第6話 広がる世界と小さなスミレ②

 商店街には店が色々とある。そのうちの一つ、すみれが気に入っている、手作りのおかずが美味しい惣菜店あさひで買った特製コロッケ弁当(三百二十円)を食べながら、今日取ったメモを見返した。

 塩崎はすみれの「スミレの花が苦手」という一言から「育ててみたら」と返事をし、そこから手際よくスミレの花を鉢に植え、育て方を教えてくれた。

 花というのは膨大な種類があるが、その全ての生育方法が塩崎の頭の中に入っているのだろうか。だとすればそれは、ものすごいことだ。並大抵のことでは知識が身につかないだろう。

 塩崎は本当に花が好きなんだろうな、と思う。


「そういえば店長の名前も、花の名前なのかな。昨日聞いたけどわすれちゃった。なんか珍しい名前だった気がするけど……」


 すみれは塩崎の名前を思い出そうと頑張ったが、ダメだった。


「……今度のバイトの時、聞いてみよう」


 夕飯を終えてから、玄関に置きっぱなしにしていたスミレの鉢を持ってベランダの戸を開ける。それから邪魔にならない場所にそっと置いた。塩崎に教わった通り、直射日光が当たり過ぎない、屋根下の半分日陰になっている場所にした。 

 スミレは花屋で花束のメインになるような豪華な花ではなく、どこにでも咲いているありふれた花だ。それがすみれの劣等感を刺激する。まるですみれ自身もありふれてつまらない人間であるかのように錯覚させるから、好きじゃなかった。

 塩崎のフォローの仕方は正直かなり独特だったと思う。

「可憐な花だよ」とか「可愛らしくていいじゃん」とかではなく、「育てやすいし、多年草だから何年も楽しめる」と彼は言った。

 けれどその飾り気のない実直な言葉はなんだかとても塩崎らしい感じがしたし、花を植え替える時の手つきはとても丁寧だったし、ありふれたスミレを育てるための知識があんなにあるなんて驚いた。

 すみれはスマホでスミレの写真を撮り、それからこの花が一体どんな種類のスミレなのか画像検索をした。

 それによるとどうも、すみれが貰ったスミレは名前をスミレというらしい。

 ヒメスミレ、ノジスミレ、アリアケスミレなどスミレというのは日本だけで五十種類、世界には四百種類も存在していて、おまけに交雑しやすく自然、人工問わず日々さまざまなスミレが増えているのだとか。

 その中でもすみれが貰ったただのスミレは日本のスミレの代表種で、菫色とよばれる深紫色の花を咲かせる。草地に自生しているのが圧倒的だが、中にはアスファルトの隙間にも生えているのだとか。意外にたくましい。

 スミレについて調べていると、販売サイトや育て方、スミレの種類について掲載しているサイトまで思った以上に様々なウェブサイトが出てきて、それだけ人々から愛されている花なのだと感じられた。

 ベランダでは貰ったばかりの深い紫色のスミレが二輪、小さな深紫色の花を咲かせている。

 夜風に揺れるスミレの花を見つめながら、すみれはなんだか前より少しだけその花が素敵に思えた。



 すみれは講義がない時間は全て塩崎生花店でのバイトに当てた。

 塩崎は働いてもらえればなんでもいいらしく、朝少しだけ手伝いをし、講義を受けるために抜け、夕方に戻ってくるという変則的な働き方でも歓迎してくれた。

 土日は開店から閉店までずっと働く。

 働いてわかったのだが、すみれが思っていた以上に花屋の仕事は力仕事や水仕事が多く、大変だった。

 塩崎はかなりの仕事量をこなしていた。

 週に三日、早朝に市場に花を仕入れに行っているらしい。そうして買い付けた花を車で塩崎生花店まで運んでくると、まずは不要な葉や蕾を取り除いたり、バラの棘を取る作業を行った。

 塩崎は手袋をはめた手で一気に葉と棘をこそぎ落としているのだが、それが一体どうなっているのやらすみれにはさっぱりわからなかった。一つだけわかるのは、塩崎が花を手に上から下へと手をしごくと、なぜか葉も棘も一緒くたにとれて綺麗な茎が現れるということだけだ。のみならず、腰のポーチから様々な形の鋏を取り出しては、小さな蕾や花を切り落としたり、茎の先端をナイフで切り落としたり、鋭利な鋏で切り込みを入れたりしている。

 すみれは大型の冷蔵ケース(フラワーキーパーというらしい)から全ての花瓶を出して花を抜き出し、カビが繁殖しないようガラスの壁面を全て綺麗に拭き上げた後、奥の広い流し台で花瓶を綺麗に洗ってから水を入れる、という作業に徹した。

