第2話

 そもそもリナリアは、ハインツに嫌われていると思っていた。


 師団長であるカルスは魔導士棟に寝泊まりすることも多く、リナリアはそんな父のために着替えや差し入れを届けることがある。

 若い団員たちがリナリアに気さくに挨拶するのに対し、ハインツは彼女に冷たい一瞥をくれてすぐに目を逸らすような態度だった。


 そのたびにリナリアは、

「お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした。失礼します」

と縮こまりながら謝罪して逃げるように魔導士棟を後にしていたのだから、どこでどう彼に見初められたのかさっぱりわからない。


 婚約の挨拶と手続きのためにローレンス家を訪れたハインツは、銀糸で縁どられたローブに身を包んでいた。

 彼の所作は洗練された品のあるものだったけれど、リナリアに微笑みかけることはおろか相変わらず目を合わせようともしない。

「ハインツはシャイな男なんだ。許してやってくれ」

 カルスは笑っていたけれど、リナリアの母親と兄は眉をひそめていた。

 

 リナリアも、どうして自分が名指しされたのかますます訳が分からなくなった。

 魔導士部隊は実力主義であるため、師団長の義理の息子であろうが忖度は一切ないし、ハインツの実力をもってすればそもそも忖度など不要だ。

 出世欲でないのなら、婚約をなにかのカムフラージュか虫よけにしようとしているのかもしれないと思い至ったリナリアだ。

 

(お飾りの婚約者だなんて御免だわ。わたしはもっとキラキラでドキドキな恋がしたいんだから!)


 リナリアはどうにか婚約を解消できないものかと考えはじめた。

 そんなある日のこと。

 カルスへの届け物をした帰り道、魔導士棟の裏を通り抜けようとしたリナリアはそこにハインツの姿を見つけ、咄嗟に身を隠した。

 彼は女性の手を握って何かをボソボソ呟いていたのだ。


 何を言っているかまでは聞こえなかったが、その様子は裏庭でコソコソ逢引をしている男女にしか見えなかった。


 ハインツは浮気をしている。

 いや、もしかするとあちらが本命なのかもしれない。

 何にせよ浮気の証拠を集めて本人に突き付け、婚約を解消してもらおう!


 リナリアはそう決心し、その日からハインツの浮気調査が始まったのだった。



 幸いなことにカルスへの差し入れだと言えば、魔導士棟の敷地内へ顔パスで入れるリナリアだ。

 リナリアは学生のため毎日訪れるのは無理だし、さすがにそんなに頻繁で出入りしていてはハインツに怪しまれてしまうかもしれない。

 だから週に1回程度の調査ではあったが、それでも着実に現場を押さえている。


 この日もハインツが浮気相手に「かわいい」と言っている現場をバッチリ目撃したリナリアはグッとこぶしを握る。

 懐中時計で時刻を確認すると、バッグから手帳を取り出した。

 そして手帳へ日付とともに正確な時刻を書き込んだ。

 

 時刻の下にさらに場所と何をしていたのかを記入していく。

「ええっと……かわいすぎると言って……笑って……いた」

 

 先ほど目撃したあの光景を思い出すと、どういうわけか胸がチクチク痛む。

 ハインツとの婚約解消を目論んで浮気の証拠集めをしているのだ。まもなくその目標は達成されることだろう。

 それなのにどうして気持ちが沈みそうになるのか――その理由にリナリアは気付いていない。


 雑念を振り払うかのように首を振ると、リナリアは再び記録に集中した。

「何してるの?」

 誰かに後ろから声を掛けらても、リナリアは記入の完了を最優する。

「待ってくださる? 記憶が鮮明なうちにメモしておかなければいけませんの」


 リナリアが記録し終えて振り返ると、そこに立っていたのはなんとハインツだった。

 驚きのあまり飛び上がるようにして立ち上がったリナリアは、呼吸をするのも忘れて口をはくはくさせる。


「なっ……何をなさっているんですか!?」

 声を上ずらせたリリアナは、動揺しながら浮気の記録をつけている手帳を後ろ手に隠した。


(どうしよう! 後ろから手帳を覗かれたかもしれないわ!)


「きみの姿が見えたから、何をしているんだろうと思って追いかけて来たんだけど」

 そっちこそ何をしていたんだと問いたげな目でリナリアを見下ろすハインツが首を傾げる。


 ハインツのさらりと揺れる艶やかな黒髪や、顎にあてている綺麗な指先に思わず見惚れそうになったリリアナは、いやいやそうじゃないと首を振って雑念を払う。

 そして口角を上げて笑顔を取り繕った。


「クッキーを焼いたんです。それをお届けに上がりました。守衛さんにもそうお断りして入ってきていますのでご安心ください」

 こんなこともあろうかと、リナリアは誤魔化すためのクッキーを持参している。

 手作りというのも嘘ではない。


 リナリアがクッキーの包みを見せる。

 しかしハインツの疑問はいまだに解消されないらしい。

「それでなぜこんな場所に?」


「ですから! ハインツ様を探していたんです!」

 深く追求されると都合の悪いリナリアが大きな声を出し、押しつけるようにクッキーの包みをハインツに渡すと、彼は少し驚いたような表情で目を瞬きはじめた。

 

「もしかして師団長ではなく、俺にってこと?」


「もちろんです。婚約者なんですから!」

 ふんすと胸を張ったリナリアだったが、ハインツの戸惑う様子を見て突然不安に陥った。


(甘いお菓子はお好きじゃなかったかしら……? そういえば、天才魔導士だってことと浮気していること以外、この人のことを何も知らないわ)


「あの! クッキーがお好きでないなら、これは父に回しますので……」

 包みを返してもらおうとリナリアが手を伸ばす。

 しかしそれよりも一瞬早く、ハインツが包みを頭上に持ち上げてしまった。

 背の高さも腕の長さも劣るリナリアが両手を精いっぱい伸ばしても到底届かない高さだ。


(これはどういう状況? 嫌いなクッキーを渡された腹いせに意地悪しているってこと?)


 おもしろくないリナリアが包みを返してもらおうとムキになってさらに近づく。

 思いがけず至近距離で見つめ合うような形になったふたりは、同時にそのことに気づいてバッと体を離した。


(ハインツ様の頬が微かに赤く染まっているような……?)

 

 そう思っているリナリアの頬もまた真っ赤になっており、互いに火照った顔で再び見つめ合った後に同時に背中を向けた。


「甘いものは嫌いじゃない。ありがとう」

 背中越しに聞いた声はとても優しくて、リナリアがゆっくり振り返った時にはもうハインツは建物に向かって歩き出していた。

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