第3話 きみとの出会いとカーネーション③
すみれが住んでいる街の商店街は、テレビで特集されるような大規模なものではないが、それでも近隣住民が買い物に来て賑わっている。個人経営の商店が多く軒を連ねる商店街で、しかもちゃんとお客が来るというのは今時珍しいだろう。
開店準備をして店の簡単な説明を受けていると、店頭で「すみませーん」という声が聞こえた。
塩崎は一旦動きを止め、表情筋を動かし、顔のストレッチのようなことを始める。それからくるりと背を向けた。
「はい、いらっしゃいませ」
塩崎はすみれに接していた時よりはやや明るい声を出し、客の方へと向かっていく。来ていたのは、五歳くらいの男の子を連れた父親だった。男の子はバケツの中にたくさんあるカーネーションの花束を一つ手に取ると、店の奥へと向かってくる。
「これくあさい」
まだ舌足らずに言いながら、レジ台の上に花束が置かれる。思わずすみれがにっこりしながら「二百十円です」と言えば、男の子は父親に教えてもらいながら、硬貨をトレーの上に置いた。
「ちょうどいただきました。ありがとうございました」
「おかあさん、よろこんでくれるかなあ」
「きっと喜ぶよ」
男の子は左手で今買ったばかりの花を抱え、右手を父親と繋ぎながら店を去っていく。きっとこれから帰って、花をプレゼントするのだろう。
この親子を皮切りに、店にはどんどんと客がやって来た。
父親と小さい子供の組み合わせが多いが、小学生が一人で来る場合もある。中学生や高校生が来る時もあった。大体、みんな、一輪のカーネーションを買っていく。おかげさまですみれはレジからほとんど動かず、二時間ほどずっと「二百十円です」「ありがとうございました」以外喋らずに済んだ。
母の日に花屋が混むのはなんとなく知っていたが、ここまでの盛況ぶりとは思わなかった。レジの前に列ができないように、すみれはがんばってお客さんの応対をする。
その間塩崎が何をしているのかと言えば、予約している品を取りに来たお客さんの対応をしたり、お客さんから言われたアレンジメントを作ったりしていた。棒立ちのすみれとは違い、決して広いとはいえない店内をあくせくと動き周り非常に忙しそうだ。もっと何か手伝いをした方がいいのだろうかと思わないでもなかったがすみれにはどう動いていいかさっぱりわからないし、目の前には一輪のカーネーションを持ったお客様がこぞって押し寄せているので余計なことは考えずただひたすら二百十円のカーネーションを売ることにする。
塩崎は今、店の奥のテーブルで、おそらく近所のなじみなのであろうおじいさんから注文された花束を作っている。そのおじいさんは頭にベレー帽を被っていて、グレーのチェックの薄手のセーターを着ている、なかなかお洒落なおじいさんだった。
「竜胆くんも知ってると思うけど、家内は誕生日が母の日と近くてね。今年はまるきり被ってしまったんだよ。『カーネーション以外の花にしてよね』って言われ続けているもんだから、まいってしまうよね」
「奥様がお好きなミッチャンにしました」
「いつもいつもすまないねえ。家内はミッチャンが大好きで」
「可愛いですよね、ミッチャン」
すみれはレジ対応をしながら、ミッチャンとは一体なんなのだろうと気になった。花の名前なのだろうけど、どんな花なのか想像もつかない。
「じゃあ、竜胆くん、また来るから」
「いつもありがとうございます。またご贔屓に」
塩崎にお金を直接渡したらしいおじいさんが、店の奥から花束を大事そうに抱えてすみれの前を横切っていく。不自然にならないよう伺い見たが、残念ながら花束の中までは見えなかった。
午前に開店した塩崎生花店は、夕方の五時までノンストップで営業し続けた。
ひっきりなしに訪れるお客さんの目当ては、やっぱりほとんどカーネーションだった。二百十円のカーネーションが飛ぶように売れていく。もはや一生分のカーネーションを目にした気分だ。
