臆病なわたしと花屋のきみ

佐倉涼@4シリーズ書籍化

第1話 きみとの出会いとカーネーション①

 階下で食器が割れる音がしてすみれは目を覚ました。

「あらららら」と焦っているようでのんびりした声と、「何をやってるんだ」という呆れた声も同時に聞こえて来た。

 すみれの間借りしているアパートは壁が薄いのでよく物音や声が聞こえる。

 ベッドから身を起こすと、上京する時に自分で選んで取り付けた植物柄のカーテンから陽の光が差し込んでいた。

 ベッドサイドにあるスマホを手に取り時間を確認する。まだ朝の六時。

 今日は日曜日で講義もないから、起きるには早い。

 早いのだが、なんだか妙にすっきりと目が冴えていたので、そのまま起きることにした。

 ワンルームの部屋は大学生の一人暮らしにしては少し広く、十畳ある。

 部屋を横切りキッチンに行き、何か朝食になるものを探した。が、何もない。

 パンもなければごはんもなかった。カップラーメンならあったが、朝からラーメンはちょっとなぁ、と二の足を踏んでしまう。冷蔵庫を開けてみても、そこには何も入っていない、ほとんど空っぽの状態だ。


「……コンビニに行こうっと」


 仕方がないのでコンビニに行く準備をした。外階段を下ると、大家の奥さんが庭に出て何やら作業をしているのが見えた。奥さんはガーデニングが趣味らしく、庭にはさまざまな植物が植えられているのを知っていたが、それが何の花なのかまではすみれにはわからない。ただ、生垣は綺麗に切り揃えられ、芝生はいつも均一に刈られ、そして花壇や植木鉢には春の花が咲いている。すみれにわかるのは、せいぜいがチューリップくらいなものだ。大家さんは階段を下る音ですみれに気がついたらしく、上体を起こしてこちらを見てくる。


「あら、すみれちゃん、おはよう。早いわねえ」

「おはようございます。なんだか目が覚めちゃって」

「もしかしてさっきのお皿を割った音で起こしちゃったかしら」

「いえ、そういうわけじゃないです」

「そうお? うち、壁が薄いから音が筒抜けでしょ? もし何か気になることがあったら言ってちょうだいね」

「はい」


 会釈をしてからすみれはそそくさとアパートを後にした。

 すみれが借りているアパートに賃貸用の部屋は一部屋しかない。一階に大家さん夫婦が住んでいて、二階にすみれが住んでいる部屋のみという少々変わった物件だ。アパートというよりも二世帯住宅と言ったほうが正しいような作りをしている。

 すみれが大学に合格し上京する時にたまたま見つけた物件で、下見もしないで決めたのだが、なかなかいい部屋だと気に入っている。物音が聞こえると言っても、七十代の老夫婦が二人で住んでいるだけなのだから大した音などしない。せいぜい午後十時くらいまでテレビの音が聞こえたり、洗い物の音がしたり、時折話し声がするくらいで、気になるほどではなかった。初めての一人暮らしで若干の心細さがあるすみれにとっては、むしろそうした生活音は安心感さえ与えてくれる。

 家から一番近いコンビニに行くためには、商店街を抜ける必要がある。

 今時珍しく、すみれが住んでいる街の商店街はシャッター街とはほど遠く活気に満ちているのだが、早朝の商店街はまだどの店も閉まっていた。

 人気がほとんどなく、閑散としている商店街の中を歩いてコンビニに向かう。道すがら、一軒の店のシャッターが空いていることに気がついた。

「塩崎生花店」と書かれているその店は、読んで字の如く花屋だ。大学と家の往復時に通り過ぎるだけで入ったことなどなかったが、こうして一軒だけ空いているとなんとなく気になってしまう。

 ふと目を向けると、ガラス張りの店内には一人の青年がいた。長袖の黒いノーカラーシャツ、同色のチノパン、腰には美容師がよく装備しているようなハサミがたくさん入ったポーチのようなものを巻き、エプロンを締めた青年は柔らかな少し癖のある黒髪で、二十代前半ほどに見える。花屋という場所がとてもよく似合う、穏やかな顔立ちの男の人だった。

 青年は一心不乱に花束を作り上げていた。なんの花を使っているのか、花に疎いすみれにもわかる。あれはカーネーションーー母の日用のものだろう。一輪の真っ赤なカーネーションを、薄いピンク色の不織布と透明なフィルムで丁寧に包み、それから花と同じ色の赤いリボンをかけている。青年の作業する机の上には、赤やピンク色のカーネーションが山と積まれており、まるで綺麗にラッピングされるのを今か今かと順番待ちしているかのようだった。

 今日は母の日だったと思い出したと同時にそういえば今年の母の日には贈り物をしてあげられないな、と思う。

 毎年カーネーションを贈っているのだが、上京している今、贈り物はできない。ゴールデンウィークに帰ったのだからその時に一週間早いがプレゼントをすればよかった。夏に帰った時に、ひまわりでもプレゼントしよう。


「ねえ、あんた」

「ひゃっ」


 そんなことを考えながら、ぼーっと突っ立っていたのがいけなかった。店の中を見つめていたすみれを不審に思った花屋の青年が、扉を開けて出て来てしまった。

 急に声をかけられて、すみれは変な声をあげてしまった。青年は不審そうな顔をしながらすみれを見下ろしている。整った繊細そうな顔立ちで、眉が吊り上がり唇がへの字に曲がっていた。垂れ目の瞳で見下ろされ、あれこの人目の下にすっごいクマがあるなと気がつく。

 なんというか顔色の悪い人だった。病気とはまた違う、過労? 過労な気がする。すみれの父が仕事が忙しくて連日深夜に帰って来た時、この人と同じような顔をしていた。

 そんな過労気味っぽい青年は、すみれに対してさらに話しかけてくる。


「こんな朝っぱらから、もしかして暇?」

「え、あの……」

「暇ならちょっと手伝ってくんない」

「え、えっと……」

「今から始める短期バイト。今日限定」


 青年は、穏やかそうな見た目に反して口調と圧が強かった。何よりもくっきりとしたクマがある目で見つめられると、なかなかにプレッシャーを感じる。そして笑顔がない。こういうのも目力っていうのかな、などと考えながら、基本的に気弱で押しに弱いすみれは首を縦に振ってしまった。


「は、はい。やります、アルバイト」


 口からこぼれた言葉に、せめて朝ごはんを食べてからにするべきだろう、なんて押しに弱いんだと自分で自分を呪った。


+++

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