34

 老人二人の豪快な笑い声が、ココロを深い眠りから目覚めさせた。

 ちょっと一休みのつもりが、思いのほかぐっすりと眠ってしまったようだ。

 頭の傍で寝息を立てるミートの背中を触ると、ココロは体を起こして目を擦った。

 下から陽気な音楽と、やけに盛り上がった二人の声が聞こえてくる。


「お爺ちゃん、帰ってきたんだ」


 階下に降りると、ココロは驚いて目を丸くした。

 テーブルに置かれたレコード再生機が陽気な曲を奏で、食べ散らかされた皿は重ねられ、空いた酒瓶が絨毯に転がっていた。ベロベロに酔っ払った老人二人が、テーブルの周りを回りながら踊り、調子の外れた声で歌を真似て鳴いている。鼻の先まで真っ赤にしたマリオは、家に置いていないはずの酒瓶を片手に千鳥足で踊り、ゲラゲラと笑ったリチャードの抜けた歯の間には、差し歯のようにトウモロコシがはめ込まれていた。


「ちょっと、お爺ちゃん! リチャードさんも何やってんの!」

「おうココロ、おはよう! ぐっすり眠ってたな! ヘイ!」


 ココロは床に転がっていた酒瓶を拾い、見覚えのないラベルに眉を顰めた。


「お爺ちゃんこのお酒、どうしたの?」

「ああこれはあれ、こちらの、こちらの爺さんが」

「レクッ――リチャードでぃす」


 変なしゃっくりをして、リチャードはひらっと手を上げた。


「もしかしてあの荷物の中身って」

「お酒、入ってました」


 お茶目に笑ったリチャードはへべれけになって、今にも吐いてしまいそうな嗚咽を漏らした。


「あたしが寝てる間に酒盛りしてたわけだ。ったくもう、リチャードさん怪我してるんだよ?」

「怪我には酒が一番! 乾杯!」

「おかげで、痛みが和らぎました! 酒は心の薬です!」


 マリオとリチャードは酒瓶をガチャンとぶつけ、ぐいっと酒を煽った。


「あのさ、酒場じゃないんだよ?」ココロは呆れて溜息を吐いた。

「酒があればどこでも酒場だ。陽気な音楽もあるしな!」

「あたしその曲知らない、そんなの持ってたの?」

「なんかあれだ、海賊の歌らしいが、よく知らん」

「お酒飲んで、歌って、リチャードさんとはすっかり仲良しだ」

「そういうこった。わしはこの人の人柄に、感動してな!」


 マリオはどっかと椅子に座ると酒をあおり、へへっと笑った。


「へえそう、人柄にね」


 ココロはマリオから酒瓶を奪い取り、腰に手を当てて睨みつけた。

 リチャードと打ち解けるのはこっちとしても助かるが、この散らかしようは容認しがたい。

 マリオは子供のように目を泳がせると、こうなった経緯を説明した。


「か、彼が家にいることはエルマー達から聞いてたよ。あいつらわざわざ工場に寄って教えてくれてな――」


 そして家に戻り、やたら臭う風呂場でシャワーを浴びて、マリオはリチャードの姿を探した。

 ステラとジョンの寝室から鼾が聞こえて扉を開けると、床で丸くなって眠っているリチャードを見つけた。リチャードを起こして床で寝ている理由を尋ねると、「この部屋にいるのも申し訳ないくらいだったのですが、お孫さんの厚意を無碍にも出来ないし、かと言って私のようなよそ者が、ご両親のベッドを使うわけには参りませんでしたので」と申し訳なさそうに答えた。

 リチャードはマリオに大変お世話になっている、と感謝を伝えた。

 そのささやかな礼にと、持っていたお酒をもらった。

 旅先で集めた心の薬だと笑ったリチャードに感動し、マリオは一緒に飲もうと誘った。


「――とまあ、そういう感じで」

「なるほどね、でもそういうことなら起こしてくれれば、つまみも作ったよ」

「そうは言うが、ココロは止めるだろ。この酒盛りを」

「そりゃ、あったらあっただけ飲んじゃうから言うんだよ。節制してって言ってんの、ダメって言ってないの、お爺ちゃんも歳なんだから気をつけてよ。しかもこれ、あたしが片づけんだよ!?」