朝に仕込んだ一輪の花束がなくなり、他のアレンジメントもなくなったところで、塩崎は「カーネーション売り切れ」と書いた札を店先に貼った。
「おしまい、ですか?」
「ああ。売れるカーネーションがなくなっちまった。もう少し仕入れても良かったかな……」
これで終わりかと思ったその瞬間、背後から幼い女の子の声がした。
「あのぅー、カーネーションくださいっ」
すみれと塩崎が同時に振り返る。そこにいるのは、まだ四歳ほどの小さな女の子だった。やはり父親と手を繋いで立っている。時間からして、きっと保育園帰りに立ち寄ったのだろう。父親の手には駅の反対側にある大型スーパーのビニール袋が握られていて、カレールーのパッケージが透けて見えた。もしかしたら今夜は、二人でカレーを作るのかもしれない。
「すみません、もう売り切れました」
塩崎は女の子に対して情状酌量など全くしない、抑揚のない機械的な声でそう告げる。
「えっ」
女の子は、非常にショックを受けたようだった。小さな体を震わせて、目にはみるみる涙が溜まっていく。父親はかがんで、女の子に声をかけた。
「仕方ないよ、他の花にしようか」
「やだっ」
思いのほか力強い拒絶の言葉が女の子の口から飛び出る。
「ははのひはカーネーションって、きまってるんだもんっ」
「でもほら、もう売り切れてるみたいだし……バラはどう? お母さん、バラも好きだから喜ぶよ」
「やだ、カーネーションじゃないといやだぁ!」
女の子はその場で地団駄を踏み、泣き出した。
すみれはハラハラと塩崎と親娘とを見比べる。塩崎はむっつりした表情で女の子を見ていたかと思うと、突然裏に引っ込んだ。
どうするのだろう、まさかこのまま、店じまいを始めるつもりなのだろうか。それはあまりにも無情すぎないか。
そう思っていたすみれだが、意外なことに塩崎は一本のカーネーションを手に戻ってきた。
それは、先ほどまで売っていたものに比べ茎が短い。
「あんまり状態がよくないので切り落としたものなんですけど、これでよければ」
「わぁ、カーネーション!」
状態が良くないと塩崎は称したが、すみれの目からすれば他とあまりかわらないみずみずしいものだった。
「だめな花びらだけ取ってあるから、ちょっと小ぶりかもしれないけど」
「全然いいです、十分です」
父親が助かったとばかりに頭を下げる。
「お代は……」
「捨てようと思っていたものなので、花代は要りません。ラッピング代で三十円だけください」
「はい」
塩崎はラッピング代の三十円だけ受け取ると、素早くカーネーションを薄桃色の不織布と透明なフィルムで包み、赤いリボンをかけた。そうしてしゃがみこみ、女の子と目線を合わせてカーネーションを差し出す。
「はい、どうぞ」
「わぁい、ありがとう!」
「どうもありがとうございます、助かりました」
「いえ」
愛想に欠ける塩崎に、女の子は満面の笑みを送り、父親は会釈をする。弾むような足取りで帰っていく女の子の動きに合わせ、父親が持っているスーパーのビニール袋が揺れた。
「やれやれ、助かった」
親娘を見送った塩崎がそう言うと、すみれを振り返る。
「ありがとう、もうあがっていいよ。ちょっとまってて」
塩崎はレジを操作してから奥へと引っ込むと、茶封筒を手に戻ってきた。
「これ、今日のバイト代。一時間千円で、一万円入ってるから」
「ありがとうございます」
すみれは思いがけない臨時収入を両手でありがたく受け取り、頭を下げたところで限界がきて、その場にへなへなと崩れ落ちた。もう全然力が入らない。塩崎が怪訝そうな声を出す。
「大丈夫? 具合悪いの」
「違うんです、お腹が……」
「腹?」
「……お腹が、空いて……」
その時、すみれのお腹の虫が盛大にぎゅるぎゅると鳴った。
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