もらした彼女は俺の彼女
北見崇史
第1話
いい天気だなあ。
まだ五月なのに夏の気配が出てきた。暑い季節が特別好きというわけではないけど、春が終わって夏へと向かう雰囲気が好きなんだ。そういう空気の匂いを感じると、いい気分になる。ゲーセンに行きたい。
それにしても、昼飯を食った後の古文の授業は、いつもながらダルすぎる。
遠藤理沙(えんどうりさ)先生は声が小さくてボソボソしゃべるから、どうしようもなく眠くなるんだ。教師じゃなくて事務のお姉さんでもやればいいのに。ほら、女子たちの半分が寝落ちする寸前だ。
つられて寝ないように、俺は窓の外の景色を眺めている。窓側から二列目の一番後ろの席だから、ぼーっとしていても、あんまり目立たないんだ。
俺の左隣、窓側の列の一番後ろの女子が目の前いるが、彼女は俺の視線を気にしていない。どうしてかっていうと、死んだように寝ているからだ。机に顔をベッタリつけて爆睡している。
文園綾香(ふみぞのあやか)。
うちのクラスで絶妙なポジションをキープしている、けっこう器用な女子。
すごく可愛いし、美人タイプでもある。この高校で一位か二位を争うくらいに、かなりレベルが高い。生まれついての美形であって、さらにここが重要なところだけど、スタイルもバツグンに良い。スケベな対象として見ているわけではないというとウソになるけど、とにかく尻がいいんだ。
イケイケなグループに入っているわけではないが程よく話しているし、地味~なグループを無視するわけでもなく適当な距離感で接しているし。ハンパもんの女子ともそこそこ話す。
でも結局は一人でいることが、あんがいとあるんだよ。隣の席だからわかるんだ。
まあ、俺と話すことはないけどな。
孤立しているわけでもないし、かといって孤独を避けてもいない。一匹オオカミタイプの女か。いや、一匹アイドルだな。ジジイの言い方だけど、目の保養にはなる。
ん?
いま気づいたけど床が濡れているな。文園の真下あたりだ。
机の中に入れていたペットボトルの水をこぼしたんじゃないのか。床はどうでもいいけど、服が濡れてしまうだろう。寝ているから気づかないんだな。教えてやった方がいいか。
いやでも、あんまし話したことないしな。寝起きに声をかけてキレられたら悲しい。ヘタに触ると、セクハラだとか騒がれそうだ。
ああーっ、ちょっと待って。
いやいやいや。
違う違う。まったく違う。
まさか。
おおー。
これって、おもらしだ。
文園がオシッコを漏らしているんだ。
なんで断言できるかって、机の中から水が漏れてはいないし、椅子の下だけ濡れているし、液体がちょっと黄色い感じがするし、ほんわかとニオイがする。
確実だ。
当然、わざとではないだろうな。熟睡しているから、やっちまった的なことだ。
俺も小学三年生までオネショしていたが、ああいうのは個人差があるから、高校二年になっても治らない場合もあるのか。女子の体の構造にはすごく興味があるけど、生理的なことに関してはなにも知らない。
うっ。
文園がこっちを見た。上半身は机にベッタリ臥せっているけど、顔だけ俺に向いている。
ああ、涙目になっているな。少し赤く充血していて、ウルウルしていて号泣寸前だ。前髪が濡れて鼻に貼り付いている。
文園、やっちまったことを知っているんだ。でも、もうどうしようもないし、泣きたい気分というか、死にたいと思っているだろう。
こいつは、なまじアイドル級の外見だから、ほかの女子たちからの表立たない妬みがハンパないだろうと予測できる。だから波風立たないように、ちょうどよく立ち回っていた。リーダー的な感じではないけれど、一目置かれる絶妙のポジションをキープしているんだ。あこがれている地味女子もいるだろう。もちろん、相当な努力の{たわもの}であることは間違い。
