使者として張禄さまのお屋敷に入っていったやつだ」

「何を言っておる? あの方が張禄さまではないか」

「な、なんだってー!?」

「おまえ、同席しておきながら、知らなかったのか? なんとも間抜けな奴だ」


 須賈はおびえ、震え上がりながらも、張禄・・の前でひざまずいた。

「昔、ご無礼があったことを平に陳謝いたします」


 もちろん、魏への復讐心ふくしゅうしんに燃えている范雎は、

「貴様の罪は許せぬが、絹の衣服をくれた恩がある。そのことに免じて、話を聴くだけは聴いてやろう」

 と言うだけ言い、魏に侵略すること自体はくつがえさなかった。




※※※※※




 人々は、一刻いっときとはいえ、范雎と須賈が席を同じにしていたことから、『座間ざかんを供にする』という意味の『ざま』という言葉を使いだした。

 そして、須賈の器量は范雎に及ばない二番目であることから、『つぐ』の一文字を加えて、この故事こじを『亜座間あざま』と呼ぶことにした。


 時は流れ、後漢ごかん光武帝こうぶていの時代。

 中国と国交を持つようになったの国に、史記しきを始めとする諸子百家しょしひゃっかの書が初めてやって来たとき、なぜだか文字がひっくり返って『座間亜ざまあ』と呼ばれるようになったのである。


 今では、極東きょくとうの島国に於いて、『ざまを見ろ!』という、人の不幸や失敗に対してののしるために使われることとなった。

 それから、『カキヨミ』という小説サイトでは、それがイチジャンルとして取り上げられ、『ざまぁ』はある意味、一般市民権を得たのだ。

無様ぶざま』という言葉も、『座間が無い』という意味で、須賈のことを指す『無座間』という熟語じゅくごが変化したものであったりもする。

 中身が空っぽのことを『スカ』とも言うが、それは須賈がなまった言葉であることもあまり知られていない。




 また、2月14日は、伴天連バテレンであったタイン・デイという宣教師が、長崎の妓女ぎじょ一目惚ひとめぼれし、煎餅せんべえを贈ったことから、バテレン・タイン・デイを略し、『バレンタインデー』と呼ばれ、愛の告白をする日になったのだ。

 2月14日に一瞬だけ燃え上がり、避妊ひにんに失敗したワンナイト・カップルの子供がだいたい12月24日に産まれることと、范雎の誕生日が旧暦12月24日であることから、某国ではクリスマス・イブを『ざまぁの日』と言ってのろう独身男性が多いらしい。

 

 そして一夜のお供をどうしても手に入れたい男性の間では、春を買うかどうか思い悩んで逡巡し、不届きな考えと良心の間で想いを巡らしせめぎ合うことを『援交均衡えんこうきんこう』とかつて呼んでいた。

 現在では『パパ活』とその名を変え、令和の私たちにも、実は范雎はとても馴染なじみが深いのである。




民◯書房刊『知らなかった! 君は知ってた? 史記?由来ゆらい故事成語こじせいご』より

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