 これが結構時間がかかる。フラワーキーパーは大きいし、花瓶の数も尋常ではない。

 そんなことをしながら、流れるように花を扱う塩崎を横目で見た。


「バラの棘って、こうやって花屋さんで取り除いてたんですね」

「花屋で買った花に棘があったら嫌だろ」

「言われてみれば、確かに……気にしたことなかったです」

「花屋はそういう地味で目立たない作業が多い。次は水揚げだ」


 どうやら花の水揚げという作業を行うらしい。


「水揚げってのは、簡単に言えば茎が水を吸うために助ける作業のことだ」


 ある日の朝、塩崎はすみれに説明をしてくれた。


「花は農家で切った瞬間から鮮度が落ちていく。農家から市場、そして店まで運んでくる最中にどんどん元気が無くなっていく。このまま水に浸けても茎は水を吸ってくれないから、一度花に刺激を与えて水を吸いやすくしてやる、それが水揚げ」


 塩崎に指示されながら、すみれは鋏で花の茎を切っていく。これもただ切るのではなく、バケツに水を張り、ここに茎を浸した状態で切っていく。


「最近の花は耐久力が増しているからこうして茎を切るだけでも十分な効果が見込めるけど、俺は花ごとに一番合った方法で水揚げすることにしている」


 塩崎がそう言って花を水揚げするのを初めて見た時にはおどろかされた。

 ハンマーで茎を叩いたりするのは序の口で、茎を湯に浸したり、ガス台で茎の先端を炙ったりするのだ。


「湯揚げはキク科、焼き揚げはバラに向いてる水揚げの方法」


 すみれに言い渡されていた水揚げ作業が終わったので、今度は店頭に花の苗を並べる。

 花に触れ合っていると、いい香りが鼻腔を満たす。水揚げ作業中も、花の苗を並べるときも、フワッと自然な香りがしてすみれの心はなごんだ。香水のようにきつい香りは長い間嗅いでいると気持ちが悪くなるので好きではないのだが、生花の香りは好きだった。主張しすぎず、さりげなく寄り添うように香る。

 五月という気候がいい季節のせいでガーデニングに精を出す人が多いのか、すみれが働いている数日で苗ものがよく売れていた。

 補充しても補充してもすぐに売れてしまう。花の苗を買う人がこんなにもいるのかと意外だった。

 花の苗はポットの中に入っていて一つだけだと軽いのだが、何個も何個も合わさると土の分だけ重くなる。特に苗トレーと呼ばれる、十五個の苗が詰まったトレーを持ち上げるのは一苦労だ。


「気をつけて運んで。それ運ぼうとしたのが原因で俺のおふくろが椎間板ヘルニアになって今入院中だがら」

「お母さんも一緒に働いてたんですか?」

「元々親父とおふくろの店だったんだ。一年前に親父が死んで、俺が店長やることになって、おふくろと切り盛りしてたんだけど、ヘルニア手術で先月からいなくなって、バイトも定着しないしで大変な目に遭ってた」


 働き始めて気づいたのだが、塩崎は接客中やよほど作業に集中していたりしなければ、話しかければ普通に答えてくれる。営業中は無理だが、開店と閉店時ならばわりと会話に応じてくれた。

 そのタイミングの見極めに関しても、一週間ほど働いていれば自然とわかるようになった。

 なにせすみれは、人の顔色を伺うのに長けている。臆病で引っ込み思案な性格なので、「今話しかけても嫌がられないかな、どうかな」と常に考えているため、人の醸し出す微妙な機微に鋭いのだ。

 タイミングさえ間違えなければ普通に話してくれる塩崎はむしろありがたい相手だった。

 花の苗を並べたら、次は水やりだ。

 すみれは水やりというのはホースでバーっと撒けば終わりだと思っていたのだが、塩崎曰く「それだと泥が跳ね返って花や葉がダメになったり、そもそも土まで水が届かないからダメ」らしい。

 店頭に花の苗を並べたあと、両手で抱える大きさのバケツに水をたっぷりと汲み、ちいさなジョウロと共に店頭に向かう。そうしてバケツの水をジョウロに入れると、そうっと花の根元に水を注ぎ入れるのだ。この時、花と葉に水がかからないよう手で避けるのだが、乱暴にやると植物が傷つくので注意を払わないといけない。これを苗全てにやるので結構時間がかかる。

 その後に店の中と外を掃除すれば、これで開店準備は完了だ。


「花屋さんって、開店前にこんなに色々と下準備してるんですね」

「そう。冬場は暖房も使えないし、真水に手をつっこむし、重いものも運ぶし、棘や葉で手が傷つくことだってしょっちゅうだし、見た目ほど華やかな仕事じゃないんだよ。だから花屋に憧れて働きに来るバイトは、三日くらいで辞めちまう」


 そう言ってふと、塩崎はすみれをじっと見下ろした。


「織本さんは今日で、十日目だ」

「数えてるんですか?」

「みんなすぐ辞めるから癖になっちまった。ちなみに今のところ、最長記録は三週間」


 塩崎が指を三本突き出す。


「じゃあ、記録を更新し続けられるように、頑張ります」

「おう、そうしてもらえると助かる」


 こくりと頷いた塩崎の顔は至極真剣である。辞めないように頑張って働こう、とすみれはおもった。今のところ仕事は楽しいので、主に足手まといにならない方向に頑張るつもりだ。

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