それがオシッコもらしました、授業中に。
なんてことになったら、クラスの一番下まで真っ逆さまに落ちてしまう。てか、イケイケグループの井沢茜(いざわあかね)なんて、ぜったいに標的にするだろう。勢いをつけてイジメるはずだ。
あいつもけっこうな美形で、そのことを鼻にかけているいけ好かないヤツだけど、絶対的な美人度においては文園の下だ。
超えられない壁があって、すごく高いハシゴを使っても届かない。表面的にはすましているけど、嫉妬心がメラメラメラメラ燃えているのは、俺じゃなくても気づいている。ときどき鬼女の目で文園の後姿をガン見しているからな。
あいつは徒党を組んでいるし、どちらかというとaloneを気取っている文園は、数において負ける。さらに恥を自覚していることが弱みとなるからな。つけこまれたら一巻の終わりだ。
だから文園、おまえは{終わった}ということだ。高校生活、終了~なんだ。超絶地味子以下の扱いで卒業の日までイジられ続ける。ほんとうに、サヨナラだ。
いや。
なんてことにはさせたくないし、させないようにナイスなアイディアを思いついてしまった。崖っぷちに追い詰められた窮地を誤魔化しきるにはこれしかない、っていうグッドな考えが俺の頭に浮かんだ。
ただ、それをやると文園は助かるが、俺の身分というか人格というか将来が、すんごい危ういことになりそうな気がする。{終わった}が、俺の方にやってくるんだ。
まあ、それでいいか。
自己犠牲の俺様かっこいい、という気持ちはさらさらない。不可抗力的な部分も多々ありだったが、よりによって女の園に入学してしまった俺の高校生活は、すでに破綻しているからな。いまさら嫌われたりウザがられたり、ついでに変人と思われても別にどうってことないってことだ。なにを仕出かそうとも、どうせ現状は同じだ。だったら、やっちまった方がスッキリする。暇つぶしのアトラクションだと思えばいい。
ただ事をやっちまう前に、俺に特殊な性癖があるわけではないことをハッキリさせておく。文園綾香の、うるうるな涙目に訴えられて、男心が激しく揺さぶられたのは事実だが、セクシャルな動機ではない。ただなんとなく天気がいいからさ。カフカみたいでいいだろう。
さあ、やるか。
{まかせろ}と、両玖津吉(りょうくつよし)がノートに書いて、それを文園綾香に見せた。理解しやすいように大きな字である。キリリと爽やかな表情をしたが、それがイケメン顔なのかは本人も怪しいと思っていた。
あっと、忘れてた。
これをやってしまうと金魚たちが死んでしまうからな。そうならないように注意書きを追加する。黒出目金の金太郎と朱文金の銀五郎は助けたい。毎日エサをあげているのは俺なんだ。頼むぞ、文園綾香。
さらに{金太郎と銀五郎をたのむ}と記して、ふたたびノートを見せた。綾香は相変わらず、絶望が計り知れない泣き顔のままである。彼女がその意味を理解しているのかどうかは疑わしい。ただ、隣の男子が自分のためになにかを仕出かそうとするのだと悟り、淡い期待も抱いていた。
津吉が、そうっと動き出した。
気配を極限まで消し去って、ぬるりと立ち上がり、忍び足で三歩ほど後退した。そして教室後ろの棚に置かれた金魚の水槽に手をかけると、ぶくぶくエアーポンプを静かに抜き取った。
古文の担当教師・遠藤理沙は黒板に長々と古い日本語を連ねていて、後ろのことには無頓着である。右隣の女子たちは総じてレム睡眠状態であり、注意力が散漫な状態となっている。綾香以外、誰も彼の行動に気づいていなかった。
この水槽、けっこう重い。当然か、水が満杯に入っているからな。いつものように生臭いんだけど、これはこれでちょうどいい。ニオイを誤魔化せる。
そうっとだ、そうっと。
いま音を立てて気づかれるのはダメだ。おもらしがバレてしまうからな。