「心配するなって、わしがちゃーんと片づけるんだから」

「そう言って、今まで一回でも片づけたことあった?」

「いいえ!」

「ボケんのはまだ早いでしょうよ」

「はい!」マリオはいい返事をした。

「またそうやって、返事だけいい」


 ココロは没収した酒瓶を返した。「まあ、今日くらいはいいよ」


「さすが、話のわかる可愛い孫だ。ココロも飲むか?」


 酒瓶を差し出されて、ココロは両手でそれを突き返した。


「いらないって、ダメだって言ってんじゃん。この間も酒場でお酒、勧めてくるし」

「ありゃ仕事場の連中だろ」

「止めないんだから一緒だよ」

「みんなココロが付き合ってくれないって寂しがってるぞ」

「もうちょっと大人になるまで待ってって言ってんじゃん」

「もう大人だろ」

「まだだよ」

「じゃあ、いつなるんだ」

「あたしが大人になったなあって実感するまで」

「そんなもん、結婚できる歳になったんだからもう大人だ」

「はいはいわかったから、とにかく大人になったらね。そしたら付き合うから」


 ココロが言うと、マリオは不満そうに顔を顰め、酒をぐっと飲み干し、口を拭った。


「おおそうだ。それよりこの人の寝床なんだがな」

「うん」ココロは床に転がった空の酒瓶を拾い、空いた皿を洗面台へ運んだ。

「ココロの部屋を貸してやれないか? 暫くの間、うちで寝泊りしてもらうわけだし」


 ココロは蛇口を捻り、汚れた皿を洗いながら返事をした。


「なんであたしの部屋? あたしは何処で寝んのよ」

「ココロはジョンとステラの部屋を使えばいいだろ」

「お爺ちゃんの部屋を貸して、お爺ちゃんがお父さんとお母さんの部屋を使うのじゃダメなの?」

「ダメってことはないが、わしの部屋はほら、足の踏み場もないし、ベッドも客人に使わせられるほどのもんじゃない。なんならココロがわしの部屋使ってもいいぞ?」

「それはイヤ、体が痒くなる」

「そうなるだろ? だから消去法だ」

「あたしはまあ、気にしないけど。リチャードさん、気にしすぎじゃない?」


 見ると、リチャードは酒瓶を抱えてうとうとしていた。


「ココロ、他人の家に厄介になるってのは普通、遠慮するもんだ」

「あたしは自分の家だと思ってくつろいでねって言われたら、我が家のようにくつろぐけど」

「そりゃ同じコロニー生まれは家族みたいなもんだからな。だが、この人はほら」

「……ああ、そういうもんなんだ」

「そういうもんなんだろう、とわしは思う。ま、他所のコロニーで厄介になったことなんてないからわからんが。とにかくこの人には、優しくしてやりたくてな」


 この歳で一人旅を続けている。晩年の冒険家と本人は言うが、大人であるマリオは、彼の抱える事情に気を遣った。理由でもなければ、たしかにこの歳で過酷な旅を続けるはずはない。

 お酒に溺れるのだって、何かを忘れたいからかもしれない。


「どうだ?」

「ま、そういうことなら」


 リチャードにベッドを使わせるのは特に気にならないし、両親の部屋を使うのも抵抗はない。

 ココロは洗い終わった食器を並べると、蛇口を閉め、部屋の移動に取り掛かった。

 自室にあるアタッシュケースとノートを、両親の部屋へ移した。

 その後すぐ、泥酔して動けなくなったリチャードを部屋に運び、ベッドに寝かせた。マリオは自力で部屋に戻ると、ベッドに大の字で寝転がり、地響きのような鼾をかいた。

 ココロは起きたばかりで寝付けなかったので、リビングの片づけをして、ミートに餌をやってから、両親の部屋へ戻った。


「結局あたしが片づけんじゃん」


 ココロは部屋の明りを点けると、椅子に腰掛けて暫くぼーっとしてからベッドに寝転がった。

 ベッドから、するはずもない両親の香りを感じた。

 覚えていないのに、とても落ち着く。


「お父さんとお母さんの部屋、か」


 ココロは幼い頃、ここで眠っていた時期があったことを思い出した。

 両親の墓が立って暫くは、両親の死を決して受け入れないと、頑なな気持ちをぶつけるようにここで眠っていた。


 私には、お父さんもお母さんもいる。


 私にだっているんだ。


 私にだって――。


 そう言い聞かせるように、寂しくて切ない夜をいくつも過ごした。


 ココロは瞼を開けて起き上がると、部屋の灯りを落とした。

 下でご飯をお腹いっぱい食べたミートが嘴で扉をノックした。

 ミートを部屋に入れると、ココロはベッドに潜り込み、不意に込み上げてきた幼い頃感じたあの孤独感から身を守るように、丸くなって瞼を閉じた。頭の傍でミートが同じように体を丸めると、ココロは少しほっとした。


 今は違う。お爺ちゃんがいて、ミートだっている。


 ココロはミートの寝息を聞きながら、夢の世界へと落ちていった。


 その夜見た夢は、とても穏やかな、家族と過ごす、あたたかい夢だった。

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