古文の教師・遠藤理沙による睡眠導入剤的な授業は続いている。女子だらけの二年三組は、集団催眠ならぬ集団睡眠状態であり、夢見心地な空気に染まっていた。
しかしクラス唯一の男子生徒が、そのユルすぎる静寂を、いままさに打ち破ろうとするのだった。
「オラアーーーーーーーーッ」
ぶっかけてやった。
クラスで一番、いや学年で一番というか、この私立霧ヶ峰高等学校で、俺の主観によると一番可愛い女子を、びっしょりと濡らしてやった。
水槽の中身を全部は使わなかった。とりあえず半分ほどにした。残った水の中に金太郎と銀五郎がいる。びっくりしてパシャパシャ跳ねているよ。二匹とも、悪いな。これからが本番なんだ。
「こんのっ、クソ女、クソビッチ、調子にのってんじゃねえぞ。マザーフ〇ッカー」
上体を起こした文園は、びしょ濡れだ。目をまん丸に開いて俺を見ている。突然水槽の水をぶっかけられたこと、口汚くののしられたことに驚いて、ぼう然としていた。
おい、しっかりしろ。これは作戦なんだ。二人の呼吸を合わせないと失敗してしまうだろう。
それにしても、「マザーフ〇ッカー」は我ながら笑えるセリフだ。正直いって、こういう言葉づかいはなれていないし、好きでもないんだ。できれば使いたくないのに無理矢理言っているから、安っぽい洋画のような単語が出てくる。
「てめえのような薄汚い売女は、オッサン相手にパパ活でもしてんだろっ」
ごめん。
本心では全然思っていないからな。頼むから本気にしないでくれよ。どうしても怒りのボルテージを上げなければならないんだ。ここには勘のいい女がいっぱいいるから、みんなの目を俺のバカギレに集中させないと、誤魔化しがバレてしまうんだ。中途半端は命ロリとなる。
命ロリ、ってなんだよ。命取りだろう。テンション上げすぎて、俺の頭の中がバグッているみたいだ。
「な、な、なんですか。あなたは何をやってるのっ」
遠藤理沙教諭が教壇で絶叫している。クラスのすべての女子生徒が突如として叩き起こされ、教室左後方に注目した。そこには頭からびしょ濡れになっている文園綾香と、彼女の頭上に金魚の水槽を掲げている両玖津吉がいた。
よし、クラスのみんなが俺たちを見たところで、間髪入れずに残りの水を文園へぶちまける。
といっても、今度はゆっくりと彼女の下腹めがけて注ぎ込むんだ。こうすると、俺がサディスティックに美女をいたぶっていると思い込むだろう。じつは金魚二匹が硬い床に激突しないように、文園の太ももあたりに着地させる必要があるんだ。
うん、うまくいった。ちょうどよく乗せることができた。金魚を傷つけてはいないし、文園のおもらしを完全に隠蔽しきっただろう。ぜったいにバレない。
「うわあー」
「きゃあー」
「なにー、ちょ、なんなのー」
「え、殺人事件、猟奇殺人事件なの」
教室の方々から悲鳴があがった。一部のミステリー好き生徒が物騒なことを口走っているが、殺人は起きていない。一時的にもそう思い込んでしまったのは、異常な出来事を目撃しているからで、脳内化学物質の瞬発的なオーバードーズなのだ。
予想していたよりも、けっこうびしょびしょになってしまった。
暖かくはなったけれど、これだけ濡れてしまえば体の芯まで冷える。着替え、もっているかな。ジャージがあるか。でも下着まではムリだ。
いろいろとごめんな、文園。けしてイジメたくてやっているわけではないからな。まあ、察しているとは思うけど。
それと唖然として俺を見ているのはいいが、早く金魚たちを救出してくれ。すぐに水へ入れないと死んでしまうんだ。ほらっ、ほら、おまえの太ももの上でピチピチ跳ねているだろう。
目線だけを上に下に動かして、なんとか俺の意思を伝えた。きっかり六秒後、ハッと目覚めた文園が金魚を二匹とも手ですくって、振り返っていた前の席の金城優奈(かなしろゆうな)に手渡した。
「えっ、な、どう、ほほう」
金城さんが動揺していた。手のひらにのせられた活きのいい金太郎と銀五郎を見て、目を白黒させている。二度ほどニオイを嗅いでから、ふーと息を吐いた ちょっとキョドリすぎだろう。そして、「うわーーー」て叫びながら教室を出て行った。
ふう、これで安心だ。あいつは心優しき女だから、きっと生かしてくれるはずだ。ちょいぽちゃで世話好きで、とにかくいいやつなんだ。
「両玖君、あなたなんてことしでかしたの。自分が何をしたのか、わかっているの。どうなのっ」
遠藤理沙先生がウザいが、ここまでは、まあ順調か。
おもらしの証拠は水に流されたし、かすかに匂っていたものも紛れた。だけど、なぜ俺が女子にむかって水をぶっかけたのか、説得力が必要だ。
何度もいうが、うちのクラスの女どもは勘が鋭い。少しでもつじつまが合わなかったら追及を始めるだろう。問い詰められれば、被害者がゲロッてしまうことも考えられる。ストックホルム症候群というやつだ。いや、ちがうか。全然ちがうな。
とにかく、もう大事になってしまったんだ。最後まで完璧にやり遂げて、後顧の憂いを断っておく。
文園、寒いだろうけどもう少しのガマンな。ダメを押しておくからさ。
「るせえ、ド貧乳。俺はこのクソ女に腹が立ってんだっ。俺のことをバカにしやがった。クッソミソにバカにしやがって。こいつだけは許せねえ」
ガンガンと、綾香が座っている椅子の背もたれを津吉が蹴っていた。ズボンのポケットに手を突っ込んで、昭和時代の古き悪き不良みたいなスタイルであった。
背もたれをガシガシ蹴られているので、そのたびに綾香の体が揺れた。この衝撃的な光景に、暴力行為とは無縁だった二年三組が騒然となっている。ただし教師を含めて、男子生徒の暴挙をだれも止めようとはしなかった。
程度の低いチンピラみたくイキッてみたけど、止め時が難しい。
というか、蹴れば蹴るほど俺の中のボルテージが上がっていくんだ。雨の日の捨てられた濡れ子犬みたいに見上げる文園の顔が、また嗜虐心を誘ってくる。DVなヤツって、こういう感情に溺れてしまうんだろうな。だけど、俺にはその最低の趣味はない。
よし、ここで終わりだ。
もう力を抜いていいぞ、文園。蹴りは体に当たっていないはずだけど、もしかすっていたのなら、あとで全力土下座する。
「コッラーー、貴様はなにをやってんだーっ」
津吉による椅子蹴りが終わったと同時に、教室後ろのドアが勢いよく開けられ、ガタイの良い筋肉質な中年男が入ってきた。
体育教師で生徒指導を担当している山田教諭である。顔が厳つくゴリラみたいな風貌なので、生徒からはゴリ山田というあだ名を頂戴していた。
ドシドシと床が凹むくらいの勢いで事件現場へとやってきた。腕を組んで、よく育てられた上腕二頭筋を見せつけている。だいたいの事情は知っているようだ。
おいおい。
男の先生が来たのはいいけど、よりによってゴリ山田かよ。金城さんが呼んだんだな。これは、二、三発はぶん殴られるか。まあ仕方ない。
「女子になんてことするんだ、おまえは。気でも狂ったのかーっ」
「わ、私のことをド貧乳って、ひどいこと言ったんですよ。ありえません」
「いや、遠藤先生。それはあんがいとあり得るのではと」
キーッ、と遠藤理沙先生が鬼の顔だ。ゴリ山田、大人なんだから空気を読めよ。あんたがそれを言ったらだめだろうよ。
「とにかく、来い。これだけのことをしたんだ。ただではすまんからな」
襟首をつかまれて退場するのは、お魚くわえた野良猫みたいで、ちょっとカッコ悪かった。
何人かの女子に支えられて、やっと文園が救出された。遠藤先生がやるべきなのに、古文の授業と同じで役に立たない仕様だな